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Blind LANCO  作者: ぎんじ
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第二章 LEMMON 

らんこは、元気になった。


子猫特有の、たわいも無いものに反応して飛び掛る仕草や、思いっきり走って止まりきれず壁に衝突する様は、普通の子猫と同じだった。


らんこは目が見えない代わりに、他の感覚をフルに生かしていた。

 

 「ねえ、見てみてよ、こいつ、まるで見えているみたいに反応するんだぜ」

ボクは、らんこを寝っころがらせると、そ~と手を伸ばしてヒゲを掴むという遊びをしながら、らんこをからかった。


 「やめなさいよ かわいそうでしょ」

ユミは、そういいながらも、ほぼ9割の確立でボクがヒゲを掴むよりも先に、ネコパンチを繰り出すらんこを優しく見ていた。


 「おまえ、ボクサーになれるぞ よし、ワンツー、ワンツー」

 「ニャニャニャ」 

 「おなかのところにあるVの字もカッコイイし、よし、本気でボクサー目指すか!

 でも、Vサインは立たなきゃ、見えないぞ。まずは、二足歩行から練習だ!」


 「何、馬鹿なことやってんのよ。 早くしないと会社遅れるわよ!」

 「あっ、やばい」


らんこのいる生活は、ボクたちに和みを与えた。

ボクもユミも、帰ってきては、らんこと話をした。

だからというワケではないのだろうけど、らんこは名前を呼ばれると必ず元気に返事をした。


 「お~い、らんこ」

 「にゃぁ」

 「なんでもないよ 呼んでみただけ」

 「にゃぁ」

 「らんこ、らんこ、らんこ」

 「にゃぁ、にゃぁ、にゃぁ」

 「おまえ、ホントに良い返事するなぁ よし、本気で歌手目指すか!」


ボクは、らんこが大好きだった。



1989年の忙しい冬はあっという間に過ぎた。


年が明けて、ますますらんこは元気になった。


元気というより、やんちゃと言ったほうがよい。

得意技は、両手でホールディングした後に、思い切りよく両足でのネコキック


 「イテテテ、おまえ、手加減てものを思えろよな」

 「ニャー」


らんこは、ボクたちのリアクションがよっぽど楽しいらしく、声を上げるまでやめない。

そして、ネコキックが済むと、全力で逃げる。

その先に障害物があっても、器用に避けて走る。


ボクたちは、もうその姿を見ても驚かなくなっていた。


らんこは、なにかを感じると、ヒゲを思いっきり前に突き出す。

アンテナにするのだ。

これが触覚となって、危険物を感知し、とっさに避けることができるようになっていた。

走る姿は少し不恰好だが、決して目が見えないネコには見えない。


でも、眼球は無かった。


だから、普通のネコが何かを見つけたときの表情とは少し違った。

らんこにとって、見つけるの表情は耳を研ぎすます表情だったり、匂いをかぎ分ける表情だったりした。


らんこは、陽だまりが好きだった。


我が家は、狭いながらも、北・東・南と窓があったのだけど、南の窓がらんこの定位置になった。

南の窓の陽だまりにいるときは、満足したようにそこに居座り、ボクがちょっかいを出しても相手にしてくれない。


目が見えないから、特に、風には敏感だった。


窓を開けると、外の風に何かを感じ取っているのか、いつも鼻をくんくんさせて、少し嬉しいような表情をした。


 「らんこ、春の匂いでもしたのかい?」



 「近頃、らんこのヤツ、妙に甘えん坊になってないか?」

何気なく、ボクがユミに問いかけたのは、季節が過ぎた梅雨の晴れ間のある日のことだった。


 「そうねぇ、家に帰ってくると、ずっと鳴きっぱなしだったりするもんね」


ボクたちは、共働きだった。


ユミの方が遅く家を出て、ボクより早く帰宅していたので、ほとんどボクが帰るときは、家に灯りが点いていたが、ごくまれにボクの方が、帰宅が早いことがあった。


ある日、ボクが玄関のドアに近づくと明らかにらんこの鳴き声が聞こえた。


ドアを開けると、ドアから飛び出さんばかりの勢いでボクに擦り寄ってきた。


 「なんだ、オマエ、淋しかったのか?」

 「ニャー!! ニャー、ニャー、ニャー」

 「なんだよ、ダメだよ騒いじゃぁ、ダメだって」

ボクは、らんこの口を無理やり塞ぎながら、急いで部屋に入った。


ボクの部屋は玄関を開けると袖壁の先がそのままリビングとなっていて、玄関の扉のところまで、らんこはすぐに出てこれた。


 「これじゃあ、隣の人にまる聞こえだなぁ。 どうせ、バレているんだろうけど、今日

 みたいに鳴いてたりすると、かなり迷惑かもな」

 「そうね、ここのところ、いつも玄関まで出てくるし、お出迎えは嬉しいんだけど、玄

 関開けると、結構、響いちゃうのよね、らんこの声」


ボクたちは、知り合いの大工さんに事情を話して、玄関とリビングの間に、ドアを取り付けてもらった。


 「どうですか?これならネコちゃん鳴いても聞こえないし、壁を傷つけてないから、

 引越しをするときでも簡単に取り外せますぜ。 うん、我ながら上出来だ。」


確かに、しっかりしたドアは、防音効果もあり恐らく冬になれば、防寒にもなる。

ボクは、満足気にらんこに話しかけた。


 「オマエ、すごいなぁ。 こんな立派な専用ドア作ってもらって うん、お姫様だ」

 「何言ってるの、らんこが付けてくれって言ったわけじゃないし、それに・・・、」

 「それになんだよ?」

 「うん、いつも帰ってくると、あんまり訴えかけるように鳴くもんだから」

 「確かに、文句言ってるみたいだな」

 「淋しいんじゃないかしら?」

 「そうか、そうだな、確かに昼間ずっと独りでここにいるんだもんな」

 「なぁ、らんこ オマエ淋しいのか?」

 「ニャー」


ボクたちは、顔を見合わせた。

らんこに弟か妹を見つけてあげないといけないかな・・・。


でも、ボクたちの心配をよそに原因は違っていた。


らんこの居場所の南の窓に注ぐ陽ざしが強くなった頃、ボクの会社の同僚の奥田さんが我が家を訪れた。


奥田さんは、仕事の面では少し厳しいところもあるが、無類のネコ好きで、ボクがらんこのことを話したら、満面の笑みで会いたいと言ってくれたのだ。


 「奥田さんのところもネコちゃん独りでしたよね?」

 「そう、独り暮らしだからアタシが会社に言っている間は、ずっとお留守番」

 「淋しがらないですか?」

