122.5話 スティーブンと酒
カラン、とグラスに入った氷が音を立てる。
目の前に座った彼女は頬を染めて目を潤ませた。普段とは違うその姿に胸が熱くなるのを感じつつ、そっと彼女に手を伸ばす。
力強くその手を掴んで、ジェニーさんは言った。
「もう、聞いてるんですか? スティーブンさん!」
「すみません、聞いてます」
さっきから何度も同じやり取りをしているのに可愛いなと思ってしまう。気分が悪いなら背中を撫でようかと思ったが、余計な世話だったようだ。
もう少し眺めていたい気持ちを押さえて水の入ったグラスを差し出す。
「でも、少しは水も飲んだ方がいいですよ」
「……いただきます」
彼女は不服そうな顔をすると、両手でグラスを受け取った。
来週はセシル王子の視察に付いて行くから会えないと報告したところで、それならと彼女から飲みに誘われた。
今までも何度か食事の席で飲んだことはあったが、彼女から誘われたのは初めてだ。かなり嬉しい申し出だったが、学園には自分しか護衛兵が付いてきていない。
セシル王子の傍を離れられないためどうしようかと迷っていると、護衛対象である彼から提案された。
『それなら君の部屋で飲めばいいじゃないか』
私の部屋はセシル王子と同じ学生寮の6階にある。学園に確認したところ特に飲酒が禁止という決まりもなかったため、許可を得てジェニーさんを部屋に招いた。
もしもの場合に備えて酔い覚ましの薬も用意して、彼女が持ってきてくれた酒をグラスに注いだ。そこまではよかった。
酒の度数が予想以上に高く、1杯目ですぐに彼女が酔ってしまった。
――これは、明日アレン様に怒られそうだ……。
彼が怒っているのを見たことはないけど、と心の中で呟く。ジェニーさんにも後で薬を分けようと思っていると、少し落ち着いたらしい彼女が口を開いた。
「スティーブンさんはご存知ですか? アレン様が王様に願ったことを」
「ああ、確かご自身とはまったく関係のない願い事でしたね」
ジェニーさんはアレン様から直接聞いたらしい。私はセシル王子の護衛をしていたため、王妃様と話してらっしゃるのを間接的に聞いた。本来なら漏らしてはならない情報だが、彼女も聞いているのであれば問題ないだろう。
「そうなんです! 直前まで悩んでらっしゃったのですが、やっぱり望むならそれしかないと。……本当に、昔からあの方はいつも人のことばかりで」
両手で握られたグラスに水を追加して耳を傾ける。彼女はぐいと水を飲んで、つらつらとアレン様の話を始めた。
「6歳の頃には好物のはずの肉料理を、自分の分もすべて寝込んでいる奥様に出すようにと頼まれたことがありました。不遇な扱いを受けてお部屋の家具が少なかった時も、使用人の掃除の手間が少なくて済むから良いとおっしゃいました。魔力開放事件では目覚めてすぐセシル王子の心配をされて……」
彼女しか知らないような話が次々に飛び出す。私やセシル王子が見ているアレン様の姿は、きっとほんの一部なのだろう。
ジェニーさんはすっと手を伸ばして酒の入った瓶を掴んだ。そのまま水が入ったグラスに追加で注ぐ。止めようか迷ったが、今は落ち着いているようなので様子を見守ることにした。
再びグラスを傾けて、彼女は続ける。
「授業で怪我をされたのも他の生徒を庇ってのことだったと伺いました。ロニー様と出会ってからは雷雨の度に添い寝をされていましたし、聖女祭では受け取った花束を何の躊躇いもなく少女にお渡しになって。周りのご令嬢に熱い視線を送られていたのは全くお気付きになりませんでしたが」
聞こえた言葉にグラスを持ち上げかけた手が止まる。さすがに初耳の情報が多かった。アレン様が昨年の聖女祭に参加されていたのも知らなかった。
でもそれよりもっと聞き捨てならない話があったような気がする。念のため、顔を赤くしている彼女に確認する。
