93話 傷心 ◇
「結! そろそろ起きないと遅刻するよー」
すぐ近くで音楽が聞こえ、はっとして目を覚ます。またお母さんが携帯で曲を流しながら部屋に入ってきたらしい。起こしてくれるのはありがたいけど、びっくりするからやめてっていつも言ってるのに。
時計の針は7時15分を指していた。いつもより5分遅かったみたいだ。布団を畳んでクローゼットから服を引っ張り出す。ランドセルを抱えて、リビングに向かう。
「4月には5年生になるのに、ちゃんと起きられるの?」
「たぶん、大丈夫」
「たぶんじゃ困るんだけどねー」
すでにメイクも終わっているお母さんがご飯の用意をしてくれる。パックの納豆を混ぜながら点けっぱなしのテレビを見ると、ちょうど今夜から始まるドラマの宣伝をしていた。恋心を持たない男女が主役らしい。
つい箸が止まっていたせいか、お母さんがリモコンでテレビを消した。
「もー、朝からこんな変なの流して。やめてほしいわ。教育に悪い」
続けて、さっさと食べなさいと声をかけられる。学校は近くにあるけどあと10分以内に出ないと間に合わない。急いで口を動かしながら、昨日のことを思い出す。
帰りの会が終わった後。いきなり友達の彩乃ちゃんに手紙を渡されて、家で読んでほしいと言われた。言われた通りに帰ってから開いてみたら、そこには特に理由もなく『隼人くんと話さないで』と書いてあった。
同じクラスの隼人くんは、幼稚園からずっと一緒の男の子だ。小学4年生になった今でも仲が良くて、放課後に一緒に帰ったり遊んだりしている。
時々、彩乃ちゃんや他の友達も一緒に遊ぶこともある。なのに、なんで急に話しちゃ駄目って言われたんだろう。知らない間に喧嘩でもしたのかな。
ご飯が終わって歯磨きをして、家の玄関に向かう。いってきます、と声をかけて振り返る。家を出る時にぎゅっとハグをするのが、昔からうちの決まりだった。
でも、最近はそうしないことが増えた。「ちょっと待って」と言うお母さんは何故か携帯の画面を眺めてにやにやしている。
しばらく待ったけど反応はない。お母さんも仕事に行かなきゃいけないはずなのに大丈夫なのかな。そう思いながら、今日はもういいやと家を出る。
2か月くらい前からお母さんは時々変だった。火を使ってる時でもお出かけしてる時でも、携帯が鳴ったらそっちに夢中になってしまう。
夜中にずっと電話してることもある。嬉しそうだから悪いことじゃないと思うけど、相手が誰なのかは聞いても教えてくれない。
学校に向かっていると後ろから声をかけられた。隼人くんが走ってきて、並んで教室に向かう。話さないでって言われたのにどうしよう。
無視するのも良くないだろうし、話しかけられる分にはいいのかな。
――あの手紙には、どういう意味があるんだろう。
その答えは、放課後にわかった。
「なんで約束破ったの!? 話さないでってお願いしたのに!!」
あの手紙を受け取った時点で約束したことになっていたらしい。放課後の廊下で彩乃ちゃんが泣いてる。他の友達がその子を励ますように声をかけている。
数歩離れたところにいる私は、どうしたらいいかわからない。
「もしかして、結ちゃんも隼人くんが好きなの?」
傍にいた別の友達に言われて、そこでやっと「そういうことか」と理解した。
彩乃ちゃんは隼人くんが好きらしい。でも私からすれば、彼はみんなと変わらない普通の友達だ。たぶん同じ気持ちじゃない。そう答えるために、首を横に振る。
「私は別にそんなんじゃ」
「でも、隼人くんは結ちゃんが好きじゃん!」
いきなり告げられた言葉に目を丸くする。そうなんだろうか。でもそれも友達としてじゃないのかな。なんて、彼女に尋ねても答えはない。彩乃ちゃんは廊下に響くくらいわんわん声を上げて泣いた。
さすがに先生がやって来て、私たちの間に入る。私が彩乃ちゃんを泣かせているように見えたのか、先生は彼女を庇っている子たちに話を聞いた。
「結ちゃんが彩乃ちゃんの好きな人を取ろうとしてました!」
誰かが言った。当然、違うと反論する。そもそも隼人くんは幼馴染だし、彩乃ちゃんと出会う前から友達だ。それなのに、先生は私に向かって言った。
「友達なのは分かるけど、彩乃ちゃんの気持ちも考えようね。結ちゃんも好きな人が別の女の子と話してたら嫌でしょ?」
そんなこと思ったことない。でも、そうは言えなかった。先生だけじゃなくてみんなの目がこっちを向いてて、責められてるみたいで。何も悪いことしてないはずなのに、何かの犯人にされたみたいで。結局、その場は謝るしかなかった。
男の子を友達として好きなのは許されないんだろうか。誰かがその人を好きになったら、もう話すのも駄目なんだろうか。……それって、どっちかというと。
――私が取ったんじゃなくて、私の友達を彩乃ちゃんが取ったんじゃないの?
