90話 雨音 ◇
ヒロインであるルーシーと出会うだけで、好感度が上がる。
改めて考えると彼女に微笑まれた時、妙に胸が温かくなることがあった。聖女祭で泣いている彼女と出会った時も、花束を受け取った時も胸が高鳴った。
もしかしたらそれが、好感度が上がったサインだったんだろうか。
――なんて考えてしまう時点で、私に恋はできないな。
午後の授業に向かうため、廊下を歩きながら苦笑する。
これ以上勝手に好感度が上がるのも、私のルートで確定してしまうのも困る。魔界の門を封印するために『恋』が必要なのだとしたら、ルーシーには別の誰かのルートに進んでもらわなければならない。
そのために、私にできることは……。
角を曲がったところで廊下の先に桃色の髪が見えた。ぴたりと足を止め、頭で考えるより先に踵を返す。足早に階段を上り、ルーシーが通り過ぎるまで待つ。
あの日この世界に好感度システムがあることに気付いてから、彼女とはできるだけ会わないようにしていた。気配を感じたら身を隠し、話しかけられるような距離には近付かない。せっかく仲良くなっていたのに申し訳ないとは思うが、このまま何も考えずに関わり続ける方がよくないだろう。
もっと早く気付けていたら、と息をつく。攻略対象として振舞うだけでなく、好感度のことも最初から意識できていれば。
そうすれば花束を受け取るのも一緒にホーリーライトの呪文を見つけるのも、ちゃんと彼女に恋をしている別の誰かだったかもしれない。
そもそもこれが『好感度』だと気付いたのは、私に前世の記憶が残っているからだ。他の攻略対象たちからすれば、胸の高鳴りは普通の恋と変わらないだろう。
当然、嫌な感覚ではないはずだ。……それなのに。
――仮にも『恋心』に対して、気持ち悪いと思ってしまうなんて。
記憶があるせいでゲームのシステムとしか思えないからか。それとも、私に恋心がないからか。好感度を知ったあの時、胸に込み上げた感覚をトキメキだとも恋だとも思えず、ただ気持ち悪いと感じてしまったのは我ながらショックだった。
好感度が上がるだけで自動的に恋ができていれば、こうして悩むこともなかっただろう。ゲームシステムは、どうやら心には適用されないらしい。
ルーシーのことは好きだが、今のところ自分だけを見てほしいなんて感情は一切ない。ヒロインを恋愛対象として見られない攻略対象なんて私くらいだろう。
そう考えていたところで、話し声が聞こえた。
「おお。どうかね、学園生活は」
マディの声だと気付き息をのむ。それに答えるように、戸惑った声が聞こえた。
「あ、ええと……とても楽しいです」
階段の下でマディとルーシーが話をしている。まだ昼休みが終わるまで時間があるからか、辺りには人の気配がない。
マディは「そうかそうか」と芝居がかった笑みを浮かべた。
「それはなによりだ。お前は国の大事な大事な聖魔力保持者様だからなぁ。私の学園を気に入ってくれたようで嬉しいよ」
この学園は国立なのだが、と眉を顰める。いつから学園長代理の彼のものになったんだろう。ルーシーが答える前に、マディは思い付いたように言った。
「ああそうだ。お前は王子……生徒会長と仲がよかったな。生徒会の面々とも関わる機会が多いだろう」
「そうですね。色々とお世話になっています」
「よし、それならこれをやろう。是非今度の休みにでも誘うといい」
ちらりと階段から様子を見る。ルーシーは何かのチケットをマディから受け取ったようだ。あれでセシルを誘うのだろうか。セシルルートにそんなイベントはなかった気がするが、と首を傾げる。
彼はそのチケットを渡すために来たらしく、用は済んだとばかりに歩いていく。
もしや罠が仕掛けてあるのだろうか。それとも2人を学園外に出すためかと考えていたところで、ルーシーがマディを呼び止めた。
「あの、学園長。……どうして私にこのチケットをくださるのですか?」
彼女が疑問に思うのも当然だった。ここからは見えないが、マディは立ち止まったようだ。理由を考えているのかしばらく間を置いて、廊下に声が響く。
「あー、あれだ。余っていたからだ。偶然会ったのがお前だったというだけだ」
面倒臭そうにマディが答える。何故かルーシーが大きく息を吸い込んだのが見えた。次いで、予想外の言葉が彼女の口から飛び出す。
「私たちを学園から遠ざけて、学園長は何をなさるおつもりですか」
な、と声が漏れそうになり口を抑える。
マディは答えない。ルーシーはさらに続ける。
「突然すみません。その……なんだか、学園長が危険なことをしている気がして」
「危険なことだと?」