 「そうね。ウチのはもう大きいからね。 淋しいのかなぁ~、らんこちゃんは」

奥田さんは手馴れた様子でらんこの顎をなでている。


 「甘えん坊病が治ったかなぁって思ったんだけど、先週くらいからまた始まっちゃいまして」

 「そうなの、ねぇ、らんこちゃん、そうなの?」

奥田さんは、今度はらんこを立たせて伸びをさせる仕草をさせて、しばらくながめていたが、納得した顔でこう言った。


 「らんこちゃん 盛りがついてるわね」

 「えっ? 盛りって発情? えっ? だって、だって、ネコの盛りって、凄い声で鳴くんじゃないんですか? 確かに甘えるけど、声の質は普通だし」

 「人もいろいろ、ネコもいろいろ。 ホラ、足踏みするでしょ らんこちゃん」

 「あっ、確かに時々、トイレ我慢しているみたいなポーズをとるかも なぁ?」

 「うん、そうね、よくモジモジしてるかも」

ユミも気が付いたようにそう言った。


 「でも、奥田さん らんこの場合は、外に出ないんだし、声もそんなに気にならないし、避妊手術はどうなんでしょう? 健康な体に無理にメスを入れるって・・・。」

 「そうね、この問題は難しいけど、家の中にいるネコちゃんが発情すると、家から出してもらえないことにとってもストレスを感じると思うのね。妊娠が心配だからではなくて、

その子にとってどうかなって思うことが大切かもね。 まぁ、お二人でしっかり考えれば」

奥田さんは、仕事のときとは違って、少し軽い言い方で、でもとっても優しくそう言った。


その夜、ボクとユミとらんこの二人と一匹で、初めての家族会議が繰り広げられた。

ボクは少し興奮気味に、生き物の尊厳だとか、人間のエゴだとか難しく考え、ユミは、らんこもどんどん大人になるんだねぇなんて本質から外れたことばかり言って、当の本人であるらんこは、ボクの発言に必ずあくびで返す体たらくだった。


目を赤くしながらボクは言った。

 「じゃあ、本当にいいんだな。 避妊するで。 週末までにいろんな人に聞いてみるから・・・。」


ボクは、いろんな人に聞こうなんて思っていなかった。

避妊手術を行うのだったら、聞く人は決めていた。


らんこを最初に連れて行った動物病院の老先生のところだ。


あれっきり不義理をしている。


ボクは、その日、久しぶりにらんこと出逢った夜の夢を見た。



 「こんにちは 先生、お久しぶりです。 覚えていらっしゃいますか?」

 「おお、君かぁ。 あの時のネコちゃんを連れてきたのかい?」

 「はい、らんこっていいます。 先生、あの時は大変失礼いたしました。ボク、混乱してしまって・・・。」

 「長くやってるとね、いろんなことがある。 別に驚かんよ」


老先生は、柔らかな笑みを浮かべながら、洗濯ネットに入ったらんこを優しくなでた。


 「避妊の相談に来たって?」

 「はい、先生、やっぱり避妊はすべきなんでしょうね?」

 「飼い猫ちゃんは、ストレスも多いからね。それに、しっかりやっておけば、後の子宮の病気、乳腺腫瘍の予防にもなるしね。 らんこちゃんは、ワクチンはやったかい?」

 「いえ、ごめんなさい。実は、あれから何も・・・。」

 「ふ~む、そうか、じゃあ、いろいろ調べてみようかね。 うん、大丈夫、らんこちゃん、恐くないからね。」


家を出るときに、電話で教えられたとおり洗濯ネットにらんこを入れてキャリーバッグで運んだのだが、ドアを出てから病院に着くまで、らんこは鳴き通しだった。


そんならんこをゆったりと諭すように語り掛ける老先生を見ながら、ボクはあの夜のことを思い出した。


なんだか、あの時の音や温度まで感じるような気がした。


その日の内に、らんこは検査をしてもらい、一週間後に手術をすることに決めた。


体の調子も見てもらい、とびきり元気だとお墨付きをもらい、ボクは本当にここに来てよかったと思った。


帰り際に一人の老婦人とすれ違った。


後で聞いた話では、この老婦人は、近所の野良猫を連れてきては避妊虚勢手術を受けさせているのだそうだ。


年間数十万匹の犬やネコが保健所で処分される。

黙っていたらそのまま増えていく。

保健所で処分される命を少しでも少なくしたいという思いなのだそうだ。


そんなことをやっていたらキリがないとも、手術をしてもらえるネコと、そうではないネコがいることが差別だというようないろんな声があるが、老婦人は、自分ができることをやる、それでいいんだと穏やかに言っていた。


人間とペットの関係はすべからく人間のエゴでできている。


いろんなことを考えて、いろんなことをやることでその責任を負っているのかもしれない。


でも、できることは限られていることが悲しい。


 「らんこ、ボクが言えることは、ボクたちの関係はフェアでありたいということだよ。

飼ってあげているのでも、飼わせてもらっているわけでもなくて、一緒にいる。イーブンなんだ。 なっ、それでいいだろ?」



不妊手術を終えて、らんこは我が家に帰ってきた。


痛々しい装いではあったが、我が家に最初にやってきた生死をさまよっていたあの時の姿から思えば、虫歯の治療ほどにしか見えない。

経過も、とても良好で、食欲も旺盛だった。


 「らんこ、痛かったかぁ? よく頑張ったなぁ・・・。」

ボクは、膝の上に乗っけながら、らんこをさすることが多くなった。

らんこは、いつも気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らしていた。


 「こいつ、気持ちよさそうだなぁ。 ネコのゴロゴロは、子ネコと母ネコのコミュニケーションなんだってさ。 そういえば、きっと、こいつ生まれてから母親に甘えることなんて無かったのかもしれないなぁ」


 「あなたのことを母親だと思っているのかしら? そうだとしたら教えてあげなきゃ、あなたのママの真似をしちゃダメよ。 ゴロゴロなんてもんじゃないわ、それこそ鼾は、怪獣みたいなんだから」


 「そんなにひどいの?ボクの鼾って?」

 「そうね、何度か首を絞めてやろうかと思ったわね」

 「・・・。」


 「らんこ、ゴロゴロはボクに似るなよ。ダブルサウンドになったら、間違いなくどっちかが首を絞められることになるぞ」

 「どっちか? らんこが首を絞められるわけないじゃないねぇ」

 「・・・・。」


避妊手術後、らんこは体力を取り戻し、以前より一回り大きくなったが、とてもおとなしい良い仔になった。独りの留守番もお気に入りの南の窓にずっと居座り、お迎えもなんとなく面倒くさそうな感じで出てくるようになった。


