12.5話 原作のジェニー
雨が、降っている。
真っ黒な空からざあざあと。まるでこの屋敷だけ世界から隔離されているようだ。いつものようにカーテンが開け放たれている部屋は、今は薄暗い。普段ならベッド横に立っているナタリーは、床に手をついて項垂れている。ベッドに寝ているはずの奥様は、腕をだらりと垂らして口を開けている。
心臓の音が耳元で響いているようでうるさい。雨の音と混じって何も聞こえない。時が止まったみたいに、誰も何もできない。旦那様を除いて。
ガシャン!! と水差しが床に叩きつけられて割れた。その音で我に返る。そうだ、アレン様の部屋にいたら叫び声が聞こえて、私だけ様子を見に来たんだった。それなのに、まだ部屋にも入れていない。扉前で止まった足は床に固定されてしまったようだ。ぴくりとも動かない奥様から目が逸らせない。
部屋の雰囲気で分かってしまう。……どういう状況なのか。
「ッどうして、どうしてだ!? どうしてアレクシアが、死ななければならない!?」
「旦那様! 落ち着いてください!!」
ようやく旦那様が叫んでいる言葉を頭が理解し始めた。先程から部屋の中で暴れている旦那様をリカードさんが必死に抑えている。イサックも駆け付けた他のメイドもお医者様も、それを見ているだけで動けない。手伝わなければと思うのに指一本動かせない。瞬きもできない。思考だけが加速して、じわりと視界がゆがむ。
――奥様が、亡くなられた……。
息がうまくできない。いつかこんな日が来るかもしれないと覚悟していたはずなのに。
アレン様が生まれてまもなく8年。体調を崩して寝込むことが多かった奥様は、先月どこから感染したのか、疫病にかかってしまった。それが疫病だとわかったのもつい先日だった。
神殿の神官様もお歳で治癒は叶わず、特効薬もなく、徐々に弱っていく奥様に何もできなかった。私は、私たちはただ見ていることしかできなかった。優しいあの方を、身分を問わず温かく扱ってくださったあの方を、見殺しにしてしまった。
「聖魔法も効かない! 薬も効かない! 本人の気力と免疫に頼るしかないと言われたからそれを信じて突き放した! その結果がこれか!? 疫病に耐える体力もないのに、特効薬も作れないだと、この役立たずが!!」
「旦那様っ!!」
ベッド傍にいたお医者様を殴り飛ばそうと腕を振り上げる旦那様を、リカードさんが止める。旦那様はそれを力づくで振り払って、怒りのまま近くにあった椅子を蹴り飛ばす。壁に当たった椅子が派手な音を立てて壊れる。
すべて目の前で起きているのに、どこか絵空事のように感じてしまう。
「アレクシア! お前なら、お前なら腹を立てて起き上がってくれると思っていたんだ、アレクシア、愛してたんだ、なんで、なんで……」
旦那様がぼろぼろと泣き崩れた。旦那様のやり方に問題がなかったとは言い切れないが、奥様を愛してらっしゃったことだけは確かだ。
だからこそ、もしかしたら、もしかしたらと勝手な希望を抱いて、ただ命令されるまま動いていた。学のない私にはわからないが、実は正しいことなのかもしれないと。
でも駄目だった。私たちがそんなことでは駄目だった。もっとできることがあったはずなのに、私は今まで何をしていたのだろう。不安と疑問を抱いた時点で行動すべきだったのに。命令に従っているだけでは駄目なのだとわかっていたはずなのに。旦那様の反感を買ってあのお方の傍にいられなくなったとしても、あの方のためにこそ、動くべきだったのに。
「――母様?」
静寂の中で聞こえた幼い声に、思考が止まる。振り返ると、部屋にいたはずのアレン様が呆然とした様子で立っていた。
「ッアレン様! どうして」
「お前のせいだ……!」
旦那様の声でハッとする。リカードさんを突き飛ばして、旦那様が杖を取り出した。恐ろしく恨みを込めた視線がアレン様に向けられている。
「お前が生まれたから……お前のせいで、アレクシアは……!!」
「旦那様っ!! おやめください!」
咄嗟にアレン様の前に飛び出して庇う体勢に入る。怒りで我を忘れた旦那様はもうアレン様しか見えていないようだった。止めようとするリカードさんとイサックは視界に入っていないらしく、杖を構えたままこちらへ向かってくる。
とても子供に向けるような視線ではない。思えば、昔からそうだった。奥様を誰よりも愛している旦那様は、アレン様のことを好かれてはいなかった。
「お前を産んでからアレクシアは弱くなった! お前のせいだッ!!」
叫び声とともに杖が振られる。水の刃が無数に飛び、それを止めようと旦那様と私たちの間に入ったイサックが吹き飛ばされて壁にぶつかる。その光景に体が勝手に固まってしまう。
とにかくアレン様を、アレン様を守らなければと思っていると、リカードさんが旦那様にしがみつきながら叫んだ。
「ジェニー! アレン様をお部屋へ!!」
その言葉で反射的にアレン様を抱え上げる。もうだいぶ大きく成長されたアレン様を抱えて速くは走れない。魔法を避けるために頭を下げ、アレン様の部屋に向かって必死に脚を動かす。早く、早くこの場から離れなければ。
「お前のせいだ! アレン!! お前がアレクシアを殺したんだ!!」
旦那様の声が廊下を揺らす。なんてことを、と唇を噛みしめる。こんなことなら様子を見に行くんじゃなかった。アレン様を1人にするべきじゃなかった。アレン様に見せるべきじゃなかった。こんな酷いことを、聞かせるべきじゃなかった!
