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Blind LANCO  作者: ぎんじ
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第三章 莉 奈

引越しの日、朝からTVでは、ビートたけしがバイク事故で重症のニュースが、各局のワイドショーで流れていた。


ボクは、ビートたけしのちょっと優しさを残したような世相風刺が好きだったので、引越しの日だというのにTVにかじりついていた。


 「ちょっとぉ、もう引越し屋さんが着いちゃうでしょ」

 「ああ、ごめんごめん、何すればよかったんだっけ?」

 「今、あなたが見ているTVを片付けてちょうだい」

 「あっ、は~い」

 「まったく、らんこたちの方が、役にたったんじゃないかしら」


ユミは、結婚後、初めての引越しだからなのか、滅多に見せない、テキパキとした態度だった。らんこ達は、早稲田に預けていた。早稲田なら安心だ。


レモンが未だ我が家にやってくる前に、らんこを一度だけペットホテルに預けたことがある。裕美の父母と一緒に旅行をすることになり、当然、早稲田も留守になるということで、試しにペットホテルに預けたのだが、迎えにいった日には、お店の外にまであきらかにらんこの声だとわかる程、鳴き声が響いていた。


普段は、本当に穏やかならんこが、ペットホテルから我が家に帰ってきても、鳴き続けていた。


ボクたちは、らんこがずっと心細かったんだと分かり、「ごめんね、ごめんね」と何度も誤った。


翌日、おちついたらんこを良く見ると、頭のところが円形脱毛症になっていた。

ボクたちはもう2度と、らんこを独りにしないよと約束した。

先ほど、早稲田に電話をしたら、早稲田の家では、おなかを出して寝ているとのことだった。

ユミのテキパキも、早く引っ越しを終えて、らんこ達を迎えにいきたい一心なのだろう。


 「もう、これで最後です。 よろしかったら、このままトラックを出してしまいますが」

引越し屋さんがテキパキと荷物を運び出し、玄関で声をかけてくれた。


 「ありがとうございます。 それでは、予定通りに現地で待っていますね」

ボクは、そう声を返した後、ガランとなった住み慣れた我が家を見返した。


壁や床が、主を失なうことを淋しがっているようにみえた。

ボクは、住み慣れた家の中ひとつひとつに「ありがとう」とつぶやいた。


らんこがお気に入りだった南の窓からは、あの日、らんこの命を吹き返してくれたときと同じような強い夏の陽射しが差し込んでいた。


引越しの翌日にはらんこ達を連れてくる予定だったが、早稲田に様子を聞くと、らんこもレモンも、我が物顔で楽しく過ごしていると言われ、少し安心したのか、ユミがもう一日預かってもらうことを納得してくれた。


新しい家には、そこかしこに、設計変更をした様子が見られた。

ユミは昔、インテリアを勉強し、設計事務所に勤めていたことがあったので、建築のこだわりが少なからずあった。


 「あっ、違うってば、そこにはカーテンポールを付けるんだから荷物を置かないで」

 「ああ、ごめん。 おっ、ベランダに花が咲いてるぞ」


新しい家の南の位置には、掃きだし窓が一面にその先にはベランダが広がっていた。

1階のボクの部屋の前には、前の道路から家の中が除けないように、つつじの植え込みがある。そこには1本だけ名も無い花が咲いていた。


ボクは、花の好きならんこがベランダの策の上に乗っかって、花の香りに鼻をヒクつかせている様子を目に浮かべていた。


 「はいはい、片付け終わらせちゃうわよ。 明日は、病院に行ってから、らんこ達を迎えにいくんだから」


 「ああ、そうだった。 よ~し、まずは、得意のオーディオセッティングからいってみよう」


ユミは、3ヶ月ほど前から、病院に通っていた。

結婚をして、6年目にしてネコ二匹と暮らしていることに、周囲からのケアレスウィスパーがいやでも耳に届く。その声を気にしていたのは、ボクの方で、ユミは我関せずではあったが、年齢的なことを考えて、自ら大学病院に出向き、不妊治療を始めたのだ。


不妊治療を行なう夫婦の努力は、それが、人知れず静かに行なっている分だけ、思いが強いものだ。


普段は、ダメージをあまり受け止めないユミも、さすがに不妊治療の外来がある日は、その疲れを隠せなかった。


仕事を早めに切り上げて、らんこ達を迎えに行ったボクをユミは一足先に早稲田で待っていた。


 「どうだった? 病院」

 「いつものとおり、疲れましたぁ」

 「まぁ、大学病院なんて待ち時間がほとんどだからなぁ。疲れるのは仕方ないよ」

 「そうね。まぁ、それだけでもないんだけどね、疲れる理由は。 なんか、診察室に入っていくときも、周りの人から背中押されているみたいで・・・。」

 「なるほどね・・・。 しかし、考えてみると、産婦人科って妙だよな 子供を身ごもる幸せそうな女性と、子供を産みたいと思う不安な女性が同居してるんだものな。 頑張れば向こうに行けるってもんじゃないのに、なんか頑張れって言ってるみたいだ」

 「まぁ、仕方がないのですよ。こっちは、お願いしている身、いやいや、なんとか頑張りま~す。」


ユミは、少しだけおどけて見せた。


義父と義母は、そんなユミを、遠くで見つめていた。



新しい家にやってきたらんことレモンは、家中を探索するのに3日ほどかかった。

特にらんこは、丁寧に部屋の壁の隅から隅まで匂いを嗅いで周った。


 「おい、らんこ、そんなに匂いばかり嗅いでたら鼻がおかしくなっちゃうぞ」

 「ニャー」

 「大丈夫だよ、ここは、オマエの新しい家、敵はどこにもいないって」

 「ニャー」

 「いいのよ、思いっきり自分の家の匂いを嗅がせてあげなさい」

 「でもなぁ、見ているほうが疲れちゃうよ」

 「いいんだって、それより、あなたにはまだやり残しのお仕事がなかったっけ?」

 「おお、そうだそうだ、バイクを直すんだった」


ボクは1年ほど前に、バイクを購入していた。

カワサキ・エリミネイター、ボクは時々、バイクで通勤した。

バイク通勤は、本来、禁止されているのだが、風を切って爽快に走る気持ちよさと、通勤いう少し漫然とした行為に、ちょっとだけワイルドなアウトロー気取りになれることが気に入っていた。


