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短編【30分前後】

タクシー

作者: 有嶋俊成

 チリリリ、チリリリ……チリリリ、チリリリ……

 スマートフォンの画面が光り、けたたましい音が響き渡る。

 リクライニングを倒して運転席で眠っていた男が無表情で後部座席に手を伸ばし、音を止めた。大きく深呼吸した後、リクライニングを上げ、体を起こす。外は暗く、左手首に巻き付いている腕時計の針は、八時を指している。男はドアを開けて外に出ると、あくびをしながら体を伸ばした。彼の近くでは帰路についているであろう二人のサラリーマンが通りがかった。

 運転席に戻ると、助手席に置いておいた白い手袋を身に付けハンドルを両手で握る。目を見開いてもう一度、深呼吸をする。

 表示灯には《空車》の文字が光る。表示灯の裏のネームプレートにはブルーバックを背景にした男の写真が印刷され、その右には《早瀬頼輔》と男の名前が印刷されている。

 男は眠気を体から吹き飛ばすとエンジンをかけ、アクセルを踏み、明るく光る行灯(あんどん)を載せた黒い乗用車を公園沿いの路肩から発信させた。

 タクシー運転手・早瀬頼輔(はやせよりすけ)。今日も人々の足となるため走り続ける。



  ー一人目・根沢実明ー


「ごめんね、付いて来てもらちゃって。」

 根沢実明(ねざわみあき)は少し膨らんだ腹部を抑えながら母親に礼を言った。

「孫に何かあったらいけないから。」

 実明の母は、ゆっくり歩きながら娘のお腹を見る。グレーのワンピースのお腹あたりが僅かに突き出ている。

「もう、すっかりおばあちゃん気分だね。生まれるのまだ半年くらい先だよ。」

「お(なか)にいても孫は孫だから。お父さんなんてフィーバー中よ。」

 この日はお腹の子の祖父である実明の父の誕生日であり、その祝いを兼ねて自分の腹の中に宿る子供を両親に見せに実家に帰っていた。妊娠報告の時に夫と共に顔を出した後、しばらくは安静にしていようと検診や買い物、ちょっとした散歩以外の外出は控えていたが、妊娠五ヶ月を迎え膨らんできたおなかを両親に見せる為、久々に実家に顔を出した。

 両親は膨らんだお腹を見て、改めて自分たちに孫が出来たことを実感していた。初孫であるため、二人とも大いに喜んでいた。特に父親はまだ姿を現さない孫にやたら話しかけたり、鈴のおもちゃまで買ってきてあやそうとしたりと、その可愛がりぶりは凄まじかった。あまりにもしつこいので母親は実明にストレスをかけまいと、二回くらいお腹から引き離していた。

「今度は涼人くんもつれてきてね。」母親が言った。

 涼人とは、実明の夫・根沢涼人(ねざわりょうと)のことだ。

「うん。また日曜日にでも。」

 会話をしながら通りに出ると、ちょうど一台の黒いタクシーが路肩に止まった。助手席側にある表示灯には《迎車》の文字が光っている。

 実明の実家は、夫と住んでいる家から車で三十分ほどで行ける場所にある。この日は実家へ向かう時も自宅からタクシーで向かった。

「それじゃ、ありがとね。また今度。」

「うん。またいつでも。」

 会話の後、軽く手を振りながら母娘は別れた。


 四十歳前後であろう中肉中背の運転手に目的地を伝えると、すぐに車両が動き出した。

「あれ? お客さん妊婦さんですか?」

 赤信号で止まると、運転手が口を開いた。

「ええ。五ヶ月です。」

「そうですか。ご自宅にご家族はおられますか?」

「旦那が家に帰っていると思います。」

「それなら良かったです。体調が悪くなったら言ってくださいね。」

「お気遣い、ありがとうございます。」

 青信号になると車両はゆったりと速度を上げて再び走り始めた。

 親切な運転手にあたって良かった。おかげで気を楽にして家路につける。ふと窓外を見ると歩道にはスーツを着た中年のサラリーマンや金髪で派手な服装をした女などが歩いている。その中に十代くらいのブレザー制服を着たカップルらしき二人がくっついて歩いているのが目に入ってきた。時刻は八時半。まだ十代が外にいても大丈夫な時間だ。二人で夕食を済ませて帰路についている途中なのだろうか。タクシーが走行中なのでそのカップルはすぐに視界の後ろの方へと消えていったが実明はその一瞬でなんだか切ない気分になった。


 夫・根沢涼人と出会ったのは高校生の時。入学時のクラスが一緒で席も隣同士だった上、二人とも社交的な性格だったことから、すぐに仲が良くなった。実明の結婚前の旧姓は広村(ひろむら)であり、最初はお互いを「広村」、「根沢くん」と苗字で呼び合っていた。それからというもの勉強を教え合ったり、趣味について話したり、一緒にファーストフードの店で食事をしたりと、親交を深めていった。共に行動している頻度があまりにも多かったため、周囲の級友からその関係を色々と噂されるようになっていた。

