91話 混乱 ◇
大粒の雨が降っている。服が濡れるのも構わず、バシャバシャと水溜まりを踏んで走る。辺りは真っ暗で、遠くに街灯の灯りが小さく見えた。乱れた呼吸が白くなって闇に溶けていく。
突然、近くで車のエンジン音がした。はっとして顔を上げる。赤いテールランプが光り、離れたところで停まった。その車に近付いていく人影を見つけ、咄嗟に手を伸ばす。待ってと力の限り声を上げる。
しかしその人は振り返らない。雨音で聞こえないのかと必死に足を動かす。バタンとドアが閉まる音がして、赤い光が遠ざかっていった。
濡れたアスファルトに足を滑らせて転ぶ。すぐに起き上がって走ろうとして、ようやくそれが無駄なことだと気付いた。これ以上いくら走っても追いつかない。
きっと、もう2度と会うことはないのだろうと直感で分かった。
景色がぼやけていく。胸が苦しい。息がうまく吸えない。寒い。足が痛い。
置いて行かれた理由なんて分かってる。あの人にとっては私なんかより、恋の方が大事なんだ。私はそれを理解できなかった。認めてあげられなかった。
だから、邪魔だったんだ。
大好きだったのに。ずっと一緒にいられると思っていたのに。
私じゃあの人を、幸せにできなかったんだ。
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目を開ける。ぼんやりと寮の天井が見えた。部屋の中は薄暗い。窓の外で小さく雨の音がする。今は何時だろう。また早く目が覚めてしまったかと体を起こす。
同時に、瞳に溜まっていたらしい涙がぱたりとシーツに落ちた。それを見て、情けないなと苦笑する。
時計の針は4時を指していた。再度眠る気にもならず、ベッドの縁に腰かける。
渡り廊下でうっかり嫌な記憶を思い出して、今日で5日。降り続く雨のせいか、あれから毎日のように過去の夢を見ている。
おかげで連日寝不足だ。明後日には芸術祭も控えているというのに。
もやもやと胸に残っている苦しさを吐き出すように、深く息をつく。この世界とは何も関係ない、忘れていたって構わないような記憶だ。実際あの時までほとんど忘れていた。何故、急に思い出してしまったのだろう。
――今はそんな場合ではないんだが。
魔界の門を封印してハッピーエンドを目指す。長期休暇も終わった今、最終イベントまで気を抜くことはできない。門の封印が失敗したらこの世界には瘴気が溢れてしまう。再び疫病が流行れば、必ず犠牲者が出るだろう。
攻略対象として振舞うなら私のルートに来る可能性も考えておくべきだった。自分から恋をしなければ大丈夫だろうと高を括っていたのは失敗だった。
私は昔から詰めが甘いなとため息をつく。過ぎたことで悩んでいる暇はない。ちゃんとみんなが幸せになれるように、今の私にできることを……。
そう考えて、思考が止まる。
――『みんな』が幸せ? そんなエンディングは、どうやったら迎えられる?
ここは乙女ゲームの世界なのだから、普通に進めばヒロインと最終的に結ばれるのは1人だけだ。うまく私じゃないルートに進んだとしても、ルーシーが最後に選んだ相手以外は失恋してしまうことになる。
確か攻略サイトには、全員と結ばれるハーレムエンドの存在も書かれていたようなと記憶を辿る。しかしそうなると、その中に私も含まれてしまう。
1人でも恋ができていなかったら、それはハーレムとは呼べないだろう。
――私のせいで誰かにとってのバッドエンドになるのは駄目だ。みんなを幸せにするためにも、私も恋をしなければ、……?