しかし、毎年、稼動期間は3月から11月までで、せっかくの愛車も、冬の間は寒さに負けて、カバーをかぶったままの状態になってしまうというアウトローにはあるまじき軟弱ライダーだった。


引越し前に調子が悪かったバイクの修理を始めたボクは、もともと機械いじりが苦手なことも手伝い、さっさと諦め、らんことの遊びタイムに戻ってしまった。


 「もう、らんこと遊ぶのはいいけど、邪魔だから自分の部屋でやってよね」

 「おお、自分の部屋!」


そう、念願のマイホームには、ボクの部屋があった。


そこには、大好きなテヅカオサムの漫画や、フェンダーのストラト、それから初めて我が家にやってきたアップル社の白黒小型モニタのパソコン、Macintosh 512K等が置かれ、ボクの夢の隠れ場所だった。


わずか5畳ほどの狭い空間だったが、らんこやレモンにとっては全く興味の対象外で、ボクがギターを鳴らした日には、勇んで逃げて行き、代わりにユミがやってきて、毎度言うのだった。


 「ご近所迷惑でしょ!うるさくしてると取り上げちゃうわよ」

 「は~い、しゅいましぇ~ん」

これも、毎度のボクの台詞。


マイホームに自分の書斎、新しく買い揃えた家具に、らんこ達を乗せることを考えてローン払いのついでに新しく購入した日産テラノ、練馬時代の生活と比べたら、だいぶ背伸びをした生活が始まった。


でも、ボクたち2人と2匹は、新しい生活に大きな期待を膨らませていた。


 「目いっぱい背伸びしてやろうじゃないか、なぁレモン!」


ボクの言葉に、意味も分からずレモンは得意の伸びをして応えた。



新しい家、新しい環境は、思えばレモンの警戒心を解くために考えたことだったが、変化が起きたのは、レモンだけではなかった。

レモンは、らんこよりも早くクローゼットを居場所として確保した。


割と簡単に、2匹ともクローゼットのドアを器用に開けることを覚えたのだが、先に陣取ったレモンに優先権があるらしく、ドアを開けてそこにレモンがいることに気づくと8割の確立で、申し訳なさそうに入るのを諦める。

でも、2割の確立では、レモンと寄り添ってくつろいでいた。


ボクは、バイクでの通勤が増え、以前の4階から1階に引っ越したことで、バイクの音にらんことレモンが敏感に反応するようになった。


そして、一番変わったのは・・・。


 「あ~あ、最低 ホント大学病院って一日のはじまりから憂鬱にさせるわね」

ユミは、久しぶりに訪れる不妊治療に明らかに気落ちしていた。

 「いいじゃない、会社ズル休みできると思えばさ なんか、美味しいものでも食べてエンジョイしなよ」

ボクの一言に、ユミは冷たい一瞥をくれて、その後は無口になってしまった。


 その日の会社帰り、会社の同僚が飲みに行こうとメンバーを募っていたのを尻目にボクは、バイク通勤も考えものだなぁと一人ごちて、いつものようにデスクに向かっていた。


週末とあって、会社の中はいつもより人の引けが早かった。

 「朝の調子だと、今もユミのやつ機嫌悪いかも知れないなぁ こういうときは、パァっと飲みに行った勢いで家に帰っちゃうのが良いかもなぁ」


ボクは、一度は同僚達の飲み会に参加しようと会社を出たのだが、バイクを週末の休みの間会社に置いておくことに悩んで、結局、そのまま家路に着いた。


帰り道、ボクは何となしに回り道をし、何となしにシュークリームを買い、ゆっくりと家に帰ったのだが、結局、いつもの帰宅時間よりずいぶん早い帰還となった。


 「ただいまぁ」

恐る恐ると言ったような口調で玄関のドアを開けたボクに返事は無い。

やっぱり、機嫌悪いんだ と思い、まずは自分の部屋で着替えを済ませてから、ボクはシュークリームを抱えてリビングに入った。


ユミは、リビングで夕食を並べていた。


 「あれっ、これからゴハン?」

 「うん」

 なんとなくそっけない・・・。

 「らんこ達は、終わったのかなゴハン」

いつもなら、そんな聞き方はしないのに、返ってギクシャクするだろと自分を責めた。


 「あのね 今日、大学病院に行ってきたの」

 「ああ、次の不妊治療のための検査でしょ? 大変だったね」

 「うん、そうだったんだけど・・・。もういいみたい不妊治療」

 「えっ?何それ?」

 「赤ちゃんができたって」

 「ええっ? だって、前回、失敗したからって、 ええっ?」

 「自然妊娠だって」

 「えっ? えええっ?」


ボクたちの待望のベイビーができたんだ。



新しい家での生活は、季節をまたぐ度に新鮮な発見があって、ボクたちは心地よく暮らしていた。

中でもユミは、身ごもった女性の特徴でもあるのだろう、時間をゆっくり使って、毎日を過ごしていた。


 「らんこ、どうだぁ、新しい家の冬は? なんだか、練馬より寒いような気がするよな」

 「ニャー」

 「大丈夫だよ、寝るときは、一緒にあっためてあげるから」

 「ニャー」

 「そうかそうか、そんなに嬉しいのか」

 「何言ってるの、都合のいいときだけ一緒に寝るなって怒ってんのよ ねぇ、らんこ」

 「だって、この寒さ、らんこ無しじゃ、乗り切れないよ まぁ、いいか、お~い、エモ!