 涼人との関係が進展したのは高校二年生に学年が上がる頃、春休みの間だった。もうすぐ新年度が始まってしまう、クラスが変わる…という憂鬱とも待望とも感じる時期に級友の間で広まっていた噂が本当になった。

 友人の家に遊びに行った帰り道に二人で公園を通った時、涼人の方から打ち明けられた。もう子供も遊んでいない夕方の時間帯、日も落ちて空が(オレンジ)色から紫色に変わりかけていた頃、公園の中心で二人そろって歩く足が止まり、目を合わせたまましばらく沈黙が続いた。「いいよ。」とだけ実明の口からこぼれた。その瞬間、真顔になっていた二人が照れくさそうに笑い合った。


「どうしました?」運転手が口を開いた。

「あっ、ごめんなさい。」

 窓外を見ながら微笑んでいたのがバックミラーに映っていたようだ。

「ちょっと昔の事を思い出しちゃって。」

「ああ、そうですか。僕もたまにそうなります。」

「そうなんですか?」

「ええ。妻と出会った頃の事とか思い出しちゃいますね。」

 今さっき実明が思い出していたのと同じようなことだ。

「奥さんいるんですね。お子さんはいるんですか?」

「男女一人ずつ。上が女で下が男です。」

「へぇ~、子どもが二人だと大変そうですね。」

「いや、二人共もう大人だから大丈夫ですよ。」運転手が微笑みながら言う。

「もう成人されてるんですか?」

「下の息子が今年、二十歳になるんです。」

「えっ、二十歳…ですか?」

 実明は思わずぽかんとした。運転手は見た目からすると四十歳前後くらいに見える。もしその年齢予想が当たっていれば、運転手は二十歳前後で息子を生んでいることになる。さらに運転手にはその息子より年上の娘がいるので、そうすると第一子は十代後半で生んでいるという事になる。

 実明が言葉に詰まっているのを察したのか運転手はこう続けた。

「私、こう見えても今年で五十なんです。」

 実明は仰天した。五十歳にしてはずいぶんと若々しい。実明のイメージする五十歳は、もっとごつごつとした顔をしていたり、小太りでふっくらとした輪郭を持っていたりなので余計に運転手が若く見えたのかもしれない。

「同僚からもよく言われますよ。お前だけ時が止まってるみたいだ、って。」

「私も今、本当にびっくりしましたよ。」

 運転手のびっくり話で実明と運転手は会話が弾む。

「子どもってかわいいですか?」我が子が宿る自分のお腹をさすりながら実明が言う。

「ええ。自分の子供は特にかわいいですね。」

「やっぱりそうですよね。私も早く会いたいです。」膨らんだお腹に期待も膨らむ実明。「因みにお子さんはもう独立されたんですか?」

「私のところからは、結構前に独立しましたね。」笑いながら言う運転手。

運転手の言葉に何か聞いてはいけなかったものを感じた実明。

「あ…すいません。ちょっと失礼な事を…」

「いえいえ。別に仲違いはしていませんから。私の仕事の都合で娘が中学に上がる頃に私の方から家を出たんです。」

「そうなんですか。」

「私の場合は『隔日勤務』といって、一日働いたら次の日は休みになるんですけど、その分労働時間が長くて、休日のタイミングも一般的なのとずれるので子供との生活に噛み合いにくくて。それで話し合った結果、別に暮らそうってなったんです。」

「タクシーの仕事って、大変なんですね。」

実明は運転手の話を聞いて、なんだか心苦しくなった。そして、運転手の家族と今の自分たち夫婦との間に何か通ずるものを感じてしまった。

これから生まれてくる自分の子供に暗雲が取り巻かないことを切に願いたいのだが。


 公園での涼人からの告白から二年。受験が終わり、何もかもが落ち着いた頃、今度は実明の方から改めて涼人に意思を確認した。

 三年生になると同級生たちは受験モードに切り替わり、遊びや恋愛に掛ける時間が自動的に減っていった。実明と涼人も例外ではなく、二人それぞれ進路に向かっての活動に力を注いでいった。それでも数少ない会う時間を作って繋がりを保ち続けた。そんな日々がようやく過ぎた頃、例の公園に再び二人きりで訪れた。実明のほうから散歩に行かないかと誘った。誘う理由が散歩というのはなんだか変だとは感じたが、とりあえず直接対面したかったのだ。夕方の子供がいないくなった時間帯に二人きりで公園のベンチで隣り合って座った。

