92話 限界 ◇
頭が痛い。
静かになった生徒会室で、深く息をつく。いろんな感情が胸の中で渦巻いて、勝手に口から飛び出したような気がする。
アレンが部屋を出て行く直前、一瞬だけ彼の顔が見えた。いつも冷静な彼らしくない、今にも泣き出してしまいそうな表情だった。
僕の言葉で彼を傷付けたのだと理解した途端、何故か酷く心がざわついた。
いつからか、ルーシーとアレンが話しているのを見ると嫌な気持ちになるようになった。彼らが笑い合っていると、妙に胸が痛くなる。
自分でも不思議なほど気分が悪くなって、彼を突き放さなければならないと思ってしまう。僕らの幸せな未来のためには、それが正しいのだと。
――なのに、なんで……こんなに苦しい?
自分で自分がわからない。僕は本当に正しいことをしているのだろうか。友達を傷付けることが、本当に正しいのだろうか。
ルーシーのことは特別な存在だと思っている。聖魔力保持者というのもあるけど、それを別にしても魅力的な女性だ。なんとしてでも彼女を守ってあげたい。
ふと、昔誰かを守れるようになりたいと強く願ったことを思い出す。あれは誰だっただろう。ルーシー、だったのかな。街で出会った時に僕の目の前で転んで怪我をして……あれ、そんなに大怪我だったっけ?
ズキ、と頭が痛む。何か変だ。でも何が変なんだろう。
頭を捻っていると、突然思考が闇に覆われたように途切れた。
最近はいつもこうだ。こうなると、もうそれ以上は考えられない。
とにかく、あとでアレンには謝らないと。そう思うと同時に、謝る必要があるのかと疑問が浮かぶ。僕はただ、彼の本当の気持ちを確かめたかっただけだ。
彼が何を考えているのか、何を思って行動しているのか知りたかっただけだ。
アレンは僕たちの邪魔をするつもりはないと言っていた。でも、それじゃ答えになってない。まさか本当に、僕たちのために身を引くつもりなのだろうか。
結局、彼はルーシーのことをどう思っているんだろう。
そのことを考えるだけで心がモヤモヤする。彼を突き放したのは僕なのに、彼が何をしているのか気になってしまう。ルーシーからアレンの話を聞くと、彼の傍に彼女がいるのだと思うと、どうにも嫉妬してしまう。……嫉妬?
――僕は一体、『どっち』に嫉妬しているんだ?
そこで生徒会室の扉が開いた。一瞬身構えたが、入ってきたのはアレンではなかった。扉を閉じたカロリーナは、顔を俯かせたままこちらに向かって歩いてくる。
彼女は生徒会長席を迂回すると、僕のすぐ隣で立ち止まった。
その間、ずっと黙っている。何か言いたいことがあるのかと彼女に向き直る。
カロリーナは俯いたまま、呟くように言った。
「……ご無礼をお許しください」
「え?」
何のことだろう。尋ねる前に、彼女は両手を振り上げた。
そのまま大きく腕を横に広げ、勢いよく両手で僕の頬を挟み込む。わずかに躊躇いがあったため、ぺちんっ、と勢いに似合わない音が生徒会室に響いた。
それでも、叩かれた頬にピリピリと痛みを感じる。
両手で顔を掴んだまま、キッと鋭く僕を睨み付ける紫の瞳は潤んでいた。まさか泣いていると思わず言葉に詰まる。
彼女は僕の頭を引き寄せるように顔を近付けると、目を逸らさずに口を開いた。
「セシル様。あなたは何をなさっているのですか。それが将来、この国を背負うことになる王子の姿ですか。いつからあなたは、自分の好きな人を傷付けるような人間になったのですか?」
その言葉に目を丸くしてしまう。好きな人、と口から呟きが漏れる。
カロリーナは体勢を変えずに続けた。
「私にならまだしも、アレン様になんてことをおっしゃるのですか。あの方は、あなたが幼いころから大事に思っていらっしゃった、あなたの『好きな人』でしょう? そのお気持ちは、今も変わらないはずでしょう! 彼を守りたいと願っていたあなたが、彼を傷付けてどうするのですかっ!!」
彼女にそう言われた瞬間。何故か、心を覆っていた闇が晴れたようだった。
完全じゃない。まだ妙な感覚は残っている。でも、思い出した。僕がずっと守りたいと思っていたのも、大事に思っていたのも……好きなのも。昔から彼だけだ。