あっ、どこ行くんだよ、逃げんなよエモ!」


ボクたちは、寄り添って寒い夜を過ごした。


1995年は、そんな寒い冬を引きずるようにして始まった。

寒い冬の向こうには、文字通り、咲き誇るような喜びが待っている。

ボクは、どんな寒さでも耐えられるような気がしていた。


しかし、そんなボクの希望も、なんの役も立たないほどの大きな悲しみが日本を包み込んだ。

1995年1月17日 阪神大震災


お正月ムードが抜けそうで抜けないでいたボクは、その日も寝ぼけまなこでリビングのヒーターを付け、いつものようにTVのスイッチを入れた。

そこに映し出されたものが何なのか、しばらくは分からなかった。


アナウンサーがしきりに神戸を中心とした兵庫県南部にマグニチュード7の大きな地震が発生したと繰り返していた。


 「どうしたの?」

ユミが起きてきて、TVを凝視しているボクを見てそういった。

 「神戸で地震があったみたいなんだ」

そう力なくつぶやいた瞬間にTVの映像は、ヘリコプターからの空撮に変わった。

高速道路が横倒しになっている。

ビルが傾いている。

街が燃えている。


 「大変だ 大変だ 大変だ」

ボクは、その様子を見て、今まで味わったことの無い焦燥に駆られた。

 「とりあえず会社に行ってくる」

ボクは、何をすれば良いか全く分からなかったけど、何かをしなければいけないと重いながら、急いで会社に行く支度をして家を出た。


 「らんこ、エモ 後は頼んだぞ 後で電話するから」


ボクは、会社に向かう途中ずっと、生まれてくる子供のことを考えていた。

子供ができたことを知ってから、ボクはなんとなくコンサバティブになっていた。

何も変わらず、穏やかに、ゆっくりと過ごすことだけを考えていた。


そんなボクを、いや、日本中を阪神大震災は、潰すように覆いかぶさった。



阪神大震災は、ボクの会社には直接的には影響を与えなかったが、何人かの社員は、知り合いが行方不明だったり、訃報の連絡に打ちひしがれる人がいた。


戦争はもちろんのこと、事故や震災も、それが起こった時は、大きなニュースになるが、本当に問題としなければいけないのは、それが起こった後の人間のケアだ。


阪神大震災の被災者もまたそうだった。

1月の冷え込んだ朝に、いっぺんに今までの自分の生活が奪い取られてしまう。

翌日、同僚の石田さんが、親戚と連絡が取れたと、つぶさに様子を語ってくれた。


その日、東京には雪が降っていた。

不思議なほど静かな1日だった。

 「石田ちゃん、親戚の人、大変なんだって?」

 「うん、私が直接話せたわけじゃないから、詳しいことは未だわからないんだけど、一人亡くなっちゃったの でも、家が潰れちゃったから、生き残った人も大変で・・・」

 「そうか、大変だよな、残された人も・・・。」

 「着るものとかも全部なくなっちゃったみたいなの」

 「ウチの会社の倉庫にある在庫のTシャツやトレーナー、あれって役にたたないかなぁ」

 「今、必要じゃないものなんてないと思う」

 「そうだよな、よし、義捐物資として送ろう 悪いけど石田ちゃん送り先調べて」


ボクたちは、この大きな悲しみを観てきた映画のように話していてはいけない。

何かをしなければいけない。

愛を持たなければいけない。


ボクは、この寒さに震えている子供の姿を思い浮かべながら、夢中に在庫をリストアップした。


その夜、ボクは家に帰ってから、ベッドの中でらんことレモンを両手に抱きかかえ、震災について見聞きしたことを話した。

 

 「電気やガスも途絶えてしまった寒い街は、ただただ真っ暗なんだってさ らんこ、そうなったらどうすればいい? 教えてくれよらんこ」

 「ニャー」

らんこは、ボクに声をかけられることを面倒くさそうに耳を閉じ、顔をうずめた」



神戸の街は少しずつだが復興の兆しを見せていた。


ボクは、もしかしたら、自分の子供を迎える環境を害の無いものにしたくて、世の中にある危険なものから目をそらしていたのかもしれない。


阪神大震災は、そんなボクの頭を強烈にハンマーで殴りつけたような出来事だった。


 「なぁらんこ、オレは考えたんだ。どんな敵が現れても、お腹の中の子を守ろうって」

 「ニャー」

 「そうだよな、それでなくちゃ!だよな。」

 「ニャー」

 「よ~し、オレたちで正義の味方チームを作ろうぜ!オレとらんことエモと・・、あれっ?エモはどこ行った? あいつ、肝心なときにいっつもいないんだから」

 「ニャー」


去年の夏までは不妊治療に通っていた大学病院での診察を待つ時間も、ユミにとって、少し違うものになっていた。


ユミは、妊娠を機に会社を退職し、静かに家で過ごすことが多くなっただけに産科の診察日は、気分が変わるのだろう。


ユミが通っていた大学病院は、電車で30分ほどのところにある。

その日も定期健診を受けるために、午前中に出かけたのだが、ボクが会社にいるとユミから電話がかかってきた。


 「ごめんね 仕事中に」

 「どうしたの?検診で何かあったの?」

ボクは、会社へは滅多にないユミからの電話に少し動揺していた。

 「切迫早産の疑いがあるんだって だから、先生が話をしたいって」

 「そ・・・早産?」

ボクは、早産の言葉に、目の前が真っ暗になった。


翌日、ボクは、まんじりともせず病院の診察室のドアをくぐった。


 「先生、どうなんでしょうか? 大丈夫なんでしょうか?」

 「ははは、大丈夫ですよ お腹の赤ちゃんはすくすくと育っています。ただ、奥さんは早産しやすい状態なので、生まれても大丈夫なときまで子宮を閉じておこうと思いましてね」