「受験、終わったね。」実明が口を開く。

「やっと解放されたよ。」

「大学生になるんだね。」

「もう子供とは名乗れないよ。」

 お互い目を合わせず、前を向いたまま話す二人。

「これから、どうする?」

 実明の問いかけから数秒経った後、涼人が応えた。

「将来?」

 実明も涼人の問いかけに三拍ほど間を開けて「うん」と答えた。

「俺は、変わらず…がいいな。」少しだけ顔を実明の方に傾ける。

「私も、今まで通りがいいな。」実明も涼人の方へ顔を傾ける。

 二人で目が合うと、二年前のこの場所での二人のようにお互い照れくさそうに笑い合った。


「高校の同級生なんですね。」

 タクシーは大通りを走り続ける。運転手との雑談が弾み、話は実明と夫の出会いの話にまで及んでいた。

「ということは、出会い方は私たち夫婦と全く一緒ですね。」

「そうなんですか?」

「ええ。なんだか青春時代からずっと一緒って深いものがありますよね。」

 “青春”……その言葉を聞いて実明は自分の中で引っ掛かていたものがはっきりとしたような気がした。


実明と涼人の繋がりが生まれ、周囲で囁かれた関係が現実になり、それが長く続くことが確たるものとなったのは全て二人が高校生の頃。それから高校を出て、平日に行く先がそれぞれ別になった後も二人はお互いを直接目にする機会を保ち続けた。

 それらは全て希望と活力に満ち溢れた“青春時代”の話だ。

 二人とも無事に四年で大学を卒業し、晴れて社会人の仲間入りを果たした。それからも二人の関係は続いた。高校時代に級友同士で付き合っていた知り合いたちは、ほとんどが高校卒業時や大学在学中に別れてしまったため、高校、大学を経て社会人になっても関係が続いている実明と涼人は級友たちから驚嘆や羨望のまなざしで見られていた。

 社会人になって三年目になる頃、涼人の口から“結婚”の二文字が出た。社会人になり、それぞれのすべき事に追われ、心が離れる前に一緒になろう。二文字と同時にそのようなことも打ち明けられた。実明はこの時、迷いなく同意した。青春時代から十年近く触れ合い、離れ難い気持ちが大きくなっていた。お互いのことを昔のことも含めて知り尽くしているという安心感もあったのかもしれない。

 結婚後、二人はすぐに居を今の場所に移し、寝食を共にする生活が始まった。それからは、とにかく楽しい日々の連続だった。好意を持つ人間と一緒に暮らすのは夢のようだった。特に同じ夕食を同じ家で向かい合って食べているというのは、家族となったということが直に感じられて食卓につくたびに幸せだった。


「ああ、昔に戻りたいです。」実明は少しため息交じりに言った。

「あはは、私も戻りたいですよ。」

「結婚する前は会うだけでも楽しかったし、一緒に住み始めた頃はもう天国みたいでしたよ。」青春時代を懐かしむ実明。「去年から夫の方がだんだんと忙しくなってきて帰りが遅いことも多くて、なかなか昔のようにかいかなくなってきましたね。」


 実明は昨年度いっぱいで五年間勤めた職場を離れた。多忙となった涼人とのこれからや子供のあれこれを考えた上での寿退社だった。退職後、主婦として日中は涼人のいない家の中で家事や昼寝をして過ごし、涼人の帰りを待った。おととしまでは夕方に帰って来るのが普通だったが、今は夜に帰って来ることが多くなった。これが夫婦生活の普通なのだろう、と思ったこともあるが、なんだか割り切れない。今までが楽しすぎたのだろうか…。

 そんな中、初春に第一子を妊娠していることが発覚した。それを知った時は夫婦そろって沸き上がった。ここ最近で一番心が晴れたのはその時くらいだったと思う。それから涼人は身重の実明をこれまで以上に気遣うようになった。胎児のためにと乳製品の軽食を携えて帰宅したり、たまにある夕方の帰宅の時には夜の家事を引き受けてくれたりしてくれた。しかし、お腹が膨らんでいる間も涼人は多忙に見舞われていた。夕方の帰宅の頻度も以前より減った気がする。

 もう青春時代のようにはならないのか……あの時のように学校の昼間や休日に楽しく自由に交流した過去のようにはいかない……。

 青春はもう戻ってこない。


「大人になったら、もう昔のようにはいきませんからね。」

「ええ。私もいい加減、過去を恋しく思うの辞めないと。」実明が寂しそうに言う。

「恋しく思うのは誰でも当たり前ですよ。私もたまに高校時代を思い出しますよ。流行りの映画見に行った事とか。」

 バックミラーに映る運転手の顔がうっすらと笑っている。

「大学時代もよく一緒に出かけて、私がサラリーマンからこっちに転職する時も応援してくれました。」

「転職されてたんですね。」

「ええ。ドライブ好きだったんで思い切って。でも、まさかそれが後々、影響しちゃうとは思いませんでしたよ。」

 この運転手は隔日勤務の影響で家族との生活リズムにズレが生じてしまったと言っていた。その影響で家族と別居することになった。そのことを踏まえれば、サラリーマンからタクシー運転手に転職したことは、この運転手にとっては痛手だったろう。

