122話 屋上 ◇
屋上へ繋がる階段を見上げて廊下を見回す。周囲に生徒の姿がないことを確かめ、一度も踏んだことのない階段を上る。
壁と同じ色をした小さな扉に学園長から預かった鍵を差し込むと、カチッと小さな音が踊り場に響いた。
眩しさに目を細めながら扉を開ける。ふわりと風が吹き、花の香りがした。招かれるように足を踏み出す。背後でパタンと扉が閉まった。
「……すごい」
思わず呟きが漏れる。屋上を囲む白い柵がほとんど視界に入らない高さだからか、庭園ごと空に浮かんでいるようだ。
中庭では見たことのない花がいくつも咲いていて、その間を細い道が通っている。中心辺りに小さなガゼボが立っているのが見え、足を進める。
素敵なところだなと思いながらガゼボ内のベンチに腰を下ろす。裏山がある方向に校舎の壁と扉があるため、周りには本当に何もないように見えた。
せっかくなのでもう少し散策したいところだが、陽は徐々に傾いてきている。ひとまずここに来た目的を果たそうと懐から白い封筒を取り出す。
家名も何も書かれていない手紙を開いて目を丸くしてしまう。なんとなく予想はしていたが、内容はほとんど愛を伝える言葉で埋められていた。
前世でもここまで熱烈なラブレターは受け取ったことがない。気持ちは嬉しいが、ここまで好かれる心当たりもない。
――彼女とは初めて会ったはずなんだが……。
手紙の最後には『ベル』と愛称だけ書かれている。生徒会の名簿を見れば名前は分かるかもしれないが、どうやって返事をすればいいんだろう。
直接会って断るしかないのだろうか……と、迷う間もなく断り方を考えている自分に苦笑する。
聖魔力を持っていることが広まってからクールソン家に届く手紙の量は増えていた。ほとんどは娘を婚約者候補にと家族が推薦しているものばかりだ。そうでなくても、公爵家の長男という立場はそれなりに人気らしい。
さすがに1人で返事を書くには時間が足りず、今はまだ決める気がないという意味を込めた定型文を考えてリカードたちにも手伝ってもらった。
『まだ婚約者を決めなくていいの?』
ふいに、収穫祭でリリー先生に言われた言葉を思い出す。あの時素直に決めるつもりはないと答えていたら、彼はどんな反応をしていたんだろう。
――たぶん、理由を聞かれただろうな。
理由もないのに婚約者を求めない人はいない。と考えるのが普通だろう。定型文にも使用した『今はまだ』というのは、そういった追求を避けるための言い訳だ。
でもこの言い訳は、一体いつまで使えるんだろう。
学園を卒業して周りがみんな結婚して、独りになった時に理由を聞かれたら。何と答えれば怪しまれずに済むんだろう。やはり仕事を理由にするべきだろうかと呟きつつ、手紙を封筒に戻す。
収穫祭で出会った男性もこの手紙をくれた彼女も、人を好きになれるというだけで尊敬してしまう。その気持ちを表に出して伝えるのも、かなり勇気がいることだとわかっている。
だからこそ、それが私に向けられるのは申し訳ない。
恋はできるできないじゃなく、するかしないかは自分で決めてもいい。人生に必ずしも必要なわけではないし、誰かに強要されるものでもない。
乙女ゲームのエンディングを迎えた時にそれは理解できた。
でも『恋をしない』ことを人に『理解される』かは、また別の話だ。
これからも私はその話題が出る度に適当な嘘をついて、誤魔化して生きていくんだろうか。向けられる想いを蔑ろにして誰かを傷付けて、大事な人達にも本音を隠したまま。この世界で死ぬまで、ずっと。
――今更か。前世でもそうやって生きてきただろう。
自分も恋を理解していないくせに、人には理解されようだなんて。虫がいいにも程がある。
ふう、と息をついてベンチに座り直す。そよそよと柔らかい風が髪を揺らし、少しずつ瞼が重くなってくる。
恋をしないなんてわざわざ人に言うようなことでもない。気を使わせたいわけでも、無理して理解されたいわけでもない。ただ少し嘘をつく罪悪感が募っていくだけなら言わない方がましだ。
人と違うなんて、表に出しても良いことはない。
『それって自分が人と違う特別な人間だと思い込んでるだけじゃないの?』
また空耳が聞こえた気がした。これもいつかの記憶だろうか。誰に言われたんだったかと考えても思い出せない。