「ロニー様というのは、臨時入学されていたロニー・ランプリング様ですか?」
「ええ、そうですよ」
「今おっしゃった『添い寝』というのは一体……?」
「そのままの意味です。アレン様は幼いロニー様が安心して眠れるようにと、何度か同じベッドでお休みになっていました」
それを聞いて自分の聞き間違いではなかったようだと理解する。同時に、これは絶対にセシル王子には言わないようにしようと胸に刻んでおいた。
ロニー様はまだ幼いから問題にはならないだろう。セシル王子が実際にどう感じるかもわからない。しかし、確実に羨ましいと思うのだけは目に見えていた。
――セシル王子がアレン様を無防備だとおっしゃっている意味が分かりました。
傍から見れば、アレン様には隙がない。気配に敏感で、小さな物音にもすぐに反応している。ジェニーさんから聞いた話では体術の訓練もされているらしい。
魔力量もセシル王子と変わらずかなり多いため、魔法を使われたら並みの護衛兵では歯が立たないだろう。自分の強さに自信があるから無防備なのかと思っていたが、どうやらそういう意味ではなかったようだ。
恋愛面ではむしろ隙だらけなのかもしれない。女性に向けられる視線には気付かず、男性相手ではそもそも自分が恋愛対象になると思っていないのだろう。
そんな状態であれだけ人に好かれていたら、確かに心配になるのも頷ける。
ふと、2年前の長期休暇が頭に浮かぶ。森で蜘蛛の魔物に出会った時の様子を考えると、おそらくアレン様の精神面はそれほど強いわけではない。むしろ弱さを悟られないよう、普段は心を強く見せようと努めているだけのような気がする。
「セシル王子はどうでしょう? カロリーナ様との婚約者候補は解消されたとか」
いつの間にかグラスを空にしていたジェニーさんがテーブルに頬杖をついて首を傾げた。いつもそんな仕草をすることはないのに。気を許してくれているのだと分かり、頬が緩むのを感じながら彼女のグラスに水を注ぐ。
「はい。カロリーナ様をいつまでも候補に縛り付けておくのは申し訳ないと、立場を自由にするために解消されたようですね」
「ああ、カロリーナ様のためでしたか……私はてっきり」
その後に続く言葉はない。ジェニーさんがグラスに口を付けたからだ。私も同じように酒の入ったグラスを傾けて、何と答えるべきか考える。
「まぁ……大きな変化はありませんね。元から婚約者ではなく候補でしたから」
「そうなんですね。先日は暗くなってからアレン様とおふたりで寮に戻ってこられたので、何かあったのかと勘繰ってしまったのですが」
「いや、何もないと思いますよ」
苦笑して返しながら、何もなかったはずだと数日前のことを思い出す。寮に戻ったセシル王子に生徒会の仕事で遅かったのかと尋ねたところ、返ってきたのは『秘密』という短い言葉だけだった。
妙に嬉しそうな様子だったが、アレン様は普段と変わりなかったように思う。ということは改めて気持ちを伝えたというわけでもないのだろう。
セシル王子が朝の聖堂でアレン様に会ったあの時。完全に2人だけの世界になっていたし、セシル王子に至っては私の存在を忘れていたようだったが、あの場には護衛兵である私もいた。
空気を読んで気配を消していたとはいえ、まさか告白するとは思わなかった。あの時アレン様がその意味を正しく理解してしまっていたら、今の状況はまた違っていたかもしれない。
セシル王子の気持ちは昔から知っているし幸せになってほしいと思っている。しかしジェニーさんの主であるアレン様にも、同じく幸せになってほしいと思う。
――どういう関係が正解なのか、私には分からないな。
セシル王子にはアレン様を巡る好敵手もいるようだし……と考えていたところで、ジェニーさんがうつらうつらと眠そうにしていることに気付いた。