突然頭に浮かんだ考えに違和感を覚える。無理やりそう思い込まされたような、不安と気持ち悪さが胸の奥で渦巻いているような嫌な感覚だ。
自分の意思なのは間違いないが、何かおかしい。……おかしい? いや、別にそうでもないか。乙女ゲームのハッピーエンドには『絶対に』恋が必要なのだから。
そこでノックの音がした。いつの間に時間が経っていたのだろう。気付けば時計は7時を示していた。返事をすると、合鍵を使ってジェニーが部屋に入ってきた。
今日は休日だが、生徒会の会議があるため校舎へ向かうことになっている。いつものように挨拶を交わして、さっそく身支度に取り掛かる。
顔を洗って制服に着替え、鏡の前で髪のセットをする。髪を梳かしながら、何故かジェニーはちらちらと私の様子を伺っていた。
鏡越しに不安そうな顔が目に入り、声をかける。
「どうした?」
「いえ、失礼いたしました。……少し、疲れていらっしゃるご様子だったので」
あまり眠れていないのが顔に出ていたらしい。毎日会っている彼女にはわかるのだろう。ジェニーは普段と同じ高い位置で髪をまとめると、一歩下がった。
そして、躊躇いがちに言った。
「顔色もよろしくないようにお見受けしますが……念のため、本日はお休みになったほうが良いのではないでしょうか?」
そう言われ、少しだけ考える。彼女がわざわざ休むよう進言してくることなんて滅多にない。心配をかけるのもよくないな、と振り返って小さく笑う。
「会議を休むことはできないが、12時の鐘が鳴る前には戻るようにする」
「……かしこまりました。どうぞご無理なさいませんよう」
変わらず不安そうなジェニーと共に食堂へ向かい、朝食の後はそのまま校舎へ足を向ける。寝不足のせいか1人だからか、ここ数日はあまり食欲もない。それで余計に心配されているのだろう。
これでは筋肉がもっと落ちてしまうなと小さく息をつき、生徒会室を目指す。
休日のため、他に生徒たちの姿はない。階段を上って生徒会室の扉を開くと、すでにセシルとカロリーナの姿があった。
セシルは生徒会長席に座っているが、カロリーナは彼の机の前に立っている。
「おはよう。早いな2人とも」
「おはようございます、アレン様。私もつい先程来たばかりですわ」
カロリーナが振り返り、すっとスカートを広げて挨拶をしてくれる。セシルは書類から一瞬だけ顔を上げてこちらに視線を向けた。
「……おはよう。さて、休日にあまり時間をかけたくない。さっそく始めよう」
その言葉に頷いて、私もカロリーナの隣に並ぶ。去年と一昨年の芸術祭について書かれた資料を机に並べ、会議という名の情報共有を開始する。
今年の芸術祭で行われるのは『劇』だ。いつもは貴族にも人気の高い有名な劇団を呼ぶのだが、今回は予定が合わなかったらしい。……ということになっているが実際は、半年前に学園から劇団に打診する必要があることをマディが忘れていて、あまり人気のない劇団しか呼べなかったそうだ。
「去年裏山に通じる門が開いていた件を踏まえて、今年の芸術祭では衛兵の数を増やすことになった。学園の中には入れないが、正門から講堂周辺を注視してもらう。それから、できるだけ芸術祭に参加する生徒を増やすため、上演中は図書館と校舎には鍵をかけるようにする」
それは防犯のためでもあるらしい。ここまでやって学園長代理であるマディが講堂に来なければ、どうしたって大勢から怪しまれるだろう。さすがの彼も今年の芸術祭では大人しくするしかなさそうだ。
その他、当日の集合時間とそれぞれの動きを確認したところで話が終わる。これなら12時の鐘が鳴る前に帰れるかもしれない。
「他に共有しておくべき情報はないかい?」
セシルは私とカロリーナを交互に見て、手元の書類に目を向けた。それじゃあ、と椅子に座り直して口を開く。
「僕から報告させてもらおう。先日、ルーシーが生徒会室に相談に来たんだ」
ここで彼女の名前が出てくるとは思わなかった。いつ来たんだろう。何かあれば相談に来てくれとは言っていたが、私とはタイミングが合わなかったようだ。
相談内容は、身分を理由にいじめを受けているというものだった。責められるだけや無視されるだけならいいが、その時は階段から落とされそうになったらしい。
これ以上危険な行為が増えたらと不安になり、生徒会に相談に来たそうだ。
「僕たちが知らないだけで、おそらく日常的にそういったことが起こっているんだろう。未だにルーシーを平民と馬鹿にしている生徒も多いからね。彼女には、危害を加えてきた生徒の名前が分かるならと一応聞いておいたんだけど……」
そこで、セシルはカロリーナに目を向けた。きょとんとしている彼女を見詰め、静かに眉を顰める。
続けて述べられた生徒の名前は、普段彼女と一緒に行動している女子生徒たちのものだった。そこに含まれたピア・ホルトの名を聞いて、「まさか」と呟く。
カロリーナは驚いた顔をして首を振った。
「お待ちください! 彼女たちがそんなことをするなんて信じられません。本当に優しい子ばかりですもの」