 「子宮を閉じる?」

 「双子の場合は良くやるんですが、シロッカー手術といって、予防のために子宮を縛っておきましょうということです」

 「それって、危険じゃないんですか?」

 「手術ですからリスクがゼロということはないですが、今の状態で生活して早産をしてしまうリスクとどちらを取るかということですね」

 「母体には影響はあるんですか?」

 「開腹するわけではありませんし、手術自体はごく簡単なものですから心配ありませんよ」


ボクは、安心したのに落ち着かないといったとても妙な心持ちで家路に着いた。


手術はいつでも良いが、もう5ヶ月に入っているので早めに行なうことに決め、ボクたちは、少し忙しい2月を迎えることとなった。



シロッカー手術を受けたユミは、今すぐ退院できそうなほど元気だったが、とにかく2日間は安静にということで、入院することにした。


ボクは、朝、らんこたちのゴハンを用意してから会社に向かい、仕事を終えて病院に向かい面会時間まで過ごすと家に帰り、らんこたちのゴハンとトイレの世話をした。


家にいる時間は今までと変わらなかったが、ユミがいない家で過ごすのはあまり経験がないことだったので、どうも手持ち無沙汰になってしまった。


 「なあ、らんこ 子供を産むのって大変なんだなぁ」

 「ニャー」

 「オマエもエモも、オレが勝手に避妊手術してしまってごめんな」

 「ニャー」

 「明日、ユミが帰ってきたら、お腹の赤ちゃんが無事だったこと、お祝いしてくれよな」

 「ニャー」

 「オマエは本当に返事だけはいいよな」


退院手続きはごく簡単なものだったが、おそらく何ヶ月か先にも同じことをするんだろうなぁと思って、ボクは注意深くやり取りを観察した。


ユミは、入院する前と何も変わったところは無いようだった。


 「ただ今ぁ、らんこ、レモン、大丈夫だった? 淋しかった?」

 「ニャー、ニャー!」

 「なんだよ、オマエ、それじゃあオレが何もしなかったみたいじゃんか」

 「ニャー」

 「おっ、なんだよ、やる気か?」

らんこは、ボクにネコパンチを食らわせた。


ユミが戻って、らんこ達も心なしか元気になったように見えた。

特に、レモンの甘えっぷりは大変なもので、昔の警戒心に満ちていた姿とは比べ物にならなかった。


 「そうそう、らんこ達が、お腹の赤ちゃんが無事だったから、お祝いをしてくれるんだって そうだよならんこ」

 「ニャー」

 「わかった わかった それじゃあ、らんこ達にはモンプチをあげちゃいましょう」

 「えっ? なんだよ、お祝いにかこつけてモンプチせしめてんのかよ」


ユミが帰ってきて、ホッとしたらんこ、甘えん坊になったレモン、あと5ヶ月もすれば、もう一人、我が家の家族が増えるんだ。



ユミの退院の後は、静かな生活が戻った。


冬の名残の寒さが、いや、待ち遠しい春の手前だからこそ寒さが身にしみる3月、ボクは、春支度をいつもより早く始めた。


バイクのチューンナップだ。


ボクの愛車、エリミネーターは電気系統に難があった。

12月の声を聞くと、カバーをかけられて放置されてしまう身になれば、難があるなんて言い方をされると、否が応でもスンナリとは動かないぞと思うものである。


ボクの愛車は、ちょっと頭を悩ませて復活させるのにちょうど良い時間をボクに求めていた。


 「まあ、今年は早いのね いつもだったら、桜が咲かないと始めないのに」

 「昔、会社から帰ってくると、らんこ達がこの音に反応してたって言ってたじゃない。 だから、これで春を知らせてやろうと思ってさ」

 「あの子たちは、そんなことしなくたってとっくに春を感じてるわよ。 特にらんこは、窓を開ければ、必ずやってきて春の香りを嗅ぎ分けてるんだから」

 「そうか、ボクもこのエンジンオイルの匂いで春を感じるってもんだ」

 「でも、あんまり乗らないでね」

 「えっ?」

 「だって、らんことレモンだけじゃなくて、これからはこの子もいるんだから」

ユミは、お腹を指差して、柔らかく少し笑った。


そんなことを言われたからじゃない。

その日は、まだ寒さが残っていたし、月曜日で遅刻できなかったから、いつもより30分ほど早く家を出て電車に飛び乗った。


ところが、ボクが乗った田園都市線は渋谷駅の前で停車したまましばらく動かない。


 「まったく、これじゃあ早く出てきた意味がないや」

満員電車の中は、汗ばむほどの温度で、そんな中に立たされるのは拷問に近い。

ボクは、爽やかな風を切りながらバイクを走らせる自分の姿を思い浮かべて、これからはバイク通勤にしようと固く誓った。


疲れ果てて会社に着いたのは、いつもの出社時間と変わらなかった。

入り口のドアを開けていつもなら誰かしら先に来ている同僚の姿が今日は見えない。

あれっ?今日は我が社はお休みか?と独りごちていたら、奥から悲鳴のような声がした。


そこに行ってみると、数人の社員がTVに釘付けになっていた。


 「どうしたんだ?」

 「大変なんですよ テロですよテロ」

同僚の熱田が分けがわからないという形相でボクに話した。


TV画面は、築地の駅付近の空撮で、そこには何人もの人が倒れていた。


 「なんだ、なんなんだ、何があったんだ」

 「サリンですよ 地下鉄にサリンが撒かれたらしいんです」

 「サリンって、あの松本で死人が出たあれか?」

 「大変ですよ 築地だけじゃないみたいだから」


ボクは、しばらく呆然としていたが、ボクは家に電話をかけた。


 「大丈夫なの?良かったぁ、TVで大変なことになってるって・・・」

 「オレも今会社に着いて初めてしったんだ。 大変なことになってるけど、こっちは大丈夫だから」


阪神大震災の時とは違った怒りにも似た焦燥が、またボクを襲った。



地下鉄サリン事件は、今までの犯罪とは異なる安穏とした時代はもう終わったんだ。これからは、世紀末に向けて暗く悲しい時代がやってくる。というような、そんな風潮をメディアを通してまことしやかに振りまかれた。