そんなある日、らんこの盛りを見抜いた奥田さんに会社の廊下で声をかけられた。

奥田さんは、もう我が家ではネコ博士の異名を取るとても頼りになる存在だ。


 「どう?その後、らんこちゃんは元気?」

 「ええ、おかげさまで、食欲旺盛で動きが緩慢になったのか、なんか一回り大きくなっちゃっいましたよ」

 「そう・・・、避妊手術の後って太りやすいのよね。 気をつけてあげてね、体重コントロールも飼い主の務めよ」


奥田さんは、そう言って通り過ぎようとしたが、何かを気が付いたように立ち止まるとボクの方に振り返って、こう言った。


 「ねえ、らんこちゃんに兄弟は要らないかしら?」



ボクは、家に帰るとさっそく、ユミに奥田さんの話をした。


知り合いの家に生まれたばかりのネコが数匹いて、貰い手を捜している。


しかし、我が家には簡単に決められない理由があった。


 「どうする? 大家さんに隠してネコを飼うことも大変だけど、ユミの体がなぁ・・・」

 「そうねぇ、飼ってみないと分からないけどね」


ユミは、ネコ喘息だった。

以前、過呼吸になって、救急車を呼び、入院するという騒ぎを起こしたことがある。

またそんな騒ぎになって、ネコを飼っていることがバレてしまうとマンションを追い出しかねない。

更に、ボクは最近、海外も含め出張が増えてきた。


 「悩ましい問題だなぁ。 なぁ、らんこ、どう思う?」

 「にゃぁ」

 「オマエは、ホント、返事だけは良いなぁ」

 「にゃあ」

 「そうよね、兄弟が欲しいのよね、らんこ」

 「いいの?ホントに。 らんこだってホントは、“やめてくれぇ~”って言ってるのかもよ? いじめられるかもしれないし」

 「ちがうの、ワタシには分かるの。 らんこは、ワタシたち以外、話し相手がいないのよ。もし、自分だったらどう?必要なのよ、らんこには・・・」


ユミは、自分に言い聞かせるような言い方でそう言った。


週末にボクとユミは、奥田さんが教えてくれた浅草の喫茶店に向かうために、地図を準備していた。

 

 「本当にいいんだな らんこ」

ボクは少し、威厳を込めて、後戻りはできないんだぞといった調子でらんこに聞いた。


 「にゃぁ」

らんこは、いつもと同じ調子でそれに応えた。


 「本当に分かってんのかなぁ、こいつ  まったく調子くるっちゃうよ」

 「大丈夫、分かってるわよ  ねぇ、らんこ」

 「にゃあ!」

今度は、いつもと違った一声大きな声で応えた。



♪なんでもかんでもみんな~ 踊りを踊っているよ~♪

もう聞き馴染みになっていた ♪おどるポンポコリン♪ を聞きながら、車を走らせる。

いつもなら、なんとなく口ずさんでしまうフレーズも、今日は出てこない。


 「今からそんなに緊張してどうするの? そんな調子だと飼い主失格!って言われちゃうわよ」

 「ええっ? そんなぁ」

 「いいから、リラックスして、ちゃんと運転して」

 「はい・・・、タッタタラリラ~♪」


鶯谷の陸橋を越えて、言問通りを抜けていく。

このまま真っ直ぐ進めば、浅草寺の北側に出るはずだ。


車は、浅草の町を右手に見ながら、下町の雰囲気が漂う町並みの路地を曲がって、目的地に着いた。


 「えっと、ここだ、ここだ この店だ」

 「奥田さん、もう着いてるかしら」

 「あの人は、5分前行動が基本だからね。 人を待たせたこと無いって言ってたよ」


案の定、奥田さんは先に着いて、ボクたちを待っていた。

兎に角、ネコが大好きだという友達の鈴木さんも一緒だった。

まるで自分がもらいに来たようにワクワクした表情でボクたちに語りかけた。


 「鈴木ですぅ。 ねぇ、ホントにねぇ、 ネコちゃんねぇ」

興奮して、何を言っているのかワカラナイ。


挨拶だけして、どうしてよいかわからないボクたちに、奥田さんが助け舟を出してくれた。

 「こっちよ、こっち」


びっくりしたことに、ネコは店の中にいた。

それも、何匹も。

喫茶店の中を無造作に歩いている。

お客さんに対して、これで大丈夫だろうか・・・。


 「うちはね、ネコが好きな人だけ来てくれればいいから。 そういう店だから」

喫茶店のマスターらしき人が出てきて、少しびっくりしているボクに向かってそう言った。

ボクたちは、丁重に挨拶を済ませ、早速、ネコたちを見せてもらうことにした。


店の中を縦横無尽に駆け回るネコたち。

数えたら、総数6匹、どのネコも生後1ヶ月の子猫だという。

 「なんか良いねぇ、こういうの。 ほのぼのしててさ」

 「そうね。 気取らないネコちゃんたちだから余計にいいのかもね」

よく見ると、母親ネコも含めて、この店の中にいるネコは、みんな雑種だった。


 「どうする? どのネコちゃんもカワイイけど」

 「そうだな・・・。 選ぶのって難しいよな」

ボクは、今まで生き物を選ぶという経験をしたことが無かった。

ペットショップはもちろん、カブトムシや夜店で売っているヒヨコであっても、選ぶということにとても抵抗があった。


選ばれるモノと選ばれないモノ、どちらにしても選ぶという行為には、人間のエゴが存在する。ボクは、選ぶよりもっと強い関係を、それでいてもっと軽い関係を求めていた。

それが、“出逢う”という関係だ。


人生には、こういった“縁”がいくつもある。

らんことの出逢いもこの“縁”なだけで、たまたま、らんこがケガをしていただけで・・・。


そんなことを考えながらも、とても気になったネコがいた。


ボクのことをじっと見つめていたけど、目が会うとこそこそと隠れてしまった。

ボクは、その見つめていた姿になんとなく“縁”を感じた。


 「どの仔も可愛いいんですけど、あのグレーの仔、いいですか?」


 「えっ、あいつ、あいつはちょっとなぁ、大丈夫かなぁ」

 「どういうことですか?」

 「なつかないんだよね。 どこか野良猫気質っていうか、えさも隠れて食べるし」

 「そうですか、それならなおのことあの仔が良いです」

理由は無かった。 “縁”に理由はいらない。


帰りの車には、奥田さんと鈴木さんも同情してネコ談義に花が咲いた。

 「ウチにもねぇ、二匹いるのよぉ、もうねぇ、かわいくてねぇ」

 「鈴木さんは秩父に住んでいるの」

 「秩父って、じゃあ、今日はわざわざ秩父からいらしたんですか?」

 「うんねぇ、だってねぇ、カワイイじゃない、ねぇ、ネコちゃんねぇ」

やっぱり、会話がうまくかみ合わない・・・。


ボクは、この子猫の名前を、店にいるときから決めていた。

店でかかっていた曲 “from me to you”

大好きなビートルズの曲だ。 その中でも崇拝していたJohn Lennon。

その昔、実家で飼うことになった犬にジョンという名前をつけた。

父親がハリキッて、犬小屋を作ったのだが、入り口に書く名前を間違って「JHON」と書いてしまったので、John Lennon のイメージから遠のいて興ざめしてしまったことがある。


こんどこそ・・・、でも、ちょっと違ったからジョンも長生きしたのかもな・・・。

ちょっと違う名前・・・。よし、こいつはLemmonレモンだ!