優しくて強くて人のことばかり考えて、僕を何度も助けてくれた、大切な友人。
――どうして、今まで忘れて……。
なんて考えている場合じゃない。さっと顔から血の気が引く。僕はさっき彼に何を言った? ルーシーのことは大事だが、僕にとってはそれ以上に彼が大事だ。
それなのに、なんであんな酷いことを言ってしまったんだろう。
「あ、謝らないと……!」
あのアレンが何の理由もなく行動するわけがない。ルーシーと距離を取ったことだって、もしかしたら深い事情があるのかもしれない。
もっとちゃんと彼の話を聞くべきだった。いや、話を聞かなくても、僕は友達として彼のことを信じるべきだったのに。
生徒会室の扉に顔を向ける。アレンはどこに行ったんだろう。今すぐにでも追いかけなければ。ロニーの訓練をすると言っていたから魔法訓練場だろうか。
慌てている僕を見て、ほっとしたようにカロリーナが数歩下がった。眉を下げて笑っているのが視界の端に映る。
そうだ。僕は彼女にも酷いことを言ってしまった。確認もできていないのに彼女の友達を疑って、その上彼女のことまで……。
「カロリーナ、すまない! さっきは」
謝ろうとする僕の口にカロリーナの細い指が触れる。
次いで自分の唇の前に人差し指を立て、彼女は首を振った。
「目が覚めたようですから、謝罪は不要です。誰しも思い込むと周りが見えなくなることがありますから。ただお忙しいのは分かりますが、もう少しお心に余裕を」
話を続けるカロリーナを思わず抱き寄せる。驚いたように言葉が途切れ、彼女は口をつぐんだ。昔からいつも彼女には背中を押されてばかりだ。
情けないと思うと同時に、彼女がいてくれてよかったと強く思う。カロリーナがいなかったら、きっとアレンとの関係はここで終わってしまっていた。
感謝をぎゅっと腕に込める。
「ありがとう、カロリーナ」
「……いいえ。次は、おふたりの仲良しな姿を見せてくださいませ」
抱き合ったままポンと背中を叩かれ、小さく頷く。
彼女に見送られるようにして、生徒会室を飛び出した。
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頭が痛い。
寝不足だからかな、と小声で呟く。それか、我慢していたからだろうか。どちらにせよ早く寮に帰ったほうがいい。
そう思うのに、足は自然と図書館に向かっていた。気分が回復するまでジェニーには会いたくない。彼女にはきっと顔を見ただけで気付かれてしまう。
誰もいない図書館は落ち着いた。新しい知識を増やしている間は余計なことを考えなくて済む。最初は何も頭に入ってこなくても、ページをめくっていれば勝手にそのことしか考えられなくなる。
いつもなら、それで済んでいたのだが。
――駄目だ。集中できない。
手にしていた本を閉じる。ぱたん、と小さな音が図書館に響いた。
選んだのは恋愛小説だ。どうしてそう思ったのかは分からないが、読まなければならない気がした。少しでも恋愛というものを理解したかったのかもしれない。
理解できれば、もしかしたら私にも恋ができるようになるだろうかと。そんなことをしてもどうにもならないと分かっているのに。
『君は僕たちを不幸にしたいのか!?』
セシルの言葉が頭から離れない。
他でもない彼から言われたことが、何よりもショックだった。
不幸に、なんて。したいわけがない。こんなに大切に思っているのだから。
セシルもライアンもロニーも、ルーシーのことだって私は大切な友達だと思っている。みんなとまた以前のように話がしたい。仲の良い友達のままでいたい。
こんな、互いに嫉妬の目を向けて突き放すような関係は。
――こんな関係は、嫌だ。
どうしてこうなったんだろう。いつからこうなってしまったんだろう。乙女ゲームが始まったら、攻略対象同士は友達でいられなくなるのだろうか。恋がきっかけで関係が終わってしまうなんて、まるで前世の……
と、後ろから声が聞こえた。
「アレン。……大丈夫?」