もしこれがただの思い込みだったとしても、人を悲しませるのは嫌だ。無駄な期待を抱かせるより、嘘の理由でも最初から断ったほうが相手のためだろう。
――恋をしなくても好いてくれるような、都合のいい相手がいるわけないしな。
胸の中に何か重いものがあるのを感じながら、そのまま眠気に身を委ねた。
===
屋上に続く扉を軽く叩く。耳を澄ましても返事はない。そっと手をかけると、扉は小さな音を立てて開いた。
鍵が掛かっていないことに驚きつつ、屋上へ足を踏み入れる。
生徒会長として書類の確認を済ませ、学園長室へ報告に向かった。そして帰り際、アレンに会ったら伝えて欲しいと学園長に頼まれた。
屋上庭園の扉は寮とは違い、自動で鍵が掛からないから気を付けるようにと。
――もしかして、と心配して来てみれば……。
静かに扉を閉めて鍵をかける。探し人はガゼボの中にいた。僕が来たことにも気付かず、すやすやと眠っているのを見て苦笑する。
鍵も掛けずに眠るなんて、無防備にも程がある。彼は自分がどれほど大事な存在かまったく自覚していないらしい。
ため息をついてアレンの隣に座る。今の彼は魔界の門を封印した聖魔力保持者として、以前よりさらに有名になってしまった。彼に婚約者がいないと気付いている生徒もいるし、僕の親友であることも知れ渡っている。
今まで屋上へ向かう生徒を見たことはないが、好奇心を抱いて扉を開ける誰かがいるかもしれない。中には彼を身内に加えるために、手っ取り早く既成事実を作ってしまおうと考える貴族がいてもおかしくはない。
それで彼が傷付くようなことがあれば僕も黙ってはいられない。アレンにはもっと自分を大事にしてほしいなと思ったところで、先月王宮で開かれた慰労会のことを思い出した。
学園の生徒という立場でありながら誰より早く国の危機に気付き最善の行動をしたとして、王である父上と1人ずつ謁見する機会を与えられた。
何か望みがあればこの場で申し出るようにと言われ、僕は婚約者候補であるカロリーナとの関係解消を願った。
それまで何も伝えていなかったため、かなり驚かれてしまった。彼女との関係は良好だったから余計疑問に思われたのだろう。
それでも別の相手に想いを向けたまま、大事な友人であるカロリーナと婚約するのは耐えられなかった。なにより僕の気持ちを知っている彼女にも申し訳ない。
カロリーナは僕の婚約者候補である限り、他に良い人がいても関係を結ぶことができない。それならせめて、学園にいる間に自由にしてあげたかった。
彼女とは事前に相談して許可を得ていた。スワロー公爵は王家の指示を待つと言っていたが、以前からカロリーナに解消する可能性があると聞いていたらしい。
話を聞いた父上は頭を抱えていたが、思ったよりあっさりと許してくれた。第二王子であるレオの存在が公表されたため、今はまだ僕に婚約者がいなくても問題ないと判断されたようだ。
子孫を残すのが王族の最大の義務だということは理解している。いずれ王にはなるが、もしレオにも男児が生まれなければ。その時は僕の意思に関係なく、王妃を迎え入れることになるのだろう。
傍で支えてくれる婚約者がいない難しさを説かれ、謁見の間を出ようとしたところで母上に声をかけられた。
『そんなに彼が大切なのね。……でも彼は、あなたに同じ気持ちを抱いていないかもしれませんよ?』
それは分かっていた。アレンからは親友としか思われていない。彼が誰かにそういう気持ちを向けているのを見たこともない。
だからこそ、彼に本当に大切な人ができるまで一番近くにいるのは僕でありたいと思った。その気持ちが僕に向いていなくてもいい。彼が幸せであればいいと。
即答した僕を見て、母上は眉を下げて笑った。そして彼のことを少しでも知るために、とアレンが父上に願ったことを教えてくれた。
各自、望み事は事前に考えていた。彼は謁見の間に入って父上に願いを聞かれた時、一切迷わずに答えたらしい。
『今回の件で闇魔力保持者と平民に対する差別が強まることのないよう、取り計らっていただけませんか』
珍しい本を手に入れるでも宰相への推薦でもない。彼が願ったのは、同じような事件が2度と起こらないようにするために必要なことだった。
特に闇魔法については、意図的に精神を操ることも魔物を呼び出すことも法で禁止されている行為だ。記憶を消す魔法だって聞いたことがない。そんな彼らの情報が表に出されたら、罪のない闇魔力保持者が疑われてしまうかもしれない。