レモンは、時々、唸るような低い声で鳴いていたが、それ以外は、静かにしているようだった。


鈴木さんのなんともいえないホンワカした会話に、なんとなく慣れて、会話がかみ合ってきた頃、車は家に着いた。

もう、すっかり日も暮れた夜の空気が、立ち込めたボクたちの家に。


 「さてと、入り口にちょっとだけ車を止めておいて、急いでレモンを運んじゃおう」

 「レモン?」

 「そう、レモン、こいつ、レモンって名前にしたんだ」

 「何、それ? 食べ物じゃないんだから、 あっ!」


名前の話に気をとられて、車のドアを不用意にユミが開けた瞬間だった。

レモンは、静かにこのときを狙っていた。

ユミの手を引っかき、一目散に外に逃げ出した。


マンションの前は、新目白通りという車の流れが頻繁な幹線道路が走っている。

東京と埼玉所沢を結ぶこの幹線は物流利用も高く、トラックがクラクションと共に通り抜けることもしばしばあった。


レモンは、一瞬、躊躇したように足を止めたが、すぐに歩道を走り、車道との境の植え込みに隠れた。


 「やだぁ、どうしよう」

 「待て! 追いかけちゃいけない。 見失ってしまったらおしまいだ」

下手に追いかけて逃げ出すと、次に隠れる場所は、中央分離帯の植え込みだ。

片側2斜線の道路に飛び出したら、危険この上ない。


歩道の横の植え込みは10mほど続いていた。

その中をガサガサっと音を出して、レモンは移動している。


一瞬、レモンが車道側に顔を出した。

その横を、中型のトラックが、スピードを出して通り過ぎていく。

危ない! レモンはトラックに気づき、植え込みの中に戻った。


 「すいません 奥田さん、そっちからレモンを追ってもらっていいですか、そっと、そっとですよ」

 「わ、わかった」

 「あんまり、捕まえようという気持ちが強いと、察してしまうので、何気なくで」

 「難しいわね じゃあ、鼻歌まじりで ♪タッタタラリラ♪」

 「えっ?奥田さんも好きなんですか?ちびまる子ちゃん」


ボクたちは、緊張が抜けたのか、そこから一気に逃げようとしたレモンを見事にキャッチした。


緊張を抜くには、やっぱり、踊るポンポコリンが一番だ。



レモンに引っかかれた傷の痛みも感じないまま、ボクたちは、部屋に駆け上がった。


 「痛ぇ、今頃になって、痛みを感じてきたよ」

 「あらあら、大変なキズもらっちゃたわねぇ」

ユミは、大変だという言葉とは裏腹の笑顔でカラカラとボクに微笑んだ。


 「あれぇ、笑い事じゃないでしょ?どなたさんのおかげでこのキズ付いちゃったのかなぁ?」

 「だってぇ、もうダメかと思ったんだもん。 ホントによかったぁ ねえ、レモン」

 「なんだよ、もうレモンで良くなっちゃったのかよ」


レモンは、家の中を、匂いをかぎながら徘徊している。

時々、ボクの方を見つめているのが分かる。

あの店で見られていたのと同じだ。

それでいて、ボクと目が合うと、逃げるように場所を変える。


らんこは、しきりに鼻をヒクヒクさせて、耳をそば立てていた。

 「らんこちゃん、あなたの妹はまだお家になれてないのよ。 助けてあげてね」

 「えっ?レモンって女の子だったんだ」

 「何言ってるの。 女の子って知ってて、レモンにしたんじゃないの?」

 「うん、ジョンがレノンだから・・・、まぁいいや。 お~い、レモン 頼むからもう引っかくなよ」


奥田さんたちは、ひとしきり、らんことじゃれてから、帰路に着いた。

奥田さんたちがいてくれたおかげで作れていた空気が、らんこも含めた我が家とレモンというバランスでなんともいえない緊張感を作り出している。


 「お~い、レモン、今日からここがオマエの家なんだから、もっとくつろげよ」

 「そんなこと言ったって、いきなりは無理よねぇ」

 「らんこ、通訳してくれ。 気楽にしろって」

 「ニャー」

 「オマエ、ホント、返事はカンペキだよなぁ」


レモンは、冷蔵庫の裏や、家具の裏といった、隙間に安住の場所を探している。

しかし、さすがに小さな体も、隙間には入れない。

必至になって、もぐりこもうとする姿がおかしかった。


 「ねぇ、レモンってよく見るとお尻の所だけ薄ら茶色が入ってるんだな。 後は、グレーなのに」

 「お父さんか、お母さんがアメリカンショートヘアなんじゃない?」

 「何?そのアメリカン何とかって?」

ボクは、ネコの種類にはあまり興味が無かった。


 「アメリカンショートヘア 最近、人気があるのよ」

 「そうか、洋物っだたのかレモンは。 そういえば、尻尾も、らんこみたいなカギシッポじゃないし、よく見るとスレンダーだな」

 「そうね、でも、らんこは、らんこでかわいいよ。 ポテっとしたところが」

 「よし、レモン、今日からオマエはナンチャッテアメショだ」

 「またぁ、いいのよ、レモンはレモンで。 ねぇ、レモンちゃん」


レモンは、まだ必至で隠れ場所を探している。



レモンが我が家にやってきてから、ボクは可能な限り早く家に帰ってきた。

らんことレモンを一緒に留守番させておくのが心配だったからだ。


らんことレモンの最初のコンタクト。

らんこは、いつものように、鼻をヒクヒクさせながら、耳をそばだててレモンに近づいた。

レモンはそれを凝視しながら、自分の3倍はあるらんこをギリギリの距離まで近づけておいてからネコパンチを放った。


 「おい、こらレモン! 何するんだ!」

ボクの声にレモンは一目散に逃げ出し、寝室のベッドの下にもぐりこんだ。


ネコパンチをくらったらんこは、何てこと無いという表情でおすまし座りをしている。


次の日もその次の日も、同じような光景が見られた。

その度、レモンは、ボクに怒られ逃げ出し、らんこは、なんでもないようなおすまし座りをした。


 「大丈夫かなぁ レモン、この家の中のもの全部、敵視してるんじゃないかなぁ。完全にボクにはびびってるし、らんこはいじめられてるみたいだし・・・」

 「確かに、ゴハンをあげても、様子を見ながら近づいてきて、ワタシがいなくなってから食べるのよね」