コツコツと靴音を立ててマディが近寄ってくる。ルーシーはわずかに後退った。
マディは苦い顔をして、わざとらしく首を傾げた。
「はて、なんのことやら。私は学園長だぞ。平民のお前と違って守るべき身分も立場もある。勝手な妄想で人を疑うのはやめたほうがいい」
「で、でも……」
ルーシーは口ごもった。その目に決意のようなものを感じて、思わず足を踏み出す。そのまま階段を下りていくと、驚いたように両方から視線が向けられた。
2人の間に入り、マディに向き直る。
「お話し中失礼します。これから授業の準備がありますので、ルーシー・カミンをお借りしてもよろしいでしょうか」
「……ほう、準備ねぇ」
彼は怪訝な顔をすると、勝手にしろと吐き捨てて去っていった。その姿が完全に見えなくなるまで待ってからルーシーを振り返る。
「君は何を考えているんだ。馬鹿正直に本人に尋ねる奴があるか」
「す、すみません!」
ルーシーは首をすくめると、慌てて頭を下げた。それを見て小さく息をつく。
「私が止めなければ、あの時廊下で聞いたことも言うつもりだっただろう」
すべてを正直に話していたら、マディは彼女を放っておかなかったはずだ。ただでさえ聖魔力を持っている彼女の記憶は消すことができない。いっそのこと、と物理的に危害を加えてきてもおかしくない。
視線を逸らしたまま、ルーシーは俯いた。
「あれだけじゃ確信が持てなくて……勘違いだったら、いつまでも学園長を疑っているのは失礼だと思ったんです」
「尋ねたところで、もし本当に悪いことをしているのなら正直に答えるわけがないだろう。君に知られているのだと気付かれる方が危険だ」
私がそう言うと、彼女はハッとしたように顔を上げた。ようやく自分が危険なことをしていたと気付いたようだ。
これ以上好感度が上がるのは困るが、さすがに見ないふりはできなかった。場合によってはここでマディとの戦闘が始まっていた可能性もある。
マディは闇魔法以外も使えるが、ルーシーは聖魔法しか使えない。彼女を止めなければ私も巻き込まれていただろう。
ルーシーは考える素振りをして、おずおずと私を見上げた。
「もしかして、授業の準備というのも?」
「ああ。話を終わらせるための嘘だ」
「また助けてくださったんですね……ありがとうございます、アレン様」
金色の瞳が嬉しそうに細められ、次いで思い付いたようにぱちりと開いた。
「そうだ、チケット! 少し不安ですが有名な劇なのは間違いないですし、席を空けるのももったいないので、よかったら一緒に行きませんか?」
その瞬間、トクンと胸が高鳴った。
同時に顔が熱くなり、反射的に目を逸らす。しまった。これもイベントの一部だったのだろうか。ここで応えたら好感度が上がってしまうのは間違いない。
申し訳ないと思いつつ、首を振る。
「それはセシルを誘えと渡されたものだろう。目的は分からないが、どうせ行くのなら彼を誘うべきじゃないか。何かあってもセシルなら君を守ってくれるはずだ」
「それは、そうかもしれませんが……」
ルーシーは何か言いたげな顔をして口をつぐんだ。せっかくの誘いを断るのは心苦しいが、これもハッピーエンドのためだ。
「すまない。そろそろ授業が始まるから君も移動したほうがいい」
きっと彼女も午後の授業が入っているだろう。間もなく昼休みが終わる。
声をかけると、ルーシーは眉を下げて小さく頷いた。
===
ルーシーの誘いを断って数日が経った。
図書館を出て、灰色の雲に覆われた空を見上げる。生徒会室から運んできた資料を返却し、あとは寮に帰るだけだ。
以前は何もなければ図書館に長居していたが、最近は必ずと言っていいほどルーシーに出会うため、用が終わったらすぐに帰るようにしている。
不思議なことに、普段読まないような本棚の辺りにいても2階奥の席に座っていてもルーシーに出会ってしまう。彼女も驚いていたから偶然なのだろう。
その度に理由をつけて離れるのも心苦しい。ヒロインと攻略対象が頻繁に出会うのもゲームの強制力なのだろうか。
彼女に危険が迫っている時ならともかく、日常的に出会ってしまうのはどうしてだろう。実はもうルートが確定してしまっているのではと不安になる。
しかし、先日もルーシーと話した際に胸が高鳴った。つまり、まだ好感度に上がる余地があるということだ。
私が彼女と出会うのを避けて、その分他の攻略対象と出会う機会が増えれば、最終的には別の誰かと結ばれるかもしれない。
そうなれば門の封印も問題なくできるだろうし、その先の未来もある。