「ルーシーが嘘をついていると?」
「そうではありませんが、どなたかと勘違いなさっているのではないですか?」
私もあの優しいピアが、平民というだけでルーシーをいじめるとは思えない。
セシルは納得いかないというように息をついた。
「優しいからこそ、彼女たちが君のためを思って行動した可能性はないか?」
「私のため、ですか?」
「ああ。婚約者候補である君を差し置いて、平民のルーシーと話している僕の姿を見かけたのかもしれない」
「でも、私がただの『候補』であることは彼女たちもご存じのはずですわ。それに、そんな理由で人を傷つけるような方々ではありません」
友達を疑われたカロリーナも引かず、反論を重ねる。
ゲームでもルーシーが平民という理由でいじめられるシーンはあった。ライバル令嬢としてカロリーナが出てきたことも覚えている。
しかし、それはあくまでゲームの話だ。この世界のカロリーナは平民嫌いではないし、ルーシーにも優しく接しているのを知っている。
しばらく会話が途切れ、間が空く。再度ルーシーに確認するか見回りを増やして調査するかと考えていると、セシルが鋭い目をカロリーナに向けた。
そして、信じられない言葉を口にする。
「そうは言っても、君は僕の婚約者候補であることを誇りに思っているだろう。彼女たちが自分で動いたわけではないのなら、僕に関わるルーシーに嫉妬して、彼女をいじめるよう君から頼んだとも考えられるが?」
「な……」
言葉を失ったカロリーナと同時に、私も絶句してしまう。
彼はそんなことを言うような性格だっただろうか。幼いころから、婚約者候補としてカロリーナのことを一番近くで見ていたはずなのに。
思わず彼女を庇うように前に出て、口を挟む。
「カロリーナがそんなことを友達に頼むわけがないだろう! 彼女の性格を知っていて何故そんな……セシル、やはり君は創作呪文の授業から何か変だ」
「『変』なのは君だろう?」
セシルはガタンと椅子から立ち上がり、顔を上げた。赤い炎のような目がカロリーナから私に向けられる。嫉妬どころじゃない敵意を感じて息をのむ。
「ルーシーに話しかけられても笑顔ひとつ見せないで、かと思えばいつの間にか彼女の隣にいて。君は何を考えているんだ? 君の気持ちはどこにあるんだ? 彼女のことが好きなのかどうか、はっきりしたらどうだ」
「それは……っ」
私が答える前に、セシルがぎゅっと拳を握った。酷く苦しそうな顔を見て言葉に詰まる。彼は片手で頭を押さえると、目を伏せて一気に捲し立てた。
「好きなら何故距離を取るんだ? わけがわからない。彼女の気持ちには気付いているのか? 僕たちの気持ちには気付いているのか? 気付いていて、わざとやっているのか? 一体何がしたいんだ! 君は僕たちを不幸にしたいのか!?」
『あんたは私を不幸にしたいの!?』
ズキンと何かが胸に刺さったような痛みと共に、幻聴が聞こえた。
違う。私は、私はただ。言いたいことはたくさんあるのに声が出てこない。無意識に握っていた拳が震える。勝手に視界が揺れるのを、ぐっと唇を噛んで耐える。
「ッセシル様! なんてことを……!!」
カロリーナが声を上げた。それを手で制し、小さく息をつく。今はセシルの顔を見ることができない。視線を下に向けたまま、彼の問いに答える。
「不安にさせてすまない。私は、君たちの邪魔をするつもりはない。ただ……」
ただ無事に門を封印して、ハッピーエンドを迎えられたら。
恋をしても変わらず、仲のいい友達のまま一緒にいられたら。
――分かってただろう。恋ができない自分には、ハッピーエンドなんか……。
黒い靄が心を覆っていくのを感じる。これ以上この場にいたくない。でも何も言わずに逃げ出すわけにはいかない。ちゃんと、キャラを守らないと。
何か言い訳をと考え、頭に浮かんだ言葉を口に出す。
「……すまない。ロニーの、訓練があるから……これで失礼する」
声が震えそうになるのを押さえながら、なんとか言葉を絞り出す。返事が聞こえる前に背を向け、足早に生徒会室を出る。バタンと扉を閉める音が廊下に響いた。
セシルもきっと、色んな想いや悩みを抱えていたんだろう。それが私のせいで爆発してしまったのかもしれない。
あんな風に怒るのも当然だ。傍から見れば、私は友達の恋心を知っていながらルーシーと頻繁に絡み、その上で急に距離を置くなんて意味不明な行動をしている。
頭を冷やそうと階段に向かって足を進めたところで、「アレン様!」と後ろから声がした。生徒会室を飛び出してきたカロリーナが、間を置かずに叫んだ。
「私は、アレン様の『味方』ですから!!」
彼女は優しい。自分だってセシルの言葉で傷付いたはずなのに、真っ先に私を心配して声をかけに来てくれるなんて。
優しくて、強い。今振り返ったら、つい情けなく頼ってしまいそうだ。
「……ありがとう」
振り返らずに短く返し、そのまま階段を下りる。
誰もいない校舎に雨音が響いていた。