 「まぁ、トイレはちゃんと覚えてるし、食欲もあるみたいだからストレスになっているわけではないと思うけど、時々、鳴く声がなんとなく淋しく聞こえるんだよね」

 「やっぱり、ワタシが車から逃がしちゃったときに怖い思いをしたことが原因なのかなぁ?」

 「まぁ、喫茶店のマスターも、難しいネコだって言ってたし、しばらくは様子をみてようよ。」


早めに会社を出たボクは、家に帰って電気を付けると、らんこはいつもの南側の窓に、レモンは、ベッドの下にもぐりこんでいた。


ユミが帰った日も、2匹ともまったく別の場所にいるようだ。


 「らんこが淋しくないようにと思って連れてきたレモンなのに、なんだか逆効果かなぁ」

 「そんな風に言ったら、レモンが可愛そうでしょ。 大丈夫、きっと大丈夫。 らんこはスーパーキャットでしょ! きっとなんとかしてくれるわ」


いつものように、ユミは、自分に言い聞かせるように言った。


そんな心配を重ねて迎えた週末、ボクはいつもより遅く起きた朝に、ちょっと後ろめたくベッドから降りた。


ユミはまだ寝ていた。

外は、すっかり春の陽気で、柔らかだけど強い陽射しがブラインドからもれていた。


らんこたちが通れるようにと開けていた寝室のドアを抜けて、寝ぼけ眼でふと見ると、そこにはなんと、らんことレモンが寄り添っていた。


らんこは、レモンの耳の後ろを舐めていた。

レモンは今まで見たことの無いようなリラックスした顔をしていた。


らんこが大好きな南の窓から降り注いだ春の光が、二匹を包むように降り注いでいた。



レモンは少しずつ我が家に慣れてきた。


以前は、食事のときに名前を呼んでも様子を見ながら潜んでいたのに、今は、ネコ缶を開ける音がすれば、すっ飛んできて、うるさいほど鳴いた。


相変わらず、らんこはネコパンチをくらうこともあるけど、レモンにゴハンを譲りながら、優しく見守っている感じだ。


 「うんうん、やっぱりらんこは、ボクに似て優しいなぁ。 オマエのおかげでレモンも、やっと我が家の一員になれたよ。 これからも頼むぞ オネエチャン」

 「ニャー」

 「ホントにオマエ、返事だけは良いよなぁ」


レモンがやってきて何週間かたった頃、今まで様子を見ていた2つのことを実行しようと思った。


一つは、らんこがお世話になった老先生のところに行って、3種混合ワクチンをおねがいすること。


もう一つは、お風呂だ。


病院に連れて行くためにも、お風呂に入れておかなければならない。


このところ、慣れてきたとはいえ、ボクにはまだ心を許していないと分かるほど、臆病な表情をするレモンをお風呂に入れることで、より距離ができてしまったらどうしよう。


ボクは、一大決心でレモンを捕まえて風呂場に連れて行った。


レモンは殺気を感じたのだろう。 ボクと目が合った瞬間から逃げ出した。


 「おい、待て、こら」

 「ニャー」

 「らんこじゃないよ。 オマエは後で入れてやる。 まずはレモンだ」

 「ニャー」

 「オマエじゃないって」


ボクは必死の思いでレモンを捕まえて、風呂場に連れて行った。


シャンプーを付けて体を洗っている間、レモンは、今まで聴いたことの無いような低い声で、鳴き続けている。


そのとき、風呂場のドアをたたく音が聞こえた。

合わせて、いつもより大きならんこの鳴き声が聞こえた。


 「なんだよ、オマエまで。 近所にきこえちゃうだろ。 静かにしてろって」

 「ニャー ニャー ニャー」

らんこは、鳴きながら、風呂場のドアをたたき続けた。


レモンを洗い終わって、風呂場のドアを開けると、勇んでらんこが飛び込んできた。


 「ニャー」

 「なんだオマエ、レモンを助けにきたのか?」

 「ニャー」

 「大丈夫だよ ホラ もう終わったって」

 「ニャー」


らんこは、興奮したような声で、ボクに立ち向かった。


翌日、お風呂の時と同じくらい暴れたレモンを無理やりキャリーバッグに入れて、ボクは、老先生の元に向かった。


 「コンニチハ 先生」

 「ハイ こんにちわ。 おや、今日はらんこちゃんじゃないのかな」

 「はい、らんこの相棒でレモンっていいます」

 「そうか・・・、この子はあれだね。 警戒心が強いね。 まあ、病院に来て警戒しない子もどうかと思うがね」

 「そうなんです。実は昨日もお風呂に入れるのに苦労して」

 「まあね、人間はすぐに風呂に入れようとするけど、ネコは元々清潔だからね、あまり神経質にならない方がね。 それに、あんまり入れると免疫力が落ちるしね」

 「そうですか そういえば、レモンの毛並みは少しカサカサのような気がするんですが」

 「うん、種類によって違うからね。 この子はこれで良いと思うよ」


レモンは3種混合を打ってもらい、少し恨めしそうにボクを見ながら、家に帰ってきた。


 「よく見ると、レモンと違って、オマエの毛って柔らかだよなぁ」

ボクは、らんこを撫でながら、少し感心した。


らんこの背中の毛は滑るように柔らかく、シルクのように滑らかで、お腹は、フワフワと羽毛のようだった。


 「らんこ オマエの毛並みの良さは、何かな、やっぱり、裕福な食生活のおかげかなぁ」

 「何言ってるの、一番安いネコ缶のくせに」

 「だって、らんこがこれがいいって言うんだもん。 なぁ、らんこ~ よし、買いに行こうか、オマエの好きなエコノミー!」


らんこの定番は、まぐろエコノミー ネコ缶の中でも最安値の代物だ。

ボクたちは、らんこたちの食料を買うためにお決まりのペットフードショップをよく訪れていた。

まぐろエコノミーの他、いろんな種類のエコノミーシリーズの他、大手メーカーのブランド商品も品揃えが豊富で、値段も驚くほど安かった。


何より、お店の場所がユミの実家に近かったことが、らんことレモン御用達になった理由だ。


季節が春めいた頃から、ボクたちはらんことレモンを一緒に外に連れ出した。


しかし、警戒心の強いレモンと、レモンが鳴くと守ろうとして騒ぐらんこを一緒に連れ出すのは、至難の業だった。


まずは、車をマンションの入り口のところまで横付けする。

