116話 聖女と転生者②
いつもより狭い聖堂の中に色んな声が響いている。
白い服の神殿関係者が行ったり来たりして怪我人の治療をしている。ガチャガチャと薬の瓶を箱に入れて運んでいる人が目の前を慌ただしく横切っていく。
医者らしき白衣の人は、駆け足で部屋に入って行った。
「大丈夫ですよ、心配しないで」
「治療室のベッドが足りません!」
「動ける方はこちらで治療します」
「ルーシーさん、こっちも!」
名前を呼ばれて反射的に足を向ける。手を振っているアデルさんの傍にしゃがみ込むと、彼女は他のところへ指示を出しに向かった。
イケメンでも何でもないおじさんに治癒の魔法をかけながら、ふと考える。
――私、何してるんだろ。
何度口にしたか分からない同じ呪文を唱えて、走り回ってしゃがんで立ち上がってまた移動して魔法をかけて。休む間もなく魔力を消耗して。
鉄のような匂いに鼻が痛くなる。騒がしい声に頭が痛くなる。
「よかった、もう大丈夫だ!」
「ああ、ありがとうございます! 助かりました」
誰かの感謝の声を背中に受けながら、すぐに次の怪我人に手をかざす。いちいち反応する余裕はない。淡々と進めているからもう何人目かも数えてない。そんな暇なんてなかった。とにかく急がないと、と口の中で呟く。
――急ぐ? なんで?
「場所を空けて!」
「無理に運んでこなくてもよかったのでは」
「とにかく早く治療を」
バタバタと駆け回る神殿関係者が何か騒いでる。どうやら追加で怪我人が増えたみたいだ。手早く目の前の怪我人の治療を終え、新たに布の上に寝かされた女性の元へ向かう。
今まで見た誰よりも酷い怪我だ。腹部から出血しているのか、止血用の布も意味がないくらい真っ赤だった。顔が強張るのを感じつつ、しゃがんで手をかざす。
「ヒール!」
白い光が彼女を包むが、なかなか血が止まらない。最初にこの場所で治療を始めた時に比べると光も弱々しい。魔力が少なくなっているのだと体感で分かった。
目の前の女性は目を開いているけど焦点が合ってない。どこか分からない空中を見ていてぞくりとしてしまう。何か嫌な予感がして、手に力が入る。
「ちょ……ちょっと、しっかりして!」
声をかけるが、彼女はわずかに瞬きをしただけだった。何よこれ、なんで効かないの。ヒロインの魔法なんだから一瞬で治りなさいよ、と唇を噛む。
女性の顔色は白を通り越して青くなっていた。何故か胸がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。手をかざしているから駄目なのかと直接彼女の冷たい手を握る。
大丈夫、まだ大丈夫なはずと頭の中で繰り返す。
――大丈夫って、何が?
魔力が流れていくのを感じるが、傷は一向に塞がらない。集まって来た神殿の関係者たちが止血しながら声を掛けているけど、反応はない。
「ル、ルーシーさん……」
「ちゃんとやってるわよ!」
懇願するような目を向けられても魔力が増えるわけじゃない。どれだけ力を込めても、光は段々弱まっていた。ここがいつもの神殿なら蓄えられている魔力も使えたけど、今は自分が持っている魔力しか使えない。
他の人達はほとんど治療できたのに、まさかこんなに大怪我をしてる人が残ってるなんて。最初に来てくれればちゃんと治せたのに。
「お母さん!」
幼い少女がまっすぐ走ってくる。この女性の子供だろうとすぐに理解した。彼女は涙で頬を濡らしたまま女性に縋りつく。
そして周囲の制止も聞かず、悲鳴のような声を上げた。
「お母さん、死なないで!!」
――『死ぬ』?