「もしかしたら、うちもそうなっちゃうのかな。」お腹をさする実明。

 タクシーが赤信号で止まると、運転手が話始めた。

「僕の場合は今でも楽しいですよ。むしろあの時、住むのを別にしておいて良かったとも思ってますね。」運転手が続ける。「別に家族と離れたいと思ったわけではないですよ。妻の負担が強くなる前で良かったというか、離れたことで楽しみが増えた気がするんです。」

 家族と別に過ごすようになったことで妻や子供と対面できるという楽しみが増えた、と運転手は言う。

「奥さんは納得されてたんですか?」

「最初は僕も妻も不安でしたよ。いずれ別れることになっちゃうんじゃないかって。でも、なんとかここまでやってきて、結果的に良かったって言うんですかね。」

 自分の仕事のせいで家族が不機嫌にならなくて良かった。むしろ楽しみが増えてよかった。そのおかげで家族がバラバラにならなくて良かったと言う。運転手は子供の学校の行事の日や記念日がくるたびにそれを実感したらしい。

「良いですね、家族から会いたがられるって。」

「会うたびに楽しいですから。あっ、ここですね。」

 タクシーはいつのまにか実明と涼人の住まいの目の前にいた。

「ありがとうございました。」料金を支払うと実明はタクシーの後部座席から降りた。

「お気をつけて。」運転手は実明に軽く会釈した。


 タクシーは、車体の進行方向へと走り去っていった。

 実明が目の前のマンションを見上げると、自分が住む部屋のベランダの窓を覆うカーテンが暗闇に包まれている。それを見てなんだか寂しい気分になった。

 入口を通り過ぎ、エレベーターに向かおうとすると、ラウンジのある方向から自分の名前を呼ぶ、胸に響くような声が聞こえた。涼人だった。

「もうそろそろかなと思って。」ラウンジのソファーから立ち上がる。

「ごめん、待った?」実明の顔から思わず笑顔が漏れ出した。

「大丈夫だよ家だから。」

「会いたかった。」涼人の横に引っ付く実明。

 涼人は困惑しながらも、寄り添って来る妻を見てどこか安心した。

「早く君も出てきてよ~。」

 実明は家族が宿る自分のお腹をさすった。

 早瀬頼輔……後部座席から何度か見えたネームプレートに書かれていた運転手の名前だ。あの若々しい五十歳の運転手のおかげで何か重みがとれたような気がした。



  ー二人目・西塚則史ー


 スタッフたちに見送られ楽屋を後にする冴えない感じの男。お笑いコンビ「狛犬刀」のツッコミ担当で作家活動も行う西塚則史(にしづかのりふみ)だ。この日はバラエティ番組のゲストとして呼ばれ、夜まで収録を行っていた。

 バラエティ番組の収録は楽しい。自分と同じ芸人や俳優、女優、歌手、アイドルといった沢山の芸能人たちと防音のスタジオ内で近所に迷惑をかけることなく騒ぎまくれる。芸能界に入って既に二十二年が経つが、未だに家のテレビで見た人気タレントと番組で初共演する時はワクワクが止まらない。

 西塚は、「狛犬刀」としてブレイクした後、初めて執筆した小説が話題となり、現在は執筆活動の方が中心となっている。それからは、テレビ出演は明らかに減った。というか自分が最初の小説を書いていた頃は「狛犬刀」のテレビ出演の頻度が良くも悪くも平行線を辿っていた時期なので自分としはそこまで変化は無かった。タレントとしての仕事が減った分、著作者としての仕事が増えた感じだ。

 収録スタジオがある建物から出た西塚は、通りで表示灯に《空車》の文字が光るタクシーを見つけ手を上げた。黒い光沢のある車体のタクシーは西塚の近くの路肩に停車し、自動ドアを開けた。後部座席に乗った西塚が目的地を伝えると運転手は自動ドアを閉めてハンドルを握り、右側のウインカーを付けて再び車両を車道へと戻した。


 交差点に進入しようとしていたタクシーはちょうど赤信号に引っ掛かり停車した。

 シートに背中の全面を預ける西塚。ふとバックミラーに目をやると運転手と目が合った。運転手はすぐに目を逸らしたがなんとなく何かに気づいたように見えた。

「気づいちゃいました?」試しに聞いてみる西塚。

「あ…、『狛犬刀』の方ですか?」運転手は照れるような笑みを浮かべて言った。

 西塚の予想通りだった。テレビに出始めた頃から街中で声を掛けられる事が増えたが、タクシーに乗った時も同じようなことがよくあった。タクシーの場合、運転手から声を掛けられるパターンかバックミラー越しにチラ見されるパターンがあった。今回は後者だ。後者の場合、西塚から声をかけることが多い。「狛犬刀」としてブレイクした頃にタクシーに乗った時、今回同様、運転手とバックミラー越しに目があったことがあった。三回、目が合ったので多分そうだろうな、と思い、試しに「西塚です」と言ってみたところ、「やっぱりそうですよね!」と笑顔で運転手が返してきた。それ以来、バックミラー越しにタクシー運転手と目が合った場合は自分から声をかけるようになった。

