プロローグ ◇
「あのさ、キスしてもいい?」
カップルで溢れる海浜公園。
撮影スポットになっているイルミネーションの前で、突然彼がそう言った。期待の込もった目を向けられ、申し訳ないと思いながら頭を下げる。
「ごめんなさい。そういうのは無理です」
付き合って1か月記念のデートは、最後のデートとなった。
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話を聞いた瑠海は信じられないという顔をして、飲もうとしていたカプチーノをテーブルに置いた。
「え、別れちゃったの? いい人だって言ってたのに?」
「いい人だったよ。優しいし話も合うし」
でも、とラテに角砂糖を追加しながら続ける。
「『友情』マッチングアプリで出会ったのにさぁ……!」
思いのほか声が大きくなってしまい、慌てて周りを確認する。どうやら店内BGMに紛れて聞こえなかったらしい。こちらを気にした様子の人はいなかった。
ほっと胸を撫で下ろしつつ、少しだけ声量を落とすことにする。
佐倉結、22歳。地方に住む平凡なOL。
一般的な女性と違うところといえば、おそらくただひとつ。
恋が、できない。
「友達同士でキスするかなぁ」
「仕方ないんじゃない? まぁそういうことがしたいなら、普通のマッチングアプリ使えばいいのにね」
仕事帰りにいつもの喫茶店で待ち合わせて、親友と近況を話し合う。つい先日も遊んだばかりだから他に話題がない。
とはいえ、どうせならもっと楽しい報告をしたかった。
カップを手に取り、冷ますついでにため息をつく。
「でも、申し訳ないな……あんなにカップルがいっぱいいる前で断っちゃったの」
「そこでOKしたら絶対次があるじゃん。断って正解だよ」
その日のうちに別れたのは驚いたけどね、と苦笑いする瑠海につられて、私も苦笑いを浮かべる。すぐに縁を切ったのは、これ以上望まれることに応えられないのが忍びなかったからだ。
普通の恋愛がしたいなら最初に言ってくれれば、付き合う前に断ったのに。彼の人生を1か月も浪費させてしまったことが申し訳ない。いや、瑠海の言う通り、普通のマッチングアプリを使っていない彼にも問題があるのかもしれないが。
「ちゃんと自己紹介に書いてたんだけどな。恋はできませんって」
「半年付き合ってた高校の時よりは、成長してるんじゃない?」
そう言われ、高校時代を思い出す。仲の良かった男友達に告白されて、嬉しくてそのままOKしてしまったこと。結局半年ほど過ぎたところで、自分の『好き』が相手の気持ちと違うことに気付いて別れてしまった。
そんな彼も今は結婚して子供がいるらしい。今思えば別れてよかった。私が相手では、そんな幸せは与えられない。
そろそろ同性パートナーでも探す方に切り替えたほうがいいのかな。別に女性相手なら恋ができるというわけでもないんだけど。なんてことを考えていると、瑠海が少し間を置いて口を開いた。
「ねぇ。友情マッチング使ってるってことは、もう恋することは諦めたの?」
「諦めたというか……たぶん、私には無理なんだと思う」
いつからそうなったのかは自分でも覚えていないが、正直こうして自分の恋話をすることにも抵抗がある。女性はみんな恋話が好きみたいな風潮があるせいか、会社の女子会でも友達の集まりでも恋愛の話しか出てこない。
できれば来世は、恋愛云々を気にしなくていい男性に生まれたい。いや、どうなんだろう。男性も恋話とかするのかな?
しかし来世より、大事なのは今の話だ。
「前に、結婚しない友達同士でシェアハウスしよう、みたいな話が出てたよね? みんなが本気ならちゃんと計画しようと思ってるけど、瑠海はどう?」
適温になったラテに口を付けつつ尋ねる。
瑠海は「ああ、それなんだけど」と何てことないように続けた。
「彼氏が来月から海外に転勤になってさ。私も付いていくことにしたんだよね」
その言葉に一瞬ラテが気管に入りそうになり、無理やり飲み込む。
ちょっと火傷した気がするが、それどころじゃない。
「えっ……か、海外? マジで? すごーい」
語彙力が一気に低下してそんな感想しか出てこない。彼氏がいることは知っていたし、仕事を辞めたという話も聞いていた。でもまさか、海外に飛び立つとは思っていなかった。
毎月のように遊んでいたのに、いつ決めたんだろう。フッ軽にも程がある。
なんとなくこれからも一緒に過ごすと思っていたため、じわじわと喪失感にかられる。話を切るのはまずいと思い、頭に浮かんだ問いをひとまず投げかけた。
「どこの国に行くの?」
「イタリアだね。私は全然イタリア語分かんないけど、彼がいるからなんとかなるかなって」
「イタリアかぁ、いいね。食べ物おいしそう」
「ね! めっちゃ楽しみ」
ニコニコと楽しそうにしている瑠海に『これから寂しくなるね』という言葉は飲み込んだ。本人が楽しそうなら水を差すわけにはいかない。でも、そっか。来月からは、もう会えなくなるんだな……。
自分が思っていたより、親友が海外に行ってしまうということがショックだったらしい。それ以降デザートを食べているときも若干上の空だった。
「じゃあまたね。準備があるから、次会えるとしたら出発直前かも」