旦那様おやめくださいと止めるリカードさんが魔法で吹き飛ばされたらしく、声が途切れた。壁に何かがぶつかる音がする。身も凍るようなその音に背中を押されるように、アレン様の部屋に飛び込む。
扉を閉めたところで脚の力が抜けてしまい、扉を背にしてずるずると座り込んだ。これ以上何も聞かせたくない。腕に抱えたアレン様をぎゅっと抱きしめる。しばらくは魔法を使う音と叫び声が響いていたが、やがて静かになった。
「……母様は」
腕の中で、消え入るような声でアレン様が呟いた。
「母様は、私のせいで死んだの?」
「っそんなことは、……!!」
すぐに否定しようと肩を掴む。アレン様の顔を見て、気付いてしまった。彼の絶望しきった表情に。私の言葉なんて、まったく届かないということに。
当たり前だ。だって私は彼に何もしてこなかった。傍にいて見守っていただけなんて、そんなのはいないのと同じだ。こうなるまで動かなかった使用人なんか信用されているわけもない。信頼関係を築こうともしてこなかったくせに、こんな時だけ都合よく想いが届くわけがない。
ボロボロと、光を失った瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。止めることもせず、私ではないどこかを見詰めたまま、アレン様が泣いている。奥様と同じ灰色の瞳。私はこの方が生まれた時から傍にいたのに。奥様にアレン様のことを任されたのに。奥様のこともアレン様の心も、守れなかった。
震える手でアレン様を抱きしめる。どうすれば、どうすればよかったのだろう。どうすれば奥様もアレン様も救うことができたのだろう。
望まれているわけがないのに、自分勝手にアレン様のお傍にいたいからと行動しなかった私に泣く資格なんかない。それがわかっていても勝手に涙が溢れてくる。私にもっと勇気があればよかったのだろうか。クールソン家から離されるようなことがあっても、犯罪に手を染めてでも、本気でこの家のために行動できる勇気があれば。覚悟が、あれば。
今更悔やんでも何も変わらない。時間が戻ることもない。奥様は生き返らない。いくら反省したってアレン様の心を救うことは私なんかにできやしない。
――ああどうか、誰かこの方を助けてあげて。
伝わらない想いの分もアレン様を強く抱き締める。私では駄目だ。旦那様でも、リカードさんでも。きっとこの屋敷にいる誰もそんな権利なんか持っていない。
――この方を愛して、幸せにしてあげて、誰か……。
神様、どうか。私の命と引き換えの願いでも構わないから。
この方に世界を変えるような愛を。素敵な出会いを。幸せな未来を、どうか。
===
「ジェニー、どうしたの?」
突然肩を叩かれて、ギクリとしてしまう。目の前の顔を見て我に返る。
「ナ、ナタリー。急にびっくりするじゃない」
「だってこんなところで立ち止まってるんだもの。ポットが冷めてしまうわよ」
そう言われ、思い出す。厨房から中庭にティーセットを運んでいるところだった。偶然、渡り廊下を通っているリカードさんと旦那様の姿が見えて、今朝見た夢を思い出してしまった。そこで無意識のうちに足が止まっていたらしい。
厨房にサンドイッチを取りに行っていたナタリーが戻ってくるまで固まっていたとしたら、もうポットは冷めているかもしれない。確認するとわずかに湯気は出ているものの、紅茶にはぬるくなってしまっていた。
「ご、ごめんなさい。もう一度厨房に行ってくるわ」
「珍しいわね、ジェニーがそんなミスするなんて。何か考え事?」
「ちょっと夢見が悪かっただけよ。何でもないわ」
ナタリーはふーんと顎に手をあてて、それから手に持っていたバスケットを突き出した。
「じゃあ、こっちを先に持って行ってくれる? 私が厨房に行ってくるわ」
「え、そんな。大丈夫よ。私が行くわ」
すぐに気を使われているのだとわかり、慌てて首を振る。しかしナタリーは無理やり私からトレイを奪うと、バスケットを手渡した。
「いいのいいの。最近奥様と一緒にお菓子を頂いてしまって、ちょっと太り気味なのよ。運動させてちょうだい」
「もう……本当にいいの? ありがとう」
「お互いさまよ。私が戻ってくる前にはサンドイッチをお届けしておいてね」
分かったわと頷いて、厨房に向かう彼女を見送る。ふう、と小さくため息をついてしまう。ただの夢なのに、どうしてこんなに嫌な気持ちになっているのだろう。仕事中に立ち止まってお湯を冷ましてしまうなんて。こんなミス、新人の時にもやったことがないのに。
気が緩んでいるのかしらと再びため息が出そうになり、気を引き締める。こんな顔で中庭に戻ったら心配させてしまう。今日はせっかくの、奥様とアレン様のピクニックなのだから。
バスケットを持ち直したところで、目の前から廊下を歩いてくる小さな人影に気が付いた。
「ああ、ジェニー」