「この辺だと芸能人の方をよく乗せるので、もしかしたらと思いましたよ。」

 落ち着いた感じで話す運転手。どうやらこの運転手は芸能人を乗せたことが多いらしく、芸能人には慣れているという。

「つい先週、相方のかたも乗せましたよ。」

 運転手は西塚の相方である広安祐吉(ひろやすゆうきち)も乗せていた。

「そうなんですね。どうでした? あいつは。」

「乗ってきた時はちょっと暗い感じでしたね。疲れてるのかなと思ったんですけど、途中電話された時は普通でしたんで、あ~普段は大人しめの人なんだなという印象でしたね。」

 運転手の言う広安の素の姿はまさに自分の知る彼そのものだった。テレビカメラの前や仲間内では明るく気さくに振る舞う彼であるが、普段は大人しい方だ。街中で声をかけられた時は、「あ、どうも」と応えるくらいでそこまで気さくというほどではない。しかし、握手や写真を求められたら一応してあげるのでそこまで悪い印象は与えない。

 タクシーは大通りを進んでいく。夜十時の東京の街はビルの窓から漏れ出すいくつもの光や走行中のヘッドライトでキラキラと輝いている。

 西塚は外の風景を見てふと思い出した。この通りはこの前とある番組のロケで通った場所だ。あのロケは大変だった。ウキウキした反面なんだか寂しい気持ちにもなった。最後の最後でとんでもないことが起きたが何とか丸く収まった。

「あのう、この辺にオムライスとナポリタンが美味しい洋食屋さんありましたよね。」外を見ながら運転手に聞く西塚。

「ああ、ありますよ。この辺では評判です。」

「ですよね。この前、テレビのロケで行ったんですけど、僕食べられなくって。」

「ドッキリのやつですよね?」

 運転手は、その洋食屋で行われたロケのことを知っていた。二ヶ月ほど前に放送されたドッキリ番組だ。その番組では広安がメインターゲットに据えられており、西塚も仕掛け人の一人として参加していた。「スタッフに化けた相方に気づくのか?」というドッキリで、スタッフに化けて洋食屋で激塩オムライスや激辛ナポリタンをドッキリの一環として食べさせられている広安を見守った。

「もう、大変でしたよ。」

「広安さん大暴れしてましたね。」運転手は楽しそうに話す。

 広安は最後の大量のヤンキーに絡まれるドッキリでどういうわけか突然大暴れし、スタントマンやエキストラが扮した偽物のヤンキーたちに襲い掛かっていた。放送ではカットされたが、西塚は興奮状態の広安に投げ飛ばされていた。

「久しぶりの再会がなんであんな風になるのやら。」西塚は苦笑しながら言った。

「あ、そうか『狛犬刀』が揃うの、結構久しぶりでしたもんね。」

「僕が小説の方に行っちゃいましたから。」

「それじゃあもう、共演もなかなか…」

「そうですね。昔のようには…」


 「狛犬刀」を結成したのは今から二十二年前、広安と西塚は当時二十歳。高校卒業後、地元の企業に就職していた西塚だったが、芸人を目指していた広安の誘いを受けて退職し、お笑いの世界に入った。

 コンビ名の由来は、とにかくかっこいい名前にしたいという思いから二人でお互いにかっこいい単語を出し合い、組み合わせたことから。“狛犬”は、地元の神社の入口に鎮座していた狛犬を見た西塚が勇ましさを感じて提案。“刀”は勇ましいイメージがある武士が使う道具であることから広安が提案した。

 広安と共に二人そろって上京してきた時は、ここから始まるんだという期待が膨らむ一方、不安感もあった。売れるのがいつになるかわからない、三十歳の頃か四十歳の頃か、そもそも永遠に売れないのではないか、名を残すことなくいつのまにか消えてしまうのではないかという将来への悲観にさいなまれていた。しかし、転機は西塚の予想に反して割とすぐに訪れた。結成・上京から五年、それまでバイトをしながら舞台で客の前に立つ日々が一転、テレビカメラの前での仕事が大雨のように狛犬刀へと舞い降り始めたのだ。

 狛犬刀は一躍人気芸人の仲間入りを果たした。ネタ番組やトーク番組といったバラエティに留まらず、CMやドラマにも活躍の場を得られるようになった。狛犬刀がブレイク出来たのは広安のおかげだと西塚は思っている。コントのネタを主に作っていたのは広安だし、トークも広安の方が断然上手かった。一方の西塚はそんな相方の存在感の陰に隠れてしまう、いわゆる「じゃない方」になっていた。それ故にピンでの仕事は広安の半分にも満たなかった。最初はそのことを気にしていたが、徐々にそうでもなくなっていった。「じゃない方」として扱われるのに慣れた、とでも言うのだろうか。