それを裏付けるように、事件2日後の3月22日、山梨県にある上九一色村の教団本部施設への強制捜査が行なわれ、化学兵器製造設備、細菌兵器設備等、オウム真理教の実態が明らかになった。


強制捜査の模様は、これまた今まで見たことの無いような映像だった。


 「らんこぉ、オレタチは正義の味方チームだよな こんなことには負けないよな」

 「ニャー」

 「でも相手は細菌兵器だぜ、サリンだぜ」

 「ニャーニャーニャー」

 「そうだよな、恐いよな どうすればいいんだろう? しょうがない今日はもう寝るか」


らんことの会話はいつもおどけていたが、ボクはいつも真剣に家族を護る術を考えていた。


あと3ヶ月とちょっとでボクの子供は生まれてくる。

こんな不安な世の中であってはいけないんだ。

優しい社会でなくてはいけないし、安全な時間を作らないといけない。

でも、焦るばかりでボクにはどうすることもできなかった。


そんな悶々とした気持ちのまま季節はしっかりと春を迎えた。


バイク通勤は控えめにとユミに言われていたにも拘わらず、ボクは他に用事が無ければバイクに乗れるスタイルで通勤支度をした。


地下鉄に乗ることが恐かったわけではないが、ただ電車の中で漫然と立ってるだけの通勤が嫌だった。


世の中の恐怖に立ち向かう術を持たない自分だから、自分で動いている感覚を持っていたかった。


しかし、世の中は自分のペースで動かなかった。


オウム真理教が起こした恐怖の事件が、教祖麻原彰晃が逮捕されたことにより結末を迎えた頃、ユミは出産前の2度目の入院を担当医師から告げられた。

 

 「え~、また入院するの?」

ボクは、落胆がそのまま声になったような言い方をしてしまった。

 