学園生活にはまだ大きなイベントが2つ残っている。来週の芸術祭と、来月あるダンスパーティー。それまでなんとか好感度を上げないように行動できれば。
そう考えつつ渡り廊下を歩いていたところで、前方の校舎にルーシーの姿が見えた。一瞬迷い、踵を返す。彼女に気付かれる前にと思ったが、遅かった。
「アレン様!」
ルーシーが駆け寄ってくる。無視するわけにもいかないため、立ち止まって振り返る。彼女は数歩離れたところで足を止めると、胸の前でぎゅっと拳を握った。
覚悟を決めたような顔をして、口を開く。
「あの……もしかして、私のことを避けていらっしゃいますか?」
咄嗟に返事ができず、言葉に詰まる。
いつから気付かれていたのだろう。さすがに今のは露骨すぎたか。何と答えるべきかと迷っていると、それを肯定と受け取ったらしいルーシーが言った。
「私が失礼なことをしてしまったのなら謝ります! でも……できれば、理由を聞かせていただけませんか?」
祈るように手を組んで、彼女はじっと私を見詰めた。向けられた金色の瞳が揺れていることに気付き、はっとする。
ルーシーはこの世界の人間だ。当然好感度なんて知らないし、聖女とはいえ魔界の門のことだってそこまで詳しくは知らないだろう。
親しいと思っていた相手にいきなり距離を置かれて不安になるのは、私も経験したばかりだというのに。深く考えないまま彼女に同じことをしてしまった。
――最低だな、私は……。
心の中で呟いて彼女に向き直る。どうしても言い訳になってしまうが、本当のことを話すわけにはいかない。何とか理由を考え、答える。
「……少し、考えたいことがあって。しばらく1人になる時間が欲しいと思っていたんだ。そのせいでつい君を避けるような態度を取ってしまった。すまない。君が悪いわけじゃない」
聖女祭では力になると言ったのに、こんな方法しか選べないことが申し訳ない。
ルーシーは目を丸くした。少し間を置いて、小さく首を傾げる。
「それなら、私を嫌いになったわけじゃないんですか?」
「ああ、もちろん。君のことは、……」
その先は言葉が続かなかった。友達として大事に思っている、というのは攻略対象である私から言うべきではないだろう。
彼女は安心したように、ほっと息をついた。
「そうなんですね……アレン様の立場では、考えることもたくさんありますよね。わかりました。私のことはお気になさらず、気が向いたらまたお話してください」
「ありがとう。個人的に会うのは難しいが、何か困ったことがあれば迷わず生徒会室に来てくれ」
はい、と大きく頷いて彼女は嬉しそうに笑った。最初からこうやって理由を伝えておけば、優しい彼女を傷付けずに済んだのかもしれない。一礼して図書館へ向かう彼女を渡り廊下から見送る。
そこで、耐えきれなかったようにぽつぽつと雨が降りだした。それはすぐに大粒の雨に変わり、辺りが騒がしくなる。
傘を借りて帰らなければと思ったところで、雨音に重なるように声が聞こえた。
「どうして彼女と距離を取るんだ?」
私たちの会話を聞いていたらしい。廊下の影からセシルが姿を現した。
いつの間にと尋ねる間もなく、彼は続ける。
「まさか、僕たちに申し訳ないからと身を引くつもりじゃないだろうね」
正面から向けられる視線が痛い。嫉妬で鋭く尖った目は、今までの穏やかな彼とは別人のようだ。声にも怒りが込められているのが分かる。
身を引くも何も、私は彼女に恋をしているわけではない。むしろ他の誰かと結ばれてくれと願っているのに。
「そんなつもりは」
答えた声は届いたんだろうか。雨音に紛れて聞こえなかったのかもしれない。
セシルは目を伏せると、呟くように言った。
「君が何をしたいのか、理解できないよ」
彼は一瞬私を見て口をつぐんだ。それ以上会話をする気がないというように、こちらに背を向けて歩いていく。セシルを呼び止めようと、慌てて手を伸ばす。
「待っ……」
待ってくれと言いかけたところで、突然ノイズのように視界がぼやけた。
いつかの記憶が映像として目の前に広がる。どんなに伸ばしても届かない自分の手が視界に入る。去っていく背中にセシルの姿が重なる。
雨音が頭に響いて、幻聴が聞こえた。
『おばあちゃんには連絡しておくから』
――もう完全に、忘れたと思っていたのに。
駄目だ、と拳を握る。余計なことを思い出すなと自分に言い聞かせる。目を瞑っても耳を塞いでも、一度思い出してしまった記憶は簡単に消えてはくれない。ざあざあと騒がしい雨音が、どこから聞こえているのか分からなくなる。
どうやらこの雨はしばらく止みそうにない。
深く息をついて顔を上げた時には、周りにはもう誰もいなかった。