いつの間に図書館に入ってきたのだろう。振り返ると、リリー先生が心配そうな顔をして立っていた。少しだけ眉を顰めて、こちらに歩いてくる。
「声をかけても反応がなかったから、気になってね。なんかフラフラしてたし」
「あ……すみません」
言われてみれば一瞬誰かに呼ばれたような気もする。図書館までほとんど無意識で来たせいか、声に反応できなかった。無視してしまったようで申し訳ない。
謝ると、先生は首を振った。じっと私の顔を見てさらに眉根を寄せる。
「こう言っちゃなんだけど、酷い顔してるわよ。ちゃんと眠れてる?」
さすがはお医者様だ。そこまで言われて眠れているとは返せず、口をつぐむ。
察したように小さく息をついて、リリー先生は辺りを見回した。
「休日なのに制服を着てるのね。今日も本を読むために来たの?」
「いえ、生徒会の……明後日の芸術祭のことで」
「ああ、そういうこと。その準備が忙しくて眠れてないの?」
「そういうわけではないのですが……」
はっきり答えられず、苦笑してしまう。彼が1周目の攻略対象じゃなくてよかった。こうして先生として気に掛けてくれるのも有り難い。でも、いくら仕事とはいえ休日まで働かせるのは申し訳ない。
彼に心配をかけないためにもさっさと寮に帰るべきか、と本を棚に戻す。顔を上げた拍子に、ふと図書館の窓から向かいの校舎が見えた。
休日のはずなのに、2階の廊下に生徒がいる。
桃色の髪を揺らして、ルーシーが何かを運んでいるようだ。その後ろからライアンとロニーが駆け寄ってくる。3人で先生の手伝いをしているらしい。
生徒会としては何も聞いていないが、セシルたちは知っているのだろうか。
私の視線に気付いたリリー先生が窓を振り返った。ああ、と腰に手を当てる。
「あの子たちったら、前はアレンにベッタリだったのに。今は聖女に夢中なの?」
ベッタリというほどでは、と再び苦笑する。1年時は一緒に行動することが多かったライアンも、今ではほとんど話すことがない。ぬいぐるみを贈ってからはロニーと一緒に寝ることもなくなった。
そういえばあのぬいぐるみはまだ持ってくれているんだろうか。彼は雷を克服していたようだから、もしかしたらもうお役御免になっているかもしれない。
――あの2人が私の部屋に来ていたのも、すでに懐かしいな。
2年になってからは荒れた天気の日が増えていたが、雨の夜は必ず彼らが部屋に来ていた。2人がいたおかげで、苦手な雨音も気にせず眠ることができた。
もう彼らと一緒にお茶会をする機会はないのだろうか。当たり前のように食堂にいたことも、一緒に訓練をしたことも、遠い昔のような気がする。
一緒にいるということは、あの2人は相変わらず仲がいいんだろうか。食堂でもバラバラだから、そういうわけでもなさそうだが。どちらもルーシーに恋をしているからこそ、ライバルとして共に競い合っていられるのかもしれない。
すごいな、と心の中で呟く。恋ができない私には真似できない関係だ。
「彼女の何がそんなにいいのか、あたしには分からないんだけど」
ルーシーを挟んで何かを言い合っている2人を見ながら、リリー先生がぽつりと呟いた。呆れたようにため息をついて、続ける。
「まぁ……好きになっちゃったら、仕方ないのかしらね」
『仕方ないでしょ。好きになっちゃったんだから』
突然、先生の声に重なるように幻聴が聞こえた。
同時に、図書館の中にはほとんど聞こえないはずの雨音が耳元で鳴り響く。視界が黒い靄で覆われたように閉ざされる。
自分がどこに立っているのか分からなくなって、ぐらりと重心が傾いた。
「あれ、……?」
地面が揺れているのか自分が揺れているのか分からない。思わずその場に座り込んで、ズキンと鈍く痛む頭を押さえる。ぼんやり開いた目に映ったのは、何故か見慣れた図書館の床ではなく、雨に濡れたアスファルトの地面だった。
そこで、思い出す。
――ああ、そうだった。昔から、大切な人が私から離れていってしまうのは……。
私が『恋』を理解できないせいだ。
暗闇に落ちるように意識が薄れていく。
なんとなく、誰かに名前を呼ばれた気がした。