「まあでも、今の僕には小説がありますから。」

「『酒場』でしたっけ、バーが舞台の。」

「知ってらしたんですね。」

「ええ。ニュースで流れてましたよ。」

 「酒場」、西塚の最新作だ。とあるバーが舞台で、バーに訪れる様々な人たちの人間模様を描いた作品だ。発売から二ヶ月、売れ行きは話題となった第一作ほどではないがそれなりに好調だ。

「私、西塚さんの小説が初めて出た時、買いましたよ。」

「おお、ありがとうございます。」目を見開く西塚。「久しぶりに一作目買ってくれた人に会ったんで、なんか舞い上がっちゃいました。」

「もう結構、経ちますよねあれから。」

 第一作が発売されたのは今から五年前。その頃は街中で声を掛けてくれる人のほとんどが自分の小説を手に取ってくれた人ばかりだった。サイン会を開いた時も書店外に人がはみ出るほどの行列だった。

「あの時は自分でも驚きましたよ。」

 お笑い芸人であった自分が小説という新たな境地を開いた、自分の可能性を開花させる事が出来た、そんな気がした。

 しかし、それが「狛犬刀」の…広安との分岐点にもなった。


 「狛犬刀」の名が世間に轟いてから約五年、狛犬刀の二人が三十歳を迎える頃には仕事が落ち着き安定期を迎えていた。

 広安はクイズ番組の解答者やトーク番組の進行役などで、単独でのレギュラー番組を三本持っていた。一方の西塚は相変わらず「じゃない方」の肩書を抱え、広安とのコンビでのレギュラーはあったものの単独でのレギュラーは一つも持っていなかった。たまにドラマやイベントには単独で呼ばれることはあるものの、バラエティ番組に呼ばれる時は大体、広安とセットで呼ばれていた。

 そんな平凡な日々が長らく続き、西塚は何か変化を欲するようになった。そんな時に目についたのが、芸能人が出版した本だ。芸能人の中には人気になったことで本を出す人がいる。大抵はエッセイを出している印象があるが自伝やら啓発本やらを出している人もいる。

 今頃、自分のエッセイなんて出しても……狛犬刀のブレイクはとっくの昔に終わっているし、自分に何か卓越した特色があるわけでもない。それに、どちらかというと世間は「じゃない方」の自分より、広安の本の方が注目するだろう。そんな考えもあって、執筆活動なんて自分には無意味だろうと思っていた。

 そんな中、西塚に連続ドラマのレギュラー出演のオファーが舞い込んできた。昨今の連続ドラマに一人か二人はいるお笑い芸人が演じる脇役の登場人物だ。これまでゲスト出演しかしたことがなかった西塚にとっては大役だった。

 長い期間、ドラマの現場にいると色々と感じるものがあった。自分が別の人物になる、周りも別の人物になりきっている。周りにはカメラやマイクがあるのに完全に作り話の世界に入り込んでような錯覚を西塚は感じた。

 ーー作り話って、面白いな。

 作り話の中では、どういうことが起きるか、どんな人が登場するか、それらがどのように絡み合ってどのように物語が進んでいくかが作者の意向によって好きなように決めることが出来る。こんなことが起きたら面白いだろう、こういう人がいたら盛り上がるだろう……まるで妄想のようにそんなことを考えるのが楽しそうだと西塚は感じた。

 気づいた時にはもう手が動いていた。自分の作り上げた世界観での出来事を文章で書き起こすことで解放していく。それをやっている間は思ったより楽しかった。広安にはこの事をたまたま二人で出演したバラエティ番組の収録後の楽屋で打ち明けた。少し反応に困るような苦笑を浮かべていたが、別に否定することはなかった。このことはマネージャーや友人にも周知の事実となり、世間にはバラエティ番組で公表された。トークの流れでそのことを知っている芸人仲間に暴露された感じだ。後に内容の一部が同じ番組で放送された。それからすぐにそのことを知ったとある出版社から単行本として出版しませんか、という依頼が届いた。周囲の後押しもあって西塚はそれを受けることにした。こうして発表されたのが話題となった記念すべき第一作だ。その時、狛犬刀の二人は三十七歳。ブレイクから既に十二年が経過していた。

 作家という肩書を得た西塚はその後も継続して執筆活動を続けた。元々持っていたお笑い芸人としての知名度も相まって一作目が飛ぶように売れたので、次の作品への世間の期待も高かったのだ。一方その頃、広安はと言うと、単独での冠番組がスタートし司会者としての実力が芽吹き始めていた。四十歳を過ぎると狛犬刀はテレビで相まみえる姿が皆無になった。コンビで出演していたレギュラー番組は終了。広安はMC芸人としての地位を確立し、テレビで冠番組を複数持つまでに。西塚は執筆活動が中心となり、テレビからは距離が離れていた。