「わかった、空港まで見送りにいくよ。また時間が決まったら連絡して」
ばいばーい、よいお年を! と手を振って別れる。なんだか急に寒くなったようだが気のせいだろう。
飲み会帰りの人混みを避けて、裏道から最寄りのバス停に向かう。
――あーあ。10年来の親友を、出会って数か月の人に取られちゃったな。
心の中で呟いて、子供かと苦笑する。仕方ない。どんな関係も恋には敵わない。みんな誰かに恋をしたら、私から離れていってしまう。
恋ができない私が誰かと一緒にいたいなんて願ったところで叶うはずもない。そんなのは、ただのわがままだ。
『仕方ないでしょ。好きになっちゃったんだから』
つい嫌なことを思い出しそうになり、無意味に頭を振る。今は幸せに生きているのだから、過去のことは忘れよう。
そう思ったところで、ピコンとスマホの通知音が鳴った。瑠海から無事に帰った連絡だろうか。それにしては早いけど、と思いながら画面を確認する。
『他のキャラとも恋してみない?』
一瞬何のことかと首を傾げ、アプリのアイコンを見て思い出す。
そうだ、先日入れた乙女ゲームのアプリだ。1人クリアしたところで飽きて放置していた。
「恋ねぇ……」
思わずぽつりと呟きが漏れる。恋をしようと思ってできるならこんなに悩むことはない。どんなに好きでも恋じゃない『好き』は、どうやら恋とは釣り合わないみたいだし。
そんなことを考えているうちにバス停に着いた。近くに街灯が1つあるだけで、この辺りは車が通らない限り真っ暗だ。
これでよく運転手さんはバス停が見えるよなぁと思いつつ、時刻表で時間を確認する。忘年会シーズンのこの時間に帰宅する人は少ないようで、近くには誰もいなかった。
ベンチに座ってスマホを開く。SNSに今日の写真を載せておこうとアイコンを押しかけて、マッチングアプリに目が留まる。
とりあえず入れてみたらと会社の先輩に勧められて、流れで登録した。ちょっとだけ期待していたが、最初から『普通』の人と出会ってしまったから、もうあまり信用できない。
男女の友情はやっぱり成り立たないんだろうか。しかし同性のパートナーを探している人は、同性に対して『恋愛ができる』人なのであって、同じく恋愛ができる相手を求めているのだろう。
となると、友達がみんな結婚したら私は1人ぼっちになるのかもしれない。死ぬ時も1人だったらやだなぁ、とため息が白くなって消えていく。
――シェアハウスの話、わりと本気で貯金してたのにな……。
それ自体も瑠海が前の彼氏と別れた辺りで持ち出した話だ。その時恋人がいなかった友達と、部屋割りや家事の当番などあれこれ計画を立てて盛り上がった。
そんな未来もいいなと思った。言い出しっぺの親友がいなくなった時点で、もう叶わない夢になってしまったが。
そろそろバスが来るかとベンチから立ち上がる。ほぼ同時に視界の端で黒いものが動き、反射的に身構えてしまった。塾帰りだろうか。学ランを着た男の子が、足元に置いていた黒の学生鞄を持ち上げるところだった。
――中学生? 真っ黒で気付かなかった。いつからいたんだろ?
もしかしたら最初からいたのかもしれない。上下黒の服が夜の闇に紛れて分からなかった。ベンチに座りたかったかな。ごめんねと心の中で謝罪しつつ、後ろに並ぶために数歩下がる。
そこで、カシャンと音がした。彼が鞄からパスケースを取り出そうとして、一緒に付いてきた筆箱を落としてしまったらしい。暗闇に筆記用具類がばら撒かれる。慌てて足元に転がってきたペン数本を拾い上げ、手渡した。
「す、すみません」
彼は礼もそこそこに、地面をキョロキョロと見回している。
まだ何か落としたものがあるのだろうと一緒になって地面を探していると、遠くに車のライトが見えた。バスかと思ったが、ライトの高さ的に普通の車らしい。上にランプがあるのでタクシーのようだ。
その明かりを頼りに足元を探す。ベンチの影に落ちていた消しゴムや鉛筆を見つけて、再び彼に手渡そうとした時だ。
あっと声を上げ、彼が車道を見た。銀色のペンがライトに照らされて光っている。そのまま止める間もなく、それを拾おうと彼は車道に飛び出していった。
――ライトが当たってるし、流石に運転手さんにも見えてるよね?
タクシーは少しずつ距離を詰めているが、夜の暗闇のせいでどれくらい離れているのかわからない。男の子を見ると、持ち上げたペンが手をすり抜けてさらに転がったらしく、ライトの輪を抜けて拾いに行っていた。
嫌な予感がする。
彼が小走りで戻ろうとする。タクシーのライトが近付いてくる。当然バスではないためバス停に止まるわけもなく、速度は落ちていない。
それどころか、バス停の先にある信号が青のうちに通り過ぎようとしているらしく、猛スピードで迫っているようだ。
これはまずい、と思った。
――あの子のこと、見えてない!
「待って!!」
咄嗟に叫んだ声は迫るタイヤの音にかき消され、彼には届かなかったらしい。至近距離でライトが彼のシルエットを映し出す。初めて見えた彼の目が大きく開かれる。ようやく人がいることに気付いたタクシーの運転手が同じく目を見開く。それがやけにスローに見える。
気付いたら彼を突き飛ばしていた。
ガン、と大きな衝撃が全身を襲った。