帰りながら彩乃ちゃんの気持ちを考えてみたけど、よくわからなかった。
家に帰って宿題をしていたところで、お母さんが仕事から帰って来た。今日学校であったことを話したかったけど、その表情を見たら言葉に詰まってしまった。
「あのね、実は前から好きな人がいたんだけど……今日さりげなく聞いてみたら、向こうも私が好きなんだって!」
幸せそうな笑顔で、お母さんは声を弾ませた。
1年くらい前に職場に入ってきた、年上の人らしい。毎日のように電話をしたり連絡を取っていたのもその人だったようだ。
大学院卒で頭がよくて大きな車を持ってて……とお母さんが楽しそうに話すのを聞きながら、モヤモヤと嫌な気持ちが胸の中に溜まっていく。
私が小学生になるくらいまで、この家にはお父さんがいた。いつの間にかいなくなってしまったけど、しばらくは写真も飾ってあった。お父さんの話もたくさん聞いたし、幸せそうな結婚式のビデオも見た。
それなのにお母さんは、もうお父さんのことなんか忘れちゃったんだろうか。
「ねえ、新しいお父さんができたらどうする?」
なんでそんな話になるのか分からなかった。好きな人はわかるけど、それがどうして私の新しいお父さんになるのか理解できなかった。
今の生活を変えたくなかった。学校でのことも思い出して、その『好きな人』にお母さんを取られちゃう気がして。だから「いやだ」と答えた。
それを後悔したのは、しばらく経ってからだ。
節分を過ぎた、ある雨の日。夜中にお母さんの携帯が鳴って、隣で寝ていた私も目が覚めた。布団から起き上がったお母さんは真剣な顔をして画面を眺めて、何も言わずに部屋を飛び出した。
嫌な予感がして私も飛び起きる。お母さんはリビングで旅行の時に使うような大きなバッグを広げて、そこにいろんなものを詰め込んでいた。
大事だっていってたアクセサリーや服を乱暴に詰めて、夜なのにメイク道具を取り出して。何をしているのか理解できずに声をかけたけど、返事はなかった。
急がなきゃ急がなきゃと呟いて、何かに取り憑かれたように動き回るお母さんを見て、なんだかすごく怖くなった。
一緒に買ったお洒落な服を着て、思い出のバッグを持ってるのに。家族写真が床に落ちてるのを気付かずに踏みつけて、いつものお母さんとは別人みたいだった。
止めなきゃいけないと思った。お母さんの腕を掴んで、夜中なのに声を上げた。
「何してるのお母さん! 今からどこに行くつもり!? もう夜中だよ!」
「あんたはここにいていいから邪魔しないで! あの人に呼ばれてるの! 求められてるの! 私がすぐ行ってあげなきゃ」
「呼ばれてるって誰に!? こんな時間に呼び出すなんておかしいよ!」
「おかしくない! あの人のこと悪く言わないでよ!!」
腕を振り払われながら、泣きそうになった。おかしい。意味が分からない。どうして話を聞いてくれないのと唇を噛む。
私より先に泣いていたお母さんは、怒ったような目で私を睨み付けた。
「仕方ないでしょ、好きになっちゃったんだから! なんで分からないのよ!? 私は好きな人と幸せになりたいだけなの! あんたは私を不幸にしたいの!?」
そう言われて言葉を失った。そこからは、普段より濃いメイクを始めたお母さんを見詰めることしかできなかった。
だってそんな、そんな風に言われたら。
――私と一緒にいたら、お母さんは不幸になるの?
