112話 新しい日常①
パシンと鋭い音が部屋に響く。叩かれた勢いのまま床に転ぶ。ヒリヒリと痛む頬を押さえるが、もはやこのくらいの痛みでは涙も出ない。
私を冷たい目で見下して、父親であるはずの彼は言った。
「役立たずが。せっかくセシル王子がご在籍だというのに、この歳になっても魔力開放が起きないとは」
「申し訳ございません……」
いつも通り床に手をついて頭を下げる。彼は何も答えなかった。代わりに別の声がする。未だに慣れない、甲高い声だ。
「魔法が使えないなんて、本当にお前の母親は貴族でしたの?」
「血筋だけは認めてやっていたが、残したものがこれでは疑わしいな。まったく、先にお前と出会いたかったものだ」
父様は……いや、ハリス・ホワイト伯爵はそう言って後妻であるベロニカ夫人の腰を抱いた。見なくても分かる。それはいつも同じ流れだった。
しばらく交互に罵声を浴びせられるが、じっと頭を下げたまま待つ。飽きた2人が部屋を出て行ってようやく静寂が訪れた。今日は叩かれるだけで済んでよかったと息をつく。
「お姉ちゃん」
小さな声がしてハッと顔を上げる。物置の端に置かれたベッドで妹が手を伸ばしていた。慌てて立ち上がり、彼女に駆け寄る。
「お姉ちゃん、大丈夫? またハリスに叩かれたの」
「ノーラ、駄目よ。ちゃんと伯爵と呼ばなければ叱られてしまうわ。私は大丈夫、慣れているから」
ぎゅっと手を握りながら安心させるように笑う。でも、ノーラは悲しそうな顔をした。所々ほつれた毛布を掛け直して頭を撫でる。
「ほら、今日はあまり眠れていないでしょう? 明日お庭に出たいならちゃんと休まないと」
「……うん、わかった」
小さく頷いたノーラは大人しく目を閉じた。ベッドに腰かけて、ぐるりと辺りを見回す。
彼女がこんな薄暗い物置に閉じ込められているのは姉である私のせいだ。今年で16になるというのに、未だ魔力開放が起こっていない私のせい。
――ハリス伯爵が怒るのも当然だわ。
普通、魔力開放は12歳から13歳の間に起こるらしい。中には8歳や10歳で魔法が使えるようになる人もいると聞く。平均年齢を過ぎている私は、いつ魔法が使えるようになるのかしら。
すでに亡くなってしまった母様は立派な貴族だった。子爵家からこのホワイト家に嫁いだらしいけれど、ちゃんと貴族の責務を果たして私たちを生んでくれた。
それなのに、長女の私がいつまでも魔法を使えないようでは……。
すやすやと寝息を立て始めたノーラの髪を撫でる。私とは違う赤茶色の髪。本人は嫌がっていたけれど、ハリス伯爵と同じ色だ。彼女はきっとすぐに魔法を使えるようになるだろう。
対する私は母様と同じ真っ白な髪。そして、誰にも似ていない金色の瞳。
――母様は風魔法を使えていたはずなのに。
私はどうして魔法を使えないんだろう。ノーラにもハリス伯爵にも、生んでくれた母様にも申し訳ない。叩かれた頬よりも胸が痛くて息が詰まる。
私がみんなと同じように12歳で魔法を使えていれば、もっと何か変わっていたかもしれない。病気がちな妹も、ちゃんとお医者様に診ていただけたのかもしれない。ごめんねと心の中で繰り返しながらノーラの頭を撫でる。
突然、ぱちんと何かが弾けたような気がした。
「え?」
驚いて胸を押さえる。血液とは違う温かいものが全身を巡っているようだ。
なにかしらと呟いて眠っているノーラに視線を向ける。そこで、自分の手がぼんやり光っていることに気が付いた。
こんな感覚は初めてだ。ドキドキと胸が高鳴って、思わず手を見詰める。これは魔法だろうか。でも……杖も持っていないのに、なぜ光っているのかしら。
家事の合間に、物置に置かれていた本を読んだことがある。そこには魔法に関する本もあった。杖を持たなくても発動できるのは、闇魔法と聖魔法のみ。
それならもしかして、これは。
――聖魔法の呪文は、1度だけ神殿で聞いたことがあるわ。
ノーラに手を触れたまま、唯一覚えている呪文をおそるおそる口に出す。
「ヒール」
その瞬間、辺りが真っ白な光に包まれた。
===
「アレン、お疲れ様」