ユミが見張り役になって合図をする。

キャリーバッグを両手に抱え、一目散で車に飛び込む。

傍からみたら、さながら泥棒のようだ。


毎度、冷や汗をかきながら車に乗り込むと、安心したのか二匹とも鳴き声が変わっておとなしくなる。

 「オマエら、いい加減になれろよな まったくヒヤヒヤもんだよ」

 「ニャン」

 「ニャンじゃないよ さっきまではギュワ~ンって鳴いてたくせに、調子いいなぁ」



ボクがペットフードショップに行きたい理由はほかにもあった。


ユミの実家のある早稲田は、ラーメン屋が多く立ち並ぶ学生街で、ラーメンブームのさきがけとして、早稲田ラーメン戦争と注目されていた。

このラーメンがお目当てなのだ。


 「さてと、ラーメンでも食べてこようかな」

 「またぁ? 今日はらんことレモンも一緒なんだから、早くしてね」

 「らんこもボクもB級グルメ派なんだよな。 なぁ、らんこ」


一条流がんこ、メルシー、一風堂、えぞ菊、ぶぶか等、個性溢れるラーメン屋が揃い、どの店も繁盛していたが、この日の僕は先日オープンした徳島ラーメンうだつ食堂に初めて参戦を決めていた。


ボクがラーメンを食べている間、ユミは、買い物を終えて車で待っていた。


 「いやいや、美味しかったよ。 なんていうの初めて食べた味だね。 しかし、ラーメンはもはや文化だね。 オマエたちもさ、食べてみたくない? まぐろエコノミーとんこつ味」

 「何それ、まずそ~」

 「おお、たくさん買ってもらったなぁ・・・。あれっ?エコノミーじゃないぞ。カルカン、あっ、モンプチも入ってる。」

 「いいじゃないの、安かったのよ」

 「おのれ~、裏切り者め、お前達がフランス料理を食べても、ボクはラーメン一道を貫いてやる」

 「何言ってんだか。 らんことレモンには、これからも美味しいもの買ってあげるからねぇ」

 「ニャ~ン」

 「おのれ~、裏切り者」


ネコ缶の買出しの後は、ユミの実家に寄るのもお決まりだった。

本来であれば、銀行の支店長である義父は、映画会社に勤めるボクを訝って見てもおかしくなかったが、人のよさも手伝ってとても良くしてくれた。


義母は、充分な収入がある夫ではあるが、仕事を持つことに楽しみを感じるキャリアウーマンで、年配の共働き夫婦という不思議な家庭だった。


義父も義母も、らんことレモンをこよなく可愛がってくれた。

元来、動物好きな家庭なのだ。


ユミの実家には、義父、義母の他にもらんことレモンを待ち受けていたヤツがいる。

チコという名のマルチーズ犬。

チコという名前なのに、オスである。

チコという名前は、この家で代々、受け継がれた名前で、オス、メスは関係ないのだ。


チコは、ボクたちが玄関を開けると、全速力で駆け寄ってきた。

部屋の中にらんことレモンを放すと、チコは、まずらんこに駆け寄り「ニャー」と一喝され、続いてレモンに駆け寄り、一喝の前にパンチを一発見舞われる。


毎度、同じ事をやっているのだから、いい加減慣れれば良いのに毎度のことだ。


それだけ、チコもらんことレモンが好きだった。


いつものように最初は探検に余念が無かったらんこも、さすがにユミの実家には慣れたようで、2階のほとんどは制覇したとばかりに、我がもの顔で階段を上がっていった。


それを下から見ているチコの顔がなんともとぼけていて面白かった。

 

 「犬とネコってこんなに普通に一緒にいられるかなぁ? 特にらんことチコは異常だよ」

 「チコがおかしいのよ。 誰にでもなつくんだからこの子は」

お義母さんは、自分の子供を謙遜するような言い方でボクに言った。

恐らくは、その昔、ユミもこんな風に言われていたのだろう。


ボクは、ラーメンの他にも早稲田を気に入っていた。

学生街、銭湯、公園、細い路地。 ボクは、この街の夕方を、チコを連れて楽しんだ。


らんこは階段、ボクは路地裏、結構、楽しい早稲田だ。

うん? レモンは?


チコの散歩から帰ると、ユミが急いでボクを呼んだ。

 「ちょっと、あれ見てよ」

そこには、いつもは怯えたような表情のレモンが気持ちよさそうにお腹をさらけ出して、ボクを見つけると「ニャン」と可愛く鳴いた。


 「おいおい、どうしちゃったの まるで別人じゃん」

 「ママが面白がって、マタタビあげたのよ」


先ほど、ペットショップで買ったマタタビの木を、義母がそれとなくレモンの前に置いておいたそうだ。


ボクは、“ネコにはマタタビ”の言葉は知っていても、その実、マタタビを見るのは初めてだった。


レモンは、ゴロゴロ転がって、兎に角、楽しそうだった。

 「こいつ、とんでもない酔っ払いだなぁ」

ボクは、レモンにとても親近感が沸いた。

警戒心がおうせいな、どこか心の最後の扉を閉め切っていたレモンが、こんな簡単なことで・・・。

 「やっぱり、かえるの子はかえる。 酒好きの子は酒好きだなぁ。 よ~し、ボクも飲むぞぉ。 帰りの運転ヨロシクね」

 「もう、まったく、調子いいんだから」


階段好きのらんこと、路地裏好きのボクと、またたび好きのレモンで、早稲田はやっぱり良いところだ。



1993年5月15日、ボクにとっては待ちに待った日を迎えた。

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の開幕である。


サッカーどころと言えば、少し風格があるが、その他に何の取得もない町、それがボクの故郷だ。

町を歩けば、幼稚園児からオバちゃんまでがサッカーボールを持っている。

自転車のかごには、必ずサッカーボールを入れている。


小学校の男子は、給食を秒殺した後、我先にと一目散にグラウンドに飛び出して行き、自分のチームのボールでキックオフ。


昼休みサッカーに上級生下級生はなく、気が付けば、1年生から6年生まで、各5クラス、計30クラスの男子がサッカーを楽しんでいた。


一つのグラウンドに、30個のボールが行きかい、30人のキーパーが一つのゴールを守る。 どう考えても、おかしな光景である。


町の唯一の銘菓は、その名も“サッカー最中”