「すっかり、じゃない方中のじゃない方になっちゃいましたよ。」

 西塚は運転手の後ろで自虐した。

「わかりますよ。私だって『じゃない方』ですもん。」

 運転手から出て来たのは意外過ぎる告白だった。

「へっ!? 芸人やってたんですか?」

「いやいや違いますよ。地元、というか仲間内での話です。」

 運転手によると、中学・高校の時に、常に行動を共にした自他共に認める相棒的存在だった友人がいたという。その友人と運転手との現在の状況をお笑いコンビに例えたら運転手の方が「じゃない方」になる、ということだ。その友人は今、運転手の地元で社長をやっているという。

「地元でそれなりに良い会社作ったものだから地元の同級生の間では一番ですよ。僕は地元を離れて、(ひら)の運転手ですから、社長と平社員のコンビだってたまに言われますよ。」自虐するように笑う運転手。

「やっぱり比べられちゃいますよね。」

 西塚自身もネット上で「じゃない方」の他にも「テレビから消えた方」とか「見ない方」とか言われている。その他にも「引退された?」、「捕まったの?」とか冗談で騒がれているのもたまに見かける。テレビで見なくなったのは、自ら作家を始めてテレビでの活躍から離れてしまった自分自身の都合による結果であるため仕方ないだろう。しかし、テレビで一人活躍する広安を見ていると、自分が消えてしまったというのがみに染みるような気がして、なんだか寂しさを感じる時がある。

「比べられちゃいますけど、僕はそれで良いと思ってます。」運転手が言う。「いなくなった方は見えないところで頑張ってますから。」

「見えないところ、ですか。」

「あっちは地元でいちりゅの社長になったから確かにすごい。でもこっちはこっちで好きな仕事をやってますから。」

「……」

「僕は仲間たちから見えてないところにいますから仕方ないですよ。」

「運転手さんは車の運転が好きなんですね。」

「ええ。サラリーマンを辞めたのはそれもあるからかもしれないですね。」

「サラリーマンだったんですね。」

「ええ。その時もずっと平社員で。やっぱりあいつには勝てないな。」

「でも、良かったじゃないですか。辞めたおかげで好きなことが出来て。」

「それは本当に正解だったと思います。あ、ここですね。」

 タクシーは閑静な住宅街の中で止まった。夜なので静けさは増しているだろう。

「ありがとうございあした。なんだか話に付き合っていただいちゃって。」料金を渡しながら西塚が言う。

「いえいえ。こちらこそ話しかけてしまって。」運転手も首を軽く横に振る。

 お互い頭を下げながら二人は別れた。


 玄関のドアを開ける。

「パパぁ~」

 廊下の奥から小さな女の子が姿を現した。西塚は驚いた後すぐに笑顔になり駆け寄ってきた自分の娘を抱き上げた。

「ずーっと、『まだ~? まだ~?』って言ってたの。」

 娘の後ろからは西塚の妻が付いて来ていた。

「久しぶりにバラエティで解放できたよ。」

「なかなか出れてなかったもんね。」

 娘を寝かしつけ、リビングでくつろぐ西塚と妻。

「『じゃない方』だから仕方ないよ。」

 晩酌の酒を飲みながら呟く。

「また自虐?」苦笑する西塚の妻。

「別に自虐じゃないよ。俺は俺、広安は広安。俺は好きなことやってるから。」グラスを口に近づけながら言う西塚。「まあでも、一つあいつに勝ったって言うなら、ゴールインが先だったことかな。」

 西塚が冗談っぽく言うと、夫婦の間で笑いが起きた。


 頼輔は狛犬刀西塚を降ろした後、人の多い駅へと向かった。駅に行く途中にトイレ休憩も兼ねてコンビニに寄り、おにぎりを二つ買って軽く食事を済ませておいた。

 もうすぐ日付が変わる。これから終電を逃したサラリーマンたちが一斉にタクシーを利用し始める。これからが稼ぎ時だ。駅前のロータリーの中では何台ものタクシーが列を四つ作って並び、自分の番が来るのを待っている。

 今日は客と昔話をしたからなのか、頼輔の脳裏には過去の懐かしい記憶がいくつも思い浮かんでいた。


中学の時に出会った親友の小浜(こはま)とは本当によく一緒にいた。同じ卓球部だったこともあり、仲間意識も強かった。部内では二人そろって強い方でダブルスの時もその二人で組むことが多く、大会でも好成績を残したことで一躍周囲から一目置かれる存在となった。そんな二人が同じ高校に進学し、進学先でも二人そろって卓球部に入った時は、二人を知る仲間の部員からは心強いのが来たと歓声の声が沸き上がった。それに対し他校の卓球部からは恐れおののかれた。

 小浜は卓球だけでなく勉強もよくできた。彼が定期テストで六十点台を取ったところを頼輔は見たことが無かった。一方で頼輔は常に順位の真ん中の辺りをウロウロしていた。ごくまれに八十点台をとった記憶はあるが、九十点台を取ったことがあるかどうかは自分の記憶を探る限りでは怪しい。大抵は六十点台、良くて七十くらいだった。