声をかけられて振り返る。聖堂の入り口で手を振っている王子の姿を見て、また来たのかと苦笑してしまう。
乙女ゲームのエンディングから2か月。快復したグレイ学園長が学園に戻り、卒業式も無事に終わって私たちは3年生に上がった。ロニーも伯爵家に帰った。
私たちが魔界の門を封印し直したことは王家を通じて大々的に公表され、あっという間に国中に広まった。
私が聖魔力を保持していることもバレてしまったので、今では定期的に神殿を訪れている。遠方の治療を手伝うためと、聖魔力保持者を独占したい貴族に狙われないようにするためだ。
神殿と繋がっているように見せることで、多少抑止力になるらしい。
――しかし、忙しいセシルまで毎回私に付き合わなくても。
彼は金髪を揺らして赤い絨毯を歩いてくると、にっこりと笑った。
「会いたかったよ。やっぱり白いローブ姿も素敵だね。君によく似合っている」
「ありがとう。昨日生徒会室で会ったような気もするんだが」
「今日は会ってなかっただろう? それに休日に会うのは、先週の慰労会以来だ」
その言葉で、そういえばと思い出す。学園ではなんとなく聞けずにいたが今ならいいだろう。辺りに誰もいないのを確かめ、声を落として尋ねる。
「聞こうと思っていたんだが……君は、一体何人兄弟なんだ?」
先週、王宮で開かれた慰労会。門の封印に貢献したとして、ライアンやロニーも呼ばれた。その時初めて、セシルに『レオ』という名の弟がいることを知った。
ちょうど私たちと10歳違いの7歳。つまりカロリーナと出会った頃には、王妃様のお腹の中にいたということだ。
セシルは眉を下げて笑った。
「さぁ、全員で何人いるかは僕も知らないんだ。他にも弟がいるかもしれないし、妹もいるかもしれない。アレンは読書家だから、歴代の王も血筋を絶やさないために数人兄弟だったのを知っているだろう?」
「それは知っているが……」
まさかセシルにも兄弟がいたとは。幼いころから一緒にいたのに、まったく気付かなかった。兄弟が生まれたなんて、子供の頃なら真っ先に友達に知らせたくなりそうなものなのに。隠し通していたセシルもすごいなと感心してしまう。
「レオは、昔は体が弱かったらしくてね。本当は魔力開放まで隠し通す予定だったんだけど」
小さく息をついて、彼は苦笑する。
慰労会の前に王族への謁見があったが、そこにこっそり紛れ込んでいたのがレオ王子だ。魔界の門について授業で習ったばかりだったらしく、好奇心が抑えられなかったらしい。式が終わる直前に王妃様が気付いて、会場は一時騒然とした。
その場には記者もいたため隠しきれないと判断され、そのまま第二王子の存在も公表されることになった。
「またアレンに会いたがっていたよ。君にはとても懐いていたからね」
「そうか、嬉しいな。私もレオ王子はセシルに似ているから話しやすい」
「それは喜んでいいのかなぁ……」
何故かセシルが複雑な顔をしたところで、聖堂に人が入ってきた。午前中に聖魔法を受けて、体力が回復するまで治療室で休んでいた高齢の男性だ。
彼は私を見ると、嬉しそうな顔をして近寄ってきた。
「ああ『聖女』様。先程はありがとうございました」
それを聞いて、隣でセシルが目を丸くしている。
差し出された手を握って小さく笑う。
「いえ、お元気になられて良かったです。もうご無理なさらないでくださいね」
「肝に銘じておきます。本当に、聖女様が神殿にいらっしゃるおかげで安心して働けます」
男性は深々と頭を下げると、ゆっくりとした足取りで神殿を出て行った。衛兵が扉を閉めるのを見ながら、セシルが怪訝な顔をする。
「……『聖女』様? 失礼じゃないか? アレンは男性なのに」
「いいんだ、気にしないでくれ。みんなその呼び方に慣れているらしくてな」
リリー先生によれば、今まで聖魔力を持っていたと記録があるのは女性だけらしい。だからこそ、『男』である私に対する呼び方がなかなか定まらない。
聖者様と呼ぶ人もいるが、祭りの名前に聖女祭と付いているくらいだ。聖魔力保持者のことをそう呼ぶと思えば大した問題ではない。神殿に来る人達には、好きに呼んでくれと伝えてある。