「アレン様! 申し訳ありません、お待たせしてしまいましたか?」
急いで駆け寄ると、アレン様は首を振った。
「いや、何か運ぶのを手伝おうかと思っただけだ」
「ありがとうございます。ですが、それならば他のメイドに任せますので大丈夫ですよ」
貴族らしからぬアレン様の心遣いにもだいぶ慣れた。貴族としては浮いてしまうかもしれないが、アレン様の人間性を否定するわけにはいかない。奥様も何も言わないので、私がやんわりとお断りすることも多かった。
今回も同じようにお断りしたため、先に中庭に戻られるかと思ったが、何故かアレン様は動かない。
「どうかなさいましたか?」
もしや何かあったのだろうかと尋ねてみると、アレン様は私の顔に視線を向けた。
「君の様子が朝から変だったから、少し気になって」
「え……」
一瞬理解が追いつかず目を丸くしてしまう。つまり私のために、わざわざ奥様との時間を割いてまで来てくださったのだと気付く。嬉しいような申し訳ないような気持になり、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません。ご心配をおかけしました」
「謝らなくていい。私が勝手に気になっただけだ。……何かあったのか?」
アレン様が心配そうに首を傾げた。夢の話なんかするのはおかしいかもしれないと思ったが、良い言い訳も思いつかない。ここまで心配してくださっているアレン様に「何でもない」と言うのもあまりよくないだろう。
詳細は話さず、ぼんやりと嫌な夢を見たことだけを伝えた。少しずつ薄れてきてはいるが、未だに暗く重い気持ちが残ってしまっている。
「きっと眠りが浅かったのだと思います。さぁ、アレン様。早く奥様のところに戻りましょう。せっかくのピクニックなのですから」
アレン様と並んで廊下を歩く。以前は容易に抱えられていたが、確実に成長されているアレン様を抱えるのはもう難しいだろう。このまますぐに大人になっていくのだろうと思うと、実はお傍にいられる時間はそんなに長くないのかもしれない。
夢のこともあって、アレン様にはいつまでも幸せでいてほしいと思う。そのためなら何でもできる。もうはっきりは覚えていないが、夢のように後悔するくらいなら、命だってかける覚悟だ。
そう決意を新たにしていると、中庭に近付いたところでふいにアレン様が振り返った。
「私は今とても幸せだよ、ジェニー。君たちのおかげで」
答える前に、バスケットを持っているのとは反対の手を取られる。そのままアレン様に手を引かれる形で中庭に繋がる扉を通り、花壇の間を抜けて行く。
「だから、ジェニーにもちゃんと幸せになってほしい」
「アレン様……」
私はこの方に夢の内容を話しただろうか。アレン様の言葉は、まるで自分のために『私の幸せ』をないがしろにするなと言っているように聞こえた。
木漏れ日は暖かく、心の底に溜まっていた何かが溶かされていくみたいだ。アレン様と手を繋いで歩いていくと、お庭の端にある小さな池のほとりに、イサックと奥様の姿が見えた。こちらに気付いて笑顔で手を振っている奥様を見て、さらに嫌な気持ちが消えていく。
――数か月前まで、想像もできなかった。こんなに暖かい日が来るなんて。
この変化はアレン様のおかげだ。それは屋敷内の誰もが知っている事実。アレン様が動いていなければ、きっと奥様は今もあの部屋でベッドの中にいたのだろう。それこそ、夢で見たように。
木陰で立ち止まって、奥様に手を振り返しているアレン様に目を向ける。この方が優しくて強い方なのだと私は知っている。いつかそれがこの屋敷以外の人々にも伝わればいいと思う。セシル王子には、すでに伝わっているような気もするけれど。
「さて。ジェニー、一緒にピクニックを楽しもう」
「あ……お待ちください、アレン様。今日のピクニックは家族水入らずでとお伺いしていますので」
バスケットを届けたらイサックに護衛を任せて下がろうと思っていることをお伝えすると、アレン様はきょとんと目を丸くした。ご本人や使用人の一部は無表情だと思ってるが、傍にお仕えしているとそうでもない。
アレン様は不思議そうな顔をした後、私の手を握り直してそのまま歩きだした。
「なら問題ないな」
「え?」
「ジェニーも私の家族だろう」
手を引かれて木陰から出る。陽の光が池に反射して眩しくて、じわりと目頭が熱くなる。どうしてこの方は、こんなにも優しい言葉をくださるのだろう。
繋いだ手が温かい。ちょうど後ろから早足で来たナタリーが私の隣に並んだ。それに気付いてぐっと堪える。3人揃って池に近付くと、奥様が嬉しそうに笑ってぽんと手を叩いた。
「みんな揃ったわね! それじゃあピクニックを始めましょう」
暖かい日差しの中で、ピクニックが始まる。
今朝見た夢の記憶も、そこで感じた嫌な気持ちも、いつの間にかすっかり消えていた。