「おばあちゃんには連絡しておくから!」
バッグを担いで、お母さんは携帯を見ながら私に背を向けた。バタバタと傘も持たずに玄関から飛び出していく。いってきますも言わず、ハグもせず。
待って、と慌てて手を伸ばしても届かなくて、私も後を追った。玄関の鍵も開けっぱなしで、びしょ濡れになりながら走る。
「お母さん!」
いくら叫んでも答えは返ってこなかった。
私の声なんか聞こえてないというように、私なんか見えていないみたいに。お母さんは一度も振り返らず、お気に入りの靴で走って行く。
雨がうるさくて視界が悪くて、涙のせいで余計に歪んで、もう何も見えない。
誰かの車に乗って行ってしまったお母さんを追いかける。途中で転んで、足から血が出た。でも足よりも胸が痛くて、息を吸い込むのが苦しくて。
そのまま寒くて真っ暗な闇の中で動けなくなった。声に気付いた近所の人達が家から出てくるまで、その場で泣いていた。
捨てられたんだと理解したのは、祖母宅で目が覚めた時だった。お母さんは昔から、恋をすると周りが見えなくなる人だったらしい。
私にも恋ができれば。恋が理解できれば。もっと早くお母さんの気持ちに気付けたかもしれない。お母さんの行動を理解できたかもしれない。
最初から否定しないで、応援できたかもしれない。
そうしたら。私がみんなみたいにちゃんと誰かを好きになれる、その気持ちが理解できる『普通の子』だったら。
私も一緒に、連れて行ってくれたのかな。
===
ふ、と目が覚める。
視界に入る天井は真っ白だ。ここはどこだろうと体を起こして、自分が医務室のベッドで寝ていたことに気が付く。
椅子に座って本を読んでいたリリー先生が顔を上げた。
「あら、おはようアレン。少しは眠れたかしら」
本に書類を挟んで机に置くと、先生はベッドの縁に腰かけた。彼の顔がわずかにぼんやりして見えるのは眼鏡を掛けていないせいだろう。
長い夢を見ていたようで、ここに来る直前の記憶が曖昧だ。図書館にいたことは覚えているが、どうして医務室で寝ていたんだっけと首を傾げる。
「覚えてる? 図書館で話してたら急に倒れたの。びっくりしたわよ」
リリー先生が苦笑して言った。どうやら彼が医務室まで運んでくれたらしい。
そう言われると確かに、急に眠くなって意識が遠のいたような気がする。
「すみません。寝不足だったみたいで」
「そうね。それもあるけど、いろんな要因が重なって限界だったんでしょ」
先生は小さく息をつくと、私に向かって手を伸ばした。
親指で優しく目尻を拭われ、はっとする。また夢を見て泣いていたのだろうか。子供みたいで恥ずかしい。慌てて目を擦る。
昔のことなんか思い出したくなかった。でも、忘れていたせいでこの世界でも同じ過ちを繰り返してしまったようだ。
私はまた人の恋心を理解できずに、幸せになる邪魔をしてしまった。それでは不幸にしたいのかと怒られるのも当然だ。
大人になれば分かるかと思っていた気持ちは転生しても相変わらず分からないままだった。自分だけならまだしも、それで誰かに迷惑をかけるなんて。
――こんなことでは駄目だ。
恋はみんなが当たり前にできることで、人として『できなければならない』ことなのだから。私が変わらなければ。理解できるようにならなければ。
ぐるぐると頭の中で同じ考えが繰り返される。これからどうすればいいのか分からなくて胸が苦しくなる。目が覚めたはずなのに、思考が闇に覆われたようで考えがまとまらない。
「本当は睡眠が一番なんだけど……まだ足りないみたいね」
先生は心配そうな顔をして眉を顰めた。そういえば今は何時なんだろう。いつの間にか雨は止んでいたらしく、医務室には夕陽が差し込んでいる。
リリー先生はこんな時間までずっと傍にいてくれたのだろうか。休日なのに世話をかけてしまった。急いで帰らなければと彼に顔を向ける。
「いえ、ありがとうございます。もう大丈夫です」
いつまでも休んでいるわけにはいかない。ただでさえ私は邪魔ばかりしているのだから。ハッピーエンドのために、自分にできることを考えなければ。
そう思い、ベッドから降りようとした時だ。
突然、先生に抱き締められた。
え、と声が漏れる。急にどうしたんだろう。そんなに心配をかけてしまったのだろうか。戸惑いつつ、リリー先生と彼の名を呼ぶ。先生は答えなかった。
返事の代わりに、背中に回された腕にぎゅっと力が込められる。彼の体温が鼓動と共に伝わってきて、思わず口をつぐむ。
何も言えず、互いに黙ったまま時間が過ぎていく。静かな医務室に壁掛け時計の音だけが響いている。窓の外では鳥が鳴いている。
少しだけ開いている窓から風が入ってきて、ふわりとカーテンが揺れた。なんだかここだけ時間がゆっくり流れているようだ。
不思議と、心を覆っていた黒い靄が晴れていくような気がした。
次第に頭がすっきりしてくる。胸に渦巻いていた嫌な気持ちが消えていく。気付けば頭痛もなくなっていた。眠ったからだろうか。雨が止んだからだろうか。
それとも、先生には何か特別な力があるんだろうか。
しばらくして、そっと腕を緩めたリリー先生が口を開いた。
「言ったでしょ。……あんたの大丈夫は、あてにならないって」