結果的にマディが闇魔法で行ったことについては表に出されず、ルーシーの退学にもしっかりと理由が付けられた。アレンの言葉があったから、当初予定されていたよりも公にする情報を削ったらしい。
無関係の誰かを巻き込まないため、なんて。アレンらしいと思うと同時に複雑な気持ちになる。彼の願いはアレン自身には何も関係がない。彼は闇魔力も持っていないし平民でもない。
王に願う機会なんて滅多にないのに、本当にそれで良かったんだろうか。
――君が心から望んでいることは何なんだろう。
隣で眠っている彼を見る。そろそろ起こしてあげなければと思うが、気持ちよさそうに寝ているのを邪魔するのも心苦しい。
もう少し待とうかと寝顔を眺めていると、柔らかな風が吹いた。
こちらへ流されてきた髪になんとなく手を伸ばす。さらりと手から零れ落ちる鮮やかな青を見詰める。
髪を伸ばしている理由は特にないと彼は言っていた。しかし、こんなに長いのはさすがに維持が大変だろう。本当に何でもないのだろうかと疑ってしまう。
昔から一緒にいたのに聖魔力を持っていることも知らなかった。彼は分かりやすいと思っていたが、僕が考えている以上に隠すのが上手いのかもしれない。
「……君は、まだ僕に何か隠してるんじゃないか?」
聞いたところで素直に教えてはくれないだろう。でも、隠すのが辛くなったら話してほしいと思う。アレンであれば、僕は何を言われても受け入れられる。
そこで、足元からカサリと音がした。アレンが手に持っていた封筒が落ちてしまったらしい。拾い上げようと封筒を掴むと、中の手紙がするりと飛び出した。
書かれた文が目に入って一瞬だけ手が止まる。アレンはここで何をしていたのだろうと思っていたが、どうやらこの手紙を読んでいたようだ。
不可抗力とはいえ、人の手紙を勝手に読むのはよくない。急いで手紙を封筒に戻したものの、モヤモヤと胸の中に嫌な気持ちが残ってしまった。
この手紙を読んでアレンはどう思ったんだろう。これが今この場にあるということは、相手から直接手渡しで受け取ったはずだ。
今までの彼ならおそらく断わるとは思うが、確信は持てない。
そう考えて、ふと気付く。
――僕は彼とどうなりたいんだろう。
彼のことは好きだ。幸せになってほしいし幸せにしたいと思っている。でもあの日、聖堂で気持ちを伝えた時……それが『うまくいかなかった』ことに何故か少しだけ安心した。
彼が誰かに言い寄られていたら嫉妬してしまうし、一番近くにいたいと願っているのに。どうして、これでよかったと思ってしまったんだろう。
「……セシル?」
声をかけられてハッとする。ようやく起きたらしいアレンが、まだ眠そうな目でこちらを見ていた。珍しい表情にドキリとしてしまい、慌てて顔を逸らす。
「おはよう、アレン。こんなところで眠っていたら危ないよ」
「すまない。……君はどうやって入ってきたんだ?」
「扉に鍵が掛かっていなかったからね。寮と違って自動ではないから気を付けるようにと、学園長から伝言を預かってきたんだ」
そうなのか、と目を擦っている彼を見て小さく笑う。封筒を手渡して立ち上がると、アレンは薄暗くなってきた空を見回した。
「もしかして、起きるまで待っていてくれたのか?」
「僕がここに来てからそんなに時間は経っていないから、大丈夫だよ。生徒会の書類を早めに学園長室に届けてきたんだ。今週は準備をする時間も必要だからね」
「ああ、そうか。来週は視察に行くんだったな」
ベンチから立ち上がりながら、彼はぽつりと呟くように言った。
「1週間か。寂しいな」
「えっ?」
耳に届いた言葉に思わず目を丸くする。聞き間違いかもしれない、と確認のために口を開く。
「カロリーナもリリー先生も、ライアンたちもいるけど。寂しいのかい?」
「……? ああ、当然だろう」
アレンはきょとんとした顔をして答えた。その瞬間先程まで胸に渦巻いていたモヤモヤが消えていく。そして代わりに、温かい何かで満たされる。
僕がいないと寂しいと聞いただけでこんなに嬉しくなるなんて。なんて単純なんだろうとつい笑ってしまう。
――それなら……できるだけ早く帰ってこないとな。
「僕が不在の間、学園を頼むよ。副会長」
灰色の瞳と目を合わせ、手を差し出す。
意図に気付いたアレンは「もちろん」と頷いて、力強く手を握ってくれた。