その瞬間、胸に渦巻いていた嫌な予感の正体がわかった気がした。
このままでは、目の前の女性は死んでしまう。私の魔力が足りないから、治癒が間に合わなくて死んでしまう。
ヒールは完璧じゃない。心臓が止まったら、もう魔法はかからない。
――何言ってんの。本当に死ぬわけじゃないでしょ。だってこの世界は……
『乙女ゲームはもう終わった。これは現実だ』
ガツンと頭を殴られたような衝撃に手が震える。治療を始める前に、青い髪の彼に言われた言葉が頭をよぎる。
5人もいる攻略対象の1人でしかないくせに。ヒロインのルート選択を邪魔したムカつく男でしかなかったのに。
向けられた灰色の瞳があまりに真剣で、何も言えなかった。
彼の言葉が真実な気がして。
ふいに握っていた彼女の手から力が抜ける。はっとして息をのむ。諦めたように目を閉じる彼女に周囲の人達が慌てて声をかけている。少女が繰り返す「お母さん」という叫び声が耳に残った。
女性の手を握り直して再度ヒールを唱える。魔力が底をついたのか、ぐらぐらとめまいがする。床に敷かれた布に汗が落ちる。それでも傷は完全に塞がらない。
――ああ、私じゃ駄目だ。
嫌でも理解してしまう。この世界の主人公は私ではないのだと。
明らかに魔力が足りてない。彼ならきっと、こんな傷も一瞬で治してしまうのに。私に任せると言って出て行ったきり姿を見ていない。
どこに行ったの。戻ってきて。早く戻ってきて、私の代わりに魔法をかけて。
――お願い、この人を助けて。
「アレン様……!」
思わず彼の名が口から零れる。
それに答えるように、詠唱が聞こえた。
「――ッヒール!」
同時に私のものとは比べ物にならない白い光で辺りが照らされる。いつの間にか俯いていた顔を上げると、鮮やかな青い髪が目に入った。
彼は私の正面に膝をついて、同じように女性の手を握っていた。ここまで走って戻ってきたらしく、息を切らしている。
光が彼女を包むと、傷はあっという間に塞がった。出血が止まって少しずつ呼吸が整う。周りの神殿関係者たちは、それを見て安心したように胸を撫で下ろした。
呆然としている私の前で、女性がゆっくりと目を開く。手を握っている私と彼を交互に見てわずかに微笑む。そこでようやく、間に合ったんだとわかった。
「まだ動かないで。この場でしばらく休んでいてください」
アレン様の言葉に小さく頷いて、彼女はまた目を閉じる。先程とは違う穏やかな表情だ。顔色もだいぶ良くなっている。
隣できょとんとしている少女の頭を軽く撫でると、彼はこちらに顔を向けた。
そして、初めて見る柔らかな笑みを浮かべた。
「頑張ったな、ルーシー」
彼にそう言われた瞬間、じわと目の奥が熱くなった。
涙が出そうになるのを堪え、ぐっと拳を握って立ち上がる。何も言わず彼に背を向け、目に着いた扉へ足を向ける。
扉の外には小さな庭園が広がっていた。ここまでなら許可がなくても出られるらしい。重傷者の治療は終わっているし、私がいなくても問題ないはずだ。
そのまま神殿の裏手に回り、置かれていたベンチに腰を下ろす。手が震えていることに気付き、両手を握り合わせる。
――怖かった。ほんとに怖かった。……間に合ってよかった。
ようやく肺に入ってきた新鮮な空気が複雑な気持ちと混ざりあう。自分を落ち着かせようと深く息を吐き出したところで、小さな足音が近付いてきた。
「お姉ちゃん!」
現れたのは女性の傍にいた少女だ。なんで私を追って来たんだろうと顔を向けると、突然彼女が駆け出した。
その勢いのまま飛び付かれ、反射的に抱き留める。
「え? ちょっと……」
「お母さんを助けてくれて、ありがとうございました!!」
耳元で叫ばれて顔を顰める。そんなことをわざわざ言いに来たのかと呆れてしまう。さっきまであんなに泣いていたのに。
しかも最終的に彼女のお母さんを治したのは私じゃない。そういうのは聖女様に言ってほしいと心の中で呟いて、ぽんと少女の背中を叩く。
「礼はいいから、お母さんの傍にいなさいよ」
少女はぱっと離れると、大きく頷いて走り去っていった。あっという間の出来事にため息をつく。彼女の体温が熱かったせいか、急に冷えてきた気がする。
――そうか。ちゃんと、体温があるのね。
考えてみれば当たり前のことだ。彼女たちはみんな生きているのだから。この乙女ゲームの世界で、モブである彼女たちも……、『モブ』?
そこまで考えて、ぞくと悪寒が走った。
この世界は乙女ゲームの中だ。それは間違いない。ヒロインである私がいるし、攻略対象もラスボスもみんな揃っていた。イベントは予定通り起こっていたし、魔法もアイテムもゲーム通りに使えていた。
だけど、この世界自体が『ゲーム』なわけじゃない。
本編には関係なかった彼女たちもみんな体温を持っていて、怪我をしたら血が出て、治癒が間に合わなかったら死んでしまう。そして死んだら悲しむ人がいる。
イベントじゃなくても事故は起こるし、怪我人が出たらみんなが必死になって助けようとする。ここが彼らにとっての、現実だから。
――待って……じゃあ、私がやろうとしていたことって。
魔界の門を開けて魔王様に会いたい。彼とゲームのような恋をしたい。
それは昔からずっと変わらない願い。転生して絶望していた時、前に進む希望になってくれた唯一の願い。正直、エンディングから数か月経った今だって彼に会いたいと思っている。
でもあの門を開けたら、この世界には確実に瘴気が溢れてしまう。アレン様がいるから治療はできるかもしれないけど、他の攻略対象がいなくなったら、きっともう封印はできない。
瘴気に包まれた世界ではあの少女も神殿の人達も、私がヒールで治療しようとした女性もみんなまとめて死んでいたはずだ。……いや、違う。
――私が殺してしまうところだったんだ。
さっと頭から血の気が引く。自分が今回の事故とは比べ物にならないほどの事態をこの国に引き起こそうとしていたのだと気付いて、体が震える。
もしあの時、アレン様に門の開放を止められていなかったら。私はここが現実だという実感を持たないまま、大勢の人を本当の意味で犠牲にしてしまっていた。
未遂で済んだとはいえ、じわじわと膨れ上がる罪悪感に押し潰されそうだ。手首に付けた枷がずしりと重くなって、少女に言われた言葉が頭に響いた。
――ありがとう、なんて受け取れない。だって私はあなた達のことを……。
「ルーシー。……大丈夫か?」
耳に届いた優しい声に顔を上げる。
クール担当の攻略対象が、心配そうな顔をして傍に立っていた。