 「大丈夫よ、安全の為なんだから、出産まであと1ヶ月半だし、一番大切な時だから万全を尽くしてって先生も言ってるし」

 「そう言ったってさぁ・・・」

台詞が逆だ。ボクが励まさなくてはいけないのにそれができなかった。


ボクはしぶしぶと納得したが、その夜はまた、らんことレモンを布団の中に呼びつけ、正義の味方チームが何もできていない不甲斐なさをとうとうと語った。


 「だからな、気合なんだよ。 ちゃんと意識を持たないといけないんだよ」

 「ニャー」

 「オマエはいつも返事ばかりだ。 返事だけじゃなくてなんというか・・・気合だ!」

 「ニャー!」

 「あっ、痛ぇ、コラ、エモ!引っかくな!」


ボクがまた、病院経由で帰宅することになった2日目にその悲しい事件は起こった。



面会時間を過ぎても腰を上げなかったボクに看護婦さんが笑顔で退室を促し、ボクは少し引きつった笑顔でそれに応えた。


家に帰って、らんこたちのごはんの役目があるにも拘わらず、ゆっくりとした足取りで帰ったボクに催促するように家の中で電話が鳴り響いていた。


近くのコンビニで買った弁当を玄関に置き、急いで靴を脱いでリビングに向かったが、タッチの差で電話は鳴り止んでしまった。


 「ちぇっ、タイミング悪いなぁ」

そう言ったか言わないうちに、また電話が鳴り出した。


静かな部屋に響いたそれは、いつもよりけたたましく感じた。


 「もしもし・・・」

 「ユミちゃんのご主人ですか?」

そんな言い方をする知り合いはボクにはいない。


 「あっ、はい」

 「飯田橋厚生病院に行ってください。 今すぐ。 小父さんが倒れられました」

 「えっ、じょ状況はどうなんですか?」

 「判りません、兎に角、病院に」

電話をかけてきてくれた人は、早稲田の家の真向かいのご近所さんでユミの中学校時代の同級生だった。


ボクはエンジンがまだ暖かいバイクにまたがり、急発進で飯田橋に向かった。


車を使えば1時間近くかかる道を、ボクはバイクですり抜けるように向かった。


状況は全くわからなかったが、電話の向こうの声は緊迫していた。


早く、早くお義父の無事を確かめたかった。


バイクで走れば、ときよりまだ夜の風が冷たく吹く5月だったが、温度も色も、音さえも止まったような246をボクは走り続けた。



病院に着いて、救急入口から入りロビーに行くとお義母さんがボクに駆け寄ってきた。


 「ごめんね、ぎんちゃん 急なことで・・・、間に合わなかったの・・・。」

 「えっ?」

 「今、司法解剖に廻っている」

 「そ、そんな・・・。」

言葉は出なかったが、ボクがおたおたしている訳にはいかなかった。


ボクは、お義母さんを椅子に座らせ、状況を少しずつ聞いた。


お義父さんは、夕食後、トイレに入った後吐き気を催し倒れたそうだ。

トイレに鍵が掛かっていた為、救急隊が到着してトイレのドアをこじ開けて救出したときには心臓マッサージが必要な状態だった。


お義父さんは前立腺がんだった。


少し前まで腰が痛いと言って、整形外科で牽引治療やペインクリニックを受けていたが、がんが発覚したときにはもう手がつけられなかった。


それでも治療の効果が出て、ずいぶん回復したと思った矢先の出来事だった。


 「ユミは、入院中よね。 知らせないほうがいいと思うんだけど」

 「何を言っているんですか! 自分の父親の死を隠されるなんて 絶対ダメですよ」

 「でも、今は大切な時期だし」

 「大丈夫です。 今日はもう遅いので、手配を済ませたらボクが病院に話に行きます」

 「そう・・・、大丈夫かしら」

 「大丈夫です 心配なさらないでください」


お義父さんは、死亡診断書が出来上がるまでの間、病院の霊安室で安置された。


葬儀屋さんの極めて事務的な説明に半ば空ろな返事で応えながら、ボクたちは連絡するべき人たちの確認をした。


そして、お義父さんと共に早稲田に着いたときにはもう日付が変わっていた。


葬儀屋さんの静かな、それでいて的確な指示の元、ボクたちは大掃除のときにも動かさなかったであろう大きな家具を動かし、襖を外し、あっという間に祭壇が用意された。


比較的小さめの部屋が集まっていた早稲田の実家ではあったが、こんなに広いスペースが取れるものなのかと少し見とれてしまった。


 「お義母さん、忙しい1日になると思います。 少し休まれた方が良いですよ」

 「そうね。 でも、動いていないとなんかやりきれなくて」

 「そうですか そうですね。いろいろ届けとかありますからね」

 「ぎんちゃんはどうするの? ユミの病院にもいかなくちゃだしね」

 「明日、落ち着いた頃を見計らって行って来ます。 らんこ達の世話があるので、一度家にも帰らないといけないし それまでにボクができること探しておきます」


ボクは、2階に上がるといつもより少し淋しそうにしているチコとガッチャンに声をかけた。

 「明日からいろんな人が出入りするぞ、オマエたちも協力してくれよな」

 「ワン」

ボクの家ではらんこが返事するようにチコが一声、小さく吠えた。


夜が明けるまでの間にユミの従妹の久美子ちゃんとあらかたのことは片付けると、お義母さんが珈琲を入れてくれた。


お義父さんが倒れる前から病院に着くまでの話を何度も聞いた。

お義母さんは、何度も同じ話を答えた。


おんなじことを聞いている自分も、おんなじことを答えているお義母さんも少し気の抜けた会話だと気づいていながらも、そうすることが一番落ち着いた。


 「これからどうなっちゃうのかしらねぇ」

 「あんまり先のこと考えても仕方ないよ 叔母ちゃん」

 「そうですよ 兎に角、バタバタ過ぎていきますから疲れないようにしないと・・・」

お義母さんは、静かに頷いた。


葬儀屋さんがやってきて慌ただしくなってきた頃、電話がなった。

ユミからだった。

 「あれっ?ぎんちゃんなんでそこにいるの?」

 「あっ、いや、ちょっとこっちに寄ったんだ。これからそっちに行こうと思って」

 「パパに何かあったの? 昨日も電話したんだけど誰も出なかったから・・・」

 「あっ、うん、今、人が着てるからまた後で・・・、そうだな二時間後くらいにそっちに行くから」

 「わ、わかった」

 

ボクは静かに受話器を置いた。


 「ユミから?」

 「ええ、なんか気が付いてるみたいで・・・」

 「そう・・・、それじゃぁ、早く病院に行ってあげて」

 「そうですね・・・、すいません、そうします」


葬儀屋さんとの打ち合わせをお義母さんと久美子ちゃんに任せて、ボクは早稲田の家を出た。

少しばかり眠気があったのか、ボクは考えがまとらないまま、バイクをユミの病院へ走らせた。



病室に入ると、ユミは思ったより淡々とした表情でベッドに横たわっていた。


 「早かったのね? パパダメだったのね?」 

 「そうなんだ、ボクが駆けつけたときにはもう・・・」

 「昨日ね、なんか虫が知らせたっていうか、電話したくなっちゃって でも、誰も出なかったから、なんか想像しちゃって」

 「あっと言う間だったんだ」

 「楽しみにしてたのにね 孫の顔」


ボクは、お義母さんから聞いた経緯を一通り説明した。

気まずいわけではない沈黙が続いた後、ユミは唐突にらんこの心配をしだした。


 「それじゃぁ、らんこ達はほったらかしね? 早く帰ってあげて ごはんも昨日から食べてないんでしょ?」

 「うん、まあそうだけど」

 「ワタシのことはいいから、大丈夫だから言ってあげて」


ボクは、お義母さんに促されて病院に来たように、ユミに促されて家路に向かうことにした。


 「また、明日来る なんかあったら、早稲田に電話して」

ボクはユミの目を見ずに言ったので、返ってへんな言い方になってしまった。


ユミは静かに笑った。



バイクを駐輪場に止めて、家に入るとらんことレモンが二匹でお出迎えだった。


 「悪かったよ、お腹空いたよな 待ってろとっておきのごはんあげるから」

 「ニャーニャーニャー」

 「あのなぁらんこ、レモン お義父さん死んじゃったよ」

 「なんか・・・、参っちゃうな・・・」


ボクは、誰もいない部屋でなんとなく泣いた。


運動会が終わった後にも似た疲れと、寝不足の思考力とで、いつもより多く涙が出た。


 「らんこ 頼むからオマエは長生きしろよ」


告別式が終わるまでは矢継ぎ早に時が流れた。


身重の喪服姿のユミは、いろんな人に優しく声をかけられたが、気丈に笑顔をふりまいていた。


落合斎場には、相次いで葬儀や合わせて行なってしまう初七日の儀式を待つ人で混雑していたが誰もが言われたように行動するので、とてもスムースに進行しているように見えた。