サッカーボール型をした最中は、ボクの家のつけとどけには欠かせないアイテムだった。


そんな環境で育ったボクが、まだ全国的にはマイナーと言われながらも期待して止まなかったプロサッカーリーグが始まるのだ。


小さい頃から応援していたヤマハは、Jリーグチームに入れなかったけど、清水エスパルスという新球団が、静岡を代表して名乗りを上げていた。


我が家では、ボール遊びに長けていたレモンが、エスパルスの応援担当として、らんこは後にジュビロ磐田として参戦することになるヤマハの応援担当に決定し、ボクは、郷土のチームである藤枝ブルックスを、半ばよしみで担当することとした。


残念ながら、この藤枝ブルックスは、経営していた警備会社が、福岡の会社にサッカー部を売却したことで、福岡ブルックスとなり、Jリーグ参戦に伴って、アビスパ福岡と名前を変え、ボクの田舎の色はまったくなくなってしまったのである。


そんなJリーグ。

ガンバレ!県民の期待を背負う清水エスパルス。

負けるな!来年にはJリーグに昇格が囁かれているヤマハ。


いつしか、我が家では、エスパルスが勝つと、らんことレモンが食べるネコ缶が上質のものになるという現象があたりまえになった。


エスパルスは以外に強かった。

1stステージは4位 2ndステージはベルディ川崎と優勝を争っていた。


 「どうだ レモン、今日の調子は?」

 「・・・」

 「う~ん、そうだな、長谷川健太の調子が今一つだからな」

 「・・・」

 「らんこ、予定通り、ヤマハは来年仲間に入れそうだな」

 「ニャー」

 「オマエ、本当に返事だけはいいなぁ」


世の中には、ボクの好きなZARDが、ボクの気持ちを表すように『負けないで』と唄っていた。


警戒心の塊のレモンをいつもらんこは、優しく守る。

我が家にお客さんがやってきても、レモンにとっては侵入者。

玄関のチャイムが鳴る数秒前に家具の隙間や押入れに逃げ込むレモンに、らんこはいつも平然と侵入者を受け止め、安全を確認してから、レモンに大丈夫だと知らせに行く。


 「ウチには、玄関のチャイムも、おまけにセコムもいらないなぁ。 どっちにしてもセコムははいってないけど」

 「レモンが安心していられるのは、ウチと早稲田だけだもんね。」

 「しっかりしろよ エモ!」


いつの頃だろうか、レモンがなまって”エモ”が呼び名になっていた。

レモンの小心者気質は本物で、お腹を出してリラックスして寝ていても、訪問者がやってくる気配を察知すると勇んで隠れる。

逃げていく姿が、腰がひけながらの小走りなので、まるでゴキブリのようだった。

これが、目の見えないらんこが逃げていく様とそっくりなので、変なところで似たもの兄弟だったりした。


 「エモってさぁ、ウチの玄関の前を通る他の階の住人には、反応しないのに、ウチのお客さんにだけ反応するのは何故なんだろう」

 「そういえばそうね お隣の玄関にも人はやってくるのにね」

 「オマエ、それが判るのか? だとしたら、凄いことだぞ。 よし、TV出演ダァ」

 「ダメよ それを撮るカメラが入ってきたら、隠れちゃうんだから」

 「そうかぁ、何かいい方法はないかなぁ・・・」

 「何言ってるの。 でも、エモにとっては住み心地が悪いのかなぁ?」


気が付けば、ボクたちは、このマンションに暮らして6年目の夏を迎えようとしていた。

夏には豊島園の花火が毎週土曜日に打ち上げられ、北側の窓の先に臨場感たっぷりの夏の日にいつも、狭いながらも我が家は居心地満点だなぁと思っていた。


らんこは、花火の音に少し驚きながらも、火薬の匂いがするのか、お気に入りの南の窓から、このときばかりは北の窓にやってきておすまししている。

でも、レモンは押入れだ。

 「住みごこちかぁ・・・」

 「えっ?」

 「あっ、いや、ボクはこの家、とっても気に入っているんだけど、もう5年も住んでるのかと思ってね」

 「そうね、そんなに住んでるんだね」

 「引越し、考えてみようか ホラ、ネコって家につくっていうし、家が変わるとエモの警戒心も少しは解けるかもしれないし・・・」

 「そうかもね・・・、でも、惜しいなぁこの花火、特等席なのになぁ」


ユミは無類の花火好きだった。

母親の実家の沼津の家では、打ち上げ場所が真前で、家が揺れるほどの環境で花火を見る。

正確には見上げるが正しいが。


夏の東京にはいくつかの花火大会が催されるが、毎週、それも家のソファに座って花火を見られる環境は、確かに少なかった。


引越し

慣れすぎたこの街の景色が、次の日から少し変わって見えた。



 「ええっ?ネコを預かった?」

 「預かったというより、もらってきたのかしらねぇ」

 「何、のんきに言ってるのよ。 えっ?何?食べ物がわからない? 何言ってるの、ネコ飼うの初めてじゃないでしょ?」


日曜日の朝、ユミが実家の母親と電話で話をしていた。

内容を察するに、どうやら、ネコが早稲田の家にやってきたようだ。

電話を切ったユミは、ため息を一つ付いて「まったくもう」と独りごちた。

 

 「どうしたの? ネコ飼うの? 早稲田」

 「うん、そうなんだけどね、なんか大変なの」

 「何々、何が大変なの?」

ボクは興味津々だ。


 「それがね、ミチコがもらってきたネコらしいんだけどね」

ミチコちゃんはユミのいとこで、実家の沼津から早稲田の家に程近いアパートで独り暮らしをしていた。

 「そうか、ミチコちゃんのアパートだとネコは飼えないよな」

 「それはそうなんだけどね、問題はそれじゃないの」

 「えっ?何々?」

ボクは更に興味津々だ。


 「もらってきたネコちゃんがね、アメリカンショートヘアらしいんだけど、何でも、細川ガラシャの飼っていたネコの末裔で、血統書に書いてある名前も、えっと、”ガラシャ・ナントカントカ#$%&#・アップル”って言うの。」