「アレンは綺麗だから、本当に女性だと勘違いする人も出てきそうだが」
「さすがにそれはないだろう」
「どうかな。君は男性には珍しく、腰まで髪を伸ばしているからね」
ローブで体型も隠れているしと続けられ、自分の格好を見る。髪型は以前と変わらず高い位置で結んでいるが、纏っているのは前神官様が着ていた白いローブだ。
動くたびに金色の刺繍がきらきらと光っている。確かにこれでは女性と勘違いされてもおかしくはない。
――まぁ勘違いされたところで、説明すれば済む話なんだが……。
と、セシルが躊躇いがちに口を開いた。
「あのさ、アレン。前から聞きたかったんだけど……」
「聖女様」
彼が口ごもったタイミングで声がかかる。また誰か来たのかと思って顔を向けたところで、それが皮肉であることに気付いた。
聖堂の入り口に桃色の髪の彼女が立っている。両手首に鎖のない枷をつけて不機嫌そうに目を逸らしながら、ルーシーがため息をついた。
「またライアン様が来てましたよ。いちいち私を通さないでほしいって聖女様からも言っておいてください」
そう言うと、私が答える前にさっさと行ってしまう。今は庭園の掃除をしていたはずだから、作業に戻ったのだろう。
エンディングから1週間ほどで、彼女の処罰が決まった。本来なら処刑も免れないような大罪だったらしいが、私以外に怪我人がいなかったことと、未遂で終わったこともあって減刑となった。
門を開けようとした理由については、好奇心からということにされていた。
ルーシーは聖魔力保持者だったため、闇魔力を封じる枷を付けた上で神殿に軟禁されている。この先約50年、彼女は現神官であるアデルさんの許可を得なければ神殿の外に出ることができない。
当然学園も退学だ。ただ、平民への差別を助長させかねないので、生徒たちには神殿で修業を積むためと伝えられている。
「……ルーシーとは、ちゃんと話をしてみたいんだが」
彼女は私と同じ転生者だ。この世界のことも私より詳しいだろう。もちろん門での会話を思い出すと、全てを許せるわけではない。でも、今までのことも前世のことも、できれば一度腹を割って話したいと思っている。
神殿に来たばかりの頃は荒れていたようだったが、今はだいぶ落ち着いた。文句を言っても仕事はちゃんとするし、誰かに攻撃的な態度を取ることもない。……私以外には。
それまで黙っていたセシルが、苦笑いを浮かべて呟いた。
「自分を殺そうとした相手とわざわざ話したいなんて思うのは君くらいだよ」
「落ち着いて話さなければ分からないこともあるからな」
セシルと共に聖堂から出る。ライアンが来ていたということは、いつものように差し入れを持ってきてくれたのだろうか。それなら食堂かと廊下を進みながら、ふと気付く。
「そういえば、さっき何か言いかけてなかったか?」
ルーシーに声をかけられる直前、セシルは何かを尋ねようとしていた。ああ、と少し間を置いて、彼はちらと私に視線を向けた。
「単純に理由を聞きたいんだけど……アレンは、何故髪を伸ばしているんだ?」
その答えはすぐに頭に浮かんだ。ゲームのアレンが長髪だったから、ビジュアルを近付けるために私も髪を伸ばしていただけだ。
しかし、『アレン』が髪を伸ばしていた理由はわからない。キャラのデザインをした誰かの趣味で、実は理由なんかないのかもしれない。ゲームに詳しいルーシーなら知っているかもしれないが、何と答えればいいか迷ってしまう。
「もしかして、何か願掛けでもしているのかい?」
「いや……別に、そういうわけではない」
目標としているビジュアルがあるのもおかしいし、正直ゲームに寄せる以外の理由が浮かばない。
ここは素直に私としての理由を答えておこう、と彼に顔を向ける。
「特に大した理由はないな。学園卒業後はバッサリ切ってしまうかもしれない」
私がそう言ったところで、廊下の先から驚いたような声がした。
「えっ!? アレン、髪切っちまうのか?」
神殿関係者が利用する食堂の扉から、オレンジ色の頭が見えた。