混雑している会場と、その上にある大きな空とが故人を通じて結んでいる。


いつも思うことだがこの思いを大切にしようとボクは思った。


 「大丈夫か? 疲れてないか?」

 「大丈夫よ 病院にいるより元気だわ」

ユミはなんともないような顔をして言った。


ボクの妻は本当に強い。 

ボクはその昔、母親を亡くしたときに、正体がわからないほどになっていた。


ボクの妻は本当に強い。


全てが終了した後、一時外出許可で病院から出ているユミを病院に送り返した。

道すがらの車の中で、ボクは、お互いにとってそれが良いだろうと、退院したら早稲田でしばらく過ごすことを勧めた。


ユミもそのつもりでいたようだった。


 「どうせだったら、らんことレモンも合わせて合宿でもするか?」

とボクがおどけたら、ひとしきり笑った後、ユミの頬に涙がつたった。


 「パパ、死んじゃったんだな・・・」


それは、長い間、親と子として作り上げてきた二人の思いに一つの幕を引く、引かなければいけない悲しい涙だった。


そして、もう少したてば、自分が親として新しい幕を上げることも事実だった。



お義父さんとの別れを終え、病院での経過観察も良好ということで、ユミは、早稲田の実家に戻った。


思えば、らんことレモンにとっても久しぶりの早稲田だ。


 「こら、エモ!おとなしくしろよ もう時間が無いんだから」

 「ウギャー」

 「らんこ、オマエも少し静かにしてろよ 近所迷惑だろ」

 「ニャーニャーニャーニャー」

普段はわがもの顔でぐーたらしている二匹は、なぜか外出の雰囲気をいち早く察知する。

今回は、久しぶりということもあっていつもより抵抗の度合いが強かった。


車の中でもこれでもかという合唱でボクを悩ませたが、早稲田に付くと、ひとしきり匂いを嗅いだあと、安心の場所と気づいたのか鳴き方一変した。


 「ニャン!」

 「ニャンじゃないよ おまえら調子良すぎるぞ」

 「いいじゃないの ねぇ、久しぶりだモンねらんこ、エモ」

 「ワンワンワンワンワン」

 「オマエらなんかとっても人気モンだな 大変だったのはこっちなのに」

らんことエモの周りには、犬のチコ、ネコのガッチャンも含め、今の早稲田の住人が勢ぞろいだ。


 「そうか、なんかお義父さんがいないのが不思議だな」

 「そうね・・・」


ユミは、らんこ達に癒されながらも、急に主を失った家に少し気を張った日々を過ごしていたようだった。


ボクは、早稲田の家から会社に通う日々に少し戸惑いながらも、もう少し、あと一ヶ月に迫ったわが子との面会に思いを馳せていた。


しかし、こんなときなのに仕事は容赦なく降りかかってきて頭を悩めてもいた。


そんな6月の晴れた日、お義母さんから会社に電話があった。


ユミが破水して、今、病院に運ばれたという連絡だった。


 「破水?破水ってなんですか? どうなっちゃうんですか?」

 「大丈夫よ、大丈夫だから、兎に角、病院に行ってくるから」

 「えっ?あっ、はい・・・・」


思えば、ボクは出産の知識がまるでなかった。

深夜に汗だくで駆けつけてくる夫、その傍らに心配そうな家族、神様に祈る夫の耳に赤ちゃんが元気に泣く声が響く、笑顔なのに涙がこぼれる夫


よくあるTVのシーンがボクが持っている出産の全てだった。


 「破水? どういうことなんだ・・・」


ボクは、何も判らず、何も見えず、不安でいっぱいになりながら病院の門をくぐった。



大学病院の助教授は、特にあわてることもなく淡々と状況を説明した。


 「前期破水ですね。このまま陣痛がきたら、出産となりますが今日のところは安静にして様子をみています」

 「破水って羊水が流れ出てしまっている状態なんですよね? 子供は大丈夫なんでしょうか?」

 「破水といってもいろいろありますから、状況を見てますから大丈夫ですよ」


ボクは不安でいっぱいだったが、ユミの様子があまり変わっていないことで安心した。


しかし、破水=出産をイメージしていたボクには、なんとも落ち着かない時間をまんじりとなく過ごした。


しかし翌日になっても医師の判断は変わらなかった。


 「赤ちゃんにとって、この時期はとても大切なときなんです。 1日でも多くお母さん 

 のお腹の中にいることが望ましいですよ 明日になっても陣痛が起きなかったら、陣痛

 誘発剤を使ってみましょう」


6月8日 その日は、朝から曇りの1日だった。


曇りなのに、なぜか眩いそんな不思議な朝を迎えた。


陣痛促進剤を使うことになったユミは、今日の午後に出産予定だと告げられたボクは、会社でたまった仕事を少しだけ片付けてから病院に向かった。


眩かった。


眠いのとは少し違うが、時間や温度があまり感じられない不思議な感覚でボクは病院までバイクを飛ばした。


病院についてナースステーションの前を通りかかった時、顔なじみの看護婦さんに呼び止められ、少しここで待つように言われた。


少しすると助産婦さんを名乗る女性が現れた


 「おめでとうございます。 元気なお嬢さんですよ」 と告げた。


 「えっ? もう生まれちゃったの? えっ?」


眩い意識が薄いような感覚のまま、ボクは自分の娘の誕生を自覚した。

でも、まだ少し夢の中にいるような気分だった。


1時間ほど待っただろうか、ボクはまずユミの寝ている病室に通され、それから程なく自分の娘に対面した。


ボクの娘は新生児集中治療室にいた。1945gで生まれたボクの娘は、低体重ということで、母親とは離されていたのだ。


ほんの数分の対面を終え、ユミのいる病室に戻り、まだ抜け着れない眩さにそのまま身を任せていた。

そのまま眠ってしまうのではないかと思っていたボクは、急に看護婦さんに名前を呼ばれ、

もう一度、新生児集中治療室に行くように言われた。


ボクの娘は、さっきいた場所とは違った位置で、保育器に入っていた。


ボクを見つけた医師は、カンファレンスルームにボクを促しこう告げた。


 「お子さんは仮死で生まれて、無事呼吸をしだしたので問題ないと思われたのですが、出生後5時間で、呼吸不全を起こし、心停止となりました。蘇生処置を行ないましたが、今はまだ呼吸器をつけて予断を許さない状態です」