 「ガラシャ・ナントカントカ#$%&#・アップル???」

 「なんだか分からないけど、とにかく長い名前なんだって」

 「へぇ~、凄いね。 それで、何を困ってるの?」

 「何を食べさせたらいいか分からないって・・・。ホラお姫様だから」

 「そんなの、ネコはネコ。お姫様だからって、ステーキを召し上がるワケじゃないよ」

 「そうよねぇ」


そんな話をしながらTVを付けたら、ニュース番組に時の総理大臣、細川護煕ソーリが移っていた。

 「そうか・・・、この人にもゆかりがあるネコなのかぁ 凄いな、それ」

 「それに、チコは大丈夫かしら、あの子は誰にでもハシャイで近づくから・・・」

 「アメショねぇ」

と、ふとボクは、レモンと目が合った。


 「エモ、オマエやばいぞ! 本物のアメショだってさ。それに、ものすごい血統書つきだぜ。 完全に差がついちゃうなぁ」

 「ニャー」

めずらしく、ボクの言葉に答えるように、レモンがひと鳴きした。


 「大丈夫よ、エモはエモらしくしていればカワイイんだから」

 「そうなんだってさ、でも、お尻のところの茶色で見つかっちゃうぜ」

 「ニャー!!!」


その日、物見遊山で早稲田に出かけたボクたちは、いつものように立ち寄ったペットフードショップでネコ缶を買出し、お姫様のお土産に、らんこたちは、滅多にありつけないモンプチを買っていった。


 「なんだかんだ言っても、ネコはネコだろ」

そんなボクの言葉は、まかり通らないことがそれからしばらくして分かることになる。



ネコは、媚を売らないとよく言われているが、瞥をくれるという表現がこれほどまでにぴったりくるのかと思うほどのネコだった。

ガラシャ・ナントカントカ#$%&#・アップル


=ワタシは人を信用していません=

と言わんばかりの顔には、自分は今まで上流の生活をしてきたことを表わしていた。


義母は、まるでお姫様に献上するように、高価な食事を与え、メイドのようにお姫様の生活環境を整えた。


 「いやいや、お義母さん、そんなことをしていたら、いつまでたっても慣れませんよ」

 「そうねえ、でもどうしてよいやら・・・」

 「庶民には庶民の生活があることを分からせてやるのです。庶民には・・・、あっ、いや、決してここが庶民の家といっているわけではなく・・・」

 「いいのよ、庶民なんだから」

 「それなら、まずは、世話を焼きすぎないことですね」


といいながら、ボクはお土産のモンプチを差し出した。

説得力が無い。


 「兎に角、しばらくは様子をみましょう」

ボクは、バツが悪い思いで、お義父さんと野球の話でお茶を濁した。


ユミの家族、親戚は、一部の狂いもなくプロ野球はジャイアンツファン。

Jリーグが開幕して、サッカーのTV観戦が増えたボクではあるが、その実、野球にも大いなる興味があった。

絶大なる阪神タイガースの、熱狂なるファン。

大敵はジャイアンツで、ジャイアンツファンには、すべからず負けてはいけない。

阪神ファンの掟である。


Jリーグは、清水エスパルスとジュビロ磐田と担当分けをしていた、らんことレモンも、野球に関しては、阪神一途。

白虎をイメージしたフランチャイズのユニフォームは、レモン。

グレーが基調のビジター用ユニフォームは、らんこ。

タイガースとエスパルスとジュビロが勝つと、我が家はお祭りのように豪華な食事にありつける。


今日の試合は、ジャイアンツが僅差で広島カープに負けていた。


 「まあ、大丈夫じゃないですか? 今年のジャイアンツの選手層の厚みからすれば、すぐに逆転でしょう」

ボクは、途中経過で阪神が勝っているというテロップを確認して、余裕でそう言った。

 「どうだろうな、どっちにしても、もうペナントレースは決まっているからな」


この年のジャイアンツは、長嶋監督の復帰、背番号33、甲子園の怪物、松井秀樹の入団、そして、驚愕の三冠王、落合博光の入団と、話題に事欠かなかったが、今ひとつ調子が上がらないでいた。


 「まぁ、郷に入れば郷に従えですよね、落合もガッチャンも」

 「ガッチャン?」

 「ああ、めんどくさいでしょ?長い名前で、あのお姫様。 いいんじゃないですか、ガッチャンで」

 「・・・、ガッチャンかぁ、まぁいいか」


人の良い義父は、ボクの思いつきで出た名前を、そのまま使うことにしたようだった。



引越しを考えてから、数ヶ月が過ぎた頃、会社の同僚の小嶋くんが、結婚を期にマンションを買うという話が社内で持ち上がった。


 「よう、小嶋、マンション買うんだって?」

 「へへっ どこで聞いたの? そうなんだよ。 ホラ、ウチの嫁さん、まだ若いじゃない、だからさぁ、新居は特別にしたくてさぁ」

嫁の話なんて聞いてない。

 「ああ、そうか、で、どうなのさ、結構、面倒くさいんじゃないの?家買うのって?」

 「そうねぇ、でも男の甲斐性じゃないの、マイホームって」


聞き方によっては、結婚して5年も経っているのに、未だ賃貸に暮らしているボクは、甲斐性なしだとも聞こえた。


 「甲斐性かぁ・・・」


ボクはその日、結婚をしてから2度目の家族会議を開いた。

ボクとユミとらんことレモン。

テーマは、我が家はマイホームを買えるのか・・・。


だいたい、人間というものは、興味を持ち始めると、その興味はどんどん膨らんでいくものだ。

家族会議の終わり頃には、”買えるのか?”という確認から、”買わなければならぬ”という決意に変わっていた。


問題は、長年住み慣れたこの練馬の地を離れるか否か。

田舎育ちのボクは、自然がある静かな土地を、人が多い場所で生活していたユミは、商店街が充実した場所を、いろんな要素を足したり引いたりしながら、ボクたちが選んだ土地は、比較的新しい街づくりがされている田園都市線だった。


その週末に、ボクたちは、らんことレモンを連れて、田園都市線沿線をリサーチした。

新しい街並みは、どの駅も住みやすそうで、住人も若い人が多かった。

ボクたちは、さらに夢を膨らませていった。


 「田園都市線に住んでる友達から新築マンションのチラシをもらってきたわよ」

家に帰ってみると、ユミが早速、情報を仕入れてきていた。


そこには、夢のような環境に燦然と輝く、素敵なマンションのイメージパースが乗っていた。

申し込み期日が、明日からスタートという文字も、ボクたちの興味を引いた。


 「これ、絶対、いいよ! いいよなぁ、らんこ」

 「ニャー」

 「ホラ、らんこもいいって」

 「何言ってるの らんこは、何聞いても、ニャーでしょ」


そういいながらも、ユミもこの物件に夢を広げているようだった。

そして、レモンは・・・、

 「おいおい、オマエの警戒心を解くのが引越しの目的だったんだぞ」

レモンはというと、最近こり始めたゴム製のファズボールに夢中だった。


ボク達は、レモンのおかげでちょっと背伸びをしながらも、電撃的に新築マンションを購入することとなり、新しい生活を決意することになった。


でも、本当のことを言うと、ボクたちは、もう一つの大きな希望をもって、引越しに望んでいた。


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