「ジェニーさん、大丈夫ですか? そろそろ休んだ方が良いのでは」
「そうですね……」
今度飲むときはもっと弱い酒を用意しておこうと思いつつ、椅子から立ち上がって彼女を抱え上げる。
ジェニーさんは少しだけ目を丸くしたが、そのまま身を委ねてくれた。酔っているせいか普段より積極的な気がする。
足元に気を付けて慎重にベッドまで運び、そっと下ろす。
「先に休んでいてください。片付けをしてきますので」
私がそう言うと、彼女は何かを考えるように視線を動かして小さく頷いた。酒のせいで熱を持った瞳に見上げられてドキリと心臓が跳ねる。
つられるようにメイド服とは違う薄い服に手を伸ばしかけ、ぐっと堪える。
――いや、彼女の許可なく必要以上に触れるわけには。
素早く毛布をかけてベッドに背を向ける。以前、酔っている時は普段より大胆になるからあまり信用しないでほしいと言われたことがある。
気持ちを落ち着けようと深く息をついて、テーブルへ足を向ける。
実際に付き合うようになったのは数か月前だが、互いに仕事をしているためそれほど一緒に過ごす時間はない。改めて考えれば、夜に食事以外で共に過ごすのは初めてかもしれない。
ほぼ未開封の瓶を集めながら頭に疑問が浮かぶ。彼女は酒に弱いことを自覚しているのに、何故こんなに度数の高い酒ばかり用意していたんだろう。
私を酔わせて何か聞きたい話でもあったんだろうか。それとも、まさか。
――私と、一歩先に進みたいと思ってくれているんだろうか。
そう考えるとそわそわしてしまう。しかしいくら部屋に防音の魔道具が設置されているとはいえ、ここは貴族の学生寮だ。護衛の仕事もあるし、万が一の場合に備えておかなければならない。
――でもそれなら、むしろ今しか機会がないのでは……?
護衛兵に休みなんか滅多にない。あったとしても昼間くらいだ。ジェニーさんもそれを分かっているんじゃないだろうか。だからこそこうして酒を用意して、普段より薄着で過ごしているんじゃないだろうか。
それが彼女に求められていることなら答えないのは失礼かもしれない。据え膳食わぬは男の恥という言葉がどこかの国にあると聞いたこともある。
覚悟を決めるべきかと顔を上げたところで控えめなノックの音が聞こえた。ギクリと心臓が跳ねるのを感じつつ、慌てて扉に駆け寄る。
もしや仕事だろうか。扉越しに気配を確認して鍵を開けると、そこに立っていたのは意外な人物だった。
「あ……アレン様?」
「すまない、こんな時間に」
青い髪を下ろした彼は、手に持っていた物を差し出して言った。
「私の部屋の合鍵だ。ジェニーが落としていったようだから届けに来た。明日の朝、部屋に入れなかったら困るだろうと思って」
彼はジェニーさんがこの部屋にいると知っていたらしい。彼女に直接渡さなくていいのだろうかと思ったが、ひとまず「お預かりいたします」と鍵を受け取る。
彼はちらりと部屋の中に視線を向け、次いでこちらに向き直った。
「スティーブン」
「は、はい」
彼に直接名前を呼ばれるのは珍しい。なんとなく肩に力が入る。
アレン様は小さく息をついて踵を返した。
「あまりうちのメイドに無理をさせないように」
それだけ言ってスタスタと廊下を歩いていく。これは許しをもらったと考えるべきか、今はまだ手を出すなと釘を刺されたのか。
分からないが、彼女を任されたのは間違いなさそうだ。
――信頼、は……されてそうだけど。
不思議なことに、アレン様と対面すると時々私よりも年上のように感じてしまうことがある。間違いなくセシル王子と同じ年のはずなのに、それだけ彼が落ち着いているということだろうか。
受け取った鍵を握り締めて部屋の奥へ向かう。
一足遅かったらしく、ベッドからは気持ちよさそうな寝息が聞こえていた。