ボクは夢から醒めて、また深い暗い夢の中に突き落とされた。



NICU 新生児集中治療室 と書かれた扉の向こうには、ボクの娘以外にも30人ほどの赤ちゃんが集中管理されていた。


日々、新しい命がこの部屋に運び込まれてくる。


低体重児以外にも、出世以後何らかの疾患が認められた赤ちゃんもここで人生の最初のページを書き始めている。


その儚いほどの存在に思わず目を背けてしまったわずか500gの超未熟児、元気ではあるが重い心臓疾患を抱えている新生児、生まれてまもなく脳外科手術を受けた男児、抱えている問題はそれぞれでも、同じことは、誰もが生きるために生まれてきたということだ。


ボクとユミは、わずか10分ほどの面会時間に目を輝かせてわが子を愛おしく眺めていた。

見ているだけで他に何もできない。人工呼吸器を付けられ、目を開くこともしないわが子にユミは穏やかな微笑みを投げかけた。


 「大丈夫よ、この子は これから私たちとずっと一緒にいるためにうまれてきたんだから」

 「そ、そうだよな らんこだって、そうだったんだからな」

そこまで言って、ボクは涙で声がつまってしまった。


 「大丈夫よ、大丈夫だって」

 「そうだよな、そうだよな」

いつだって、ユミの方が強くてしっかりしていた。

出産後の体力が消耗している状態なのに、きじょうにふるまっていた。


その夜、ボクはユミの実家に戻り、ユミガ使っていた部屋でらんことレモンに子供が生まれたという報告と今がとても心配な状態であることを伝えた。


ボクがしょげていると、らんこはいつも鳴きながら近寄ってくる。

でも今回は、いつもはよりつかないレモンまでがボクに擦り寄ってきた。


 「大丈夫だよ、赤ちゃんとオマエ達はこれからずっと一緒にいるんだから」

ボクは、ユミが言った台詞の受け売りをそのまま言葉にして少し笑った。


 「ニャーン」

寝転んだボクの右側にいたらんこがボクのほっぺたを舐めて鳴いた。

涙で少ししょっぱかったのか、ちょっと文句を言いながら、また鳴いた。


ほんの一時でもボクはわが娘と一緒にいたかったのだが、仕事をいつまでもほったらかしにしておくことはできず、通勤を始めた。


予断を許さぬという医師の言葉からもう5日が過ぎていた。

まだ、わが娘は人工呼吸器を付けて目を覚まさない。


ボクは、病院からの連絡が会社にあることを考え、会社でのデスクワークを中心にしていたが、一時も席を離れられないことに気を揉んで、まだパーソナルツールとしては高価だった携帯電話の購入を真剣に考えていた。


そんな日が続いたある日、会社に病院から呼び出しの電話を受けた。


ボクは手に取るものも疎かに病院に走った。


ユミはもうNICUに来ていた。


 「お父さん、まだ非常に弱く不安定ですが、娘さんが自発呼吸を始めてくれましたよ」


担当医師は、それがとても幸運なことだとわかるように感情を込めてボクに伝えてくれた。



NICUの自動ドアをくぐると、まず無菌の白衣と帽子を身に着ける。次のドアをくぐって入念に手を消毒する。


次のドアの向こうには、標準体重に満たなかったので一応の管理を求められている新生児が十数人屈託の無い寝顔を見せている。この子達は長くても数日でこの部屋を出て行く。


その子たちを眺めながら次の自動ドアを抜けると、そこには保育器が十数台並び、心拍数を表す機械音や人工呼吸器の一定の空気音に交え、時々鳴り響く警告音と看護婦さんの機敏な対応に緊張が走る。


その部屋の中でも一番奥のスペースに最重要管理児が待機している。


その日、わが娘は初めてその最重要管理スペースから脱出していた。


ボクとユミは自分の子供が一番奥にいりものとばかり思って奥のスペースまで歩きかけて、看護婦さんに呼び止められ、促された。


 「位置が変わったんだ」

 「なんか前より顔色が良くなったみたい」

ボクとユミは、それが自分の娘の状態が良くなっていることをしっかりと確信していた。


 「今日、目を開けたんですよ」

 「本当ですか? そうか、目を開けたのか、そうか・・・、リナ」

 「えっ?」

 「あっ、名前決まったんです。 莉奈。 ジャスミンを意味する莉と中国のりんごの奈。

 RINAです」

 「そうですか、莉奈ちゃん、良かったねぇ」


NICUの看護婦さんたちは、普段はてきぱきと仕事をするが、不安を抱えている親と話すときは、ゆっくりと優しく接してくれた。


わが子との安らいだ時間を壊すのはいつも担当医師の説明だった。

状況説明の最後に必ず、まだ予断を許さないという言葉を加えた。


産後の状態を心配したボクは、ユミに退院後も早稲田の実家での生活を進めた。

主を亡くした家は、お義母さんとユミとボクに合わせ、3匹のネコと1匹の犬の生活で、静けさや暇を感じることもなかった。


ユミは、昼間の面会時間に、ボクは夜の面会時間を中心に莉奈に会いに行った。


ボクは、毎朝、ジョギングをすることに決めた。


早稲田の家から、江戸川橋の地蔵通り商店街にある子育て地蔵まで走り、お祈りをした後、

神田川に沿ってひた走り、急な坂を上り、雑司が谷の鬼子母神まで、そこで又、お祈りをして早稲田までを走りきる6kmちょっとのジョギングをボクは、毎日走り続けた。


走り始めて3日目、眠い目をこすって家を出るときは、ボクの横で熟睡しているらんこが、帰ってきて玄関を開けると、必ずそこで待っていて一声鳴いた。


 「なんだ、らんこ お迎えかい? ありがとうな」

 「ニャン」

 「オマエは本当に、優しいやつだなぁ エモみたいに寝てればいいのに」


らんこはその日から毎日、ボクのジョギングの帰りを玄関で待つようになった。


夏の暑い日も、秋の雨の日も、冬の冷たい日も、らんこは忠犬ハチ公よろしく待ってくれた。


そんな調子で早稲田での暮らしは季節を重ねていった。




 




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