 そんなこともあって小浜は進学先も都心に近いそれなりに名のある大学に決まった。頼輔は進学先の拘りがさほど無く、地元のそれなりの大学へと進学した。この時は今とは逆で頼輔が地元にいて小浜が地元にいなかった。大学を卒業した後も小浜は都心近く、頼輔は地元の企業に就職。この時既に地元の仲間たちの間で小浜はエリートとしてはやされていた。そして小浜の相棒として知られ、地元に残っていた頼輔は自身の事と同時に小浜の事について聞かれていた。今考えると、この頃からいわゆる狛犬刀西塚のような「じゃない方」の片鱗が出ていたのかもしれない。

 それから時が経ち、小浜は地元へ帰ってきた。そして自分の会社を作った。彼は学生時代から自分で会社を作って自分の好きなようなことがしたい、と周囲に打ち明けていた。最初は行き詰ることもあったようだが、徐々に地元の人々から頼られるようになり、今では地元で有数の企業になるまでに繁盛しているようだ。一方で頼輔は小浜が地元に戻って来る前に地元で勤めていたサラリーマンを退職して妻と共に地元を離れ、タクシー運転手として再出発した。こうして、かつて苦楽を共にし、周囲からも注目されていたコンビは、互いに異なる場所で異なる道へと進んでいった。

 頼輔は、もしも誰かに「自分と小浜に勝ち負けを付けろ」と言われれば、圧倒的に小浜の勝利だ、と言うと確信している。その上で「理由は?」と言われれば、社長に成り上がってもてはやされている方とタクシー運転手として平凡に過ごしている方、比べれば一目瞭然だ、とも言うだろう。それほど自分がコンビ対決の敗者であることを認めている頼輔であるが、一つだけ確実に勝った事がある。妻の事だ。

 頼輔の妻である糸香(いとか)は、頼輔や小浜の高校の同級生にあたる。糸香は高校時代、多くの男子生徒から一目置かれる存在、所謂モテ女だった。男子同士で恋愛話になると糸香は必ずと言っていいほど理想の相手として話題に上がっていた。この目で糸香を見ようと探し回る奴らやお近づきになろうと策を巡らす奴らだっていた。そんなことだからか告白も何回かされたようだ。度胸のある奴が人前で告白してきたこともあったらしい。

 小浜も糸香にそんな感情を抱いていた一人だった。糸香ファンの連中を何人かつれて糸香がいるクラスに糸香を見るために、糸香と同じクラスの頼輔に会いに来ることがよくあった。小浜一人で来ることもあった。

 頼輔と糸香は高校の三年間ずっと同じクラスだった。糸香は頼輔に隣のクラスのヤンキーに告白された、とかバスケ部の度胸のある男子に公開告白された、とかいう話を愚痴っぽくしてきたこともある。頼輔は最初、それをただ聞き手としてひたすら聞いてあげていた。しかし、徐々に頼輔もいとかに愚痴を聞いてもらう話し手に回るようになった。そんなことが続くうちに愚痴から趣味や個人的な話題で盛り上がっていった。

 時を越すごとに二人で出かけるようにもなった。最初はクラスの五、六人くらいで出かけるのが普通だったがある時、糸香の方からホラー映画を見に行きたいと言ってきた。糸香曰く、本気で怖さを体感したいが一人だと心細いから頼輔に付いて来てほしい、とのことだった。変な願いだなと思いつつ、頼輔は糸香と共に夏休みの最初の方の日に映画館へと向かった。ホラー映画は予想以上に恐怖度が高かった。二人で座席に座って固まっていた。劇場を出た後、二人そろって安心して、会話をしながら帰った。

 親密さが深まっていった頼輔と糸香の関係は、徐々に周囲も気づき始めたようで、噂まがいの話も囁かれるようになった。それに伴って頼輔は数多くの男子たちから様々な色の目を向けられるようになった。嫉妬や羨望の眼差しを向けてくる者もいれば、糸香が頼輔を良いと思うなら…、お前の為じゃないぞ…、などと強がりながらも肯定的な言葉や応援を向けてくる者もいた。相棒の小浜も頼輔に応援の言葉を差し出した。しかしきっと、悔しい気持ちもあっただろう。

 そして頼輔と糸香は高校を卒業した後、頼輔の告白により正式に付き合うことになった。因みに糸香は二人の噂がたってから卒業するまでにも何人かの焦った男たちに告白されたらしい。大学を経てサラリーマンとなり、サラリーマンからタクシー運転手となった時に結婚。晴れて夫婦となり、共に地元を離れた。結婚式に駆け付けた同級生たちは泣いていた。小浜をはじめとした男たちもおおいに泣いていた。

 二人の子供にも恵まれ平凡な毎日を送っていた二人だったが今は色々あって別々に暮らしている。それでも別に仲違いをしたわけではない。居を別にした後も子供の行事を見に行ったり、一緒に出かけたりした。その時はお互いに楽しんでいたと思う。今思えば仲違いをする前に策を講じておいて良かった、そう思っている。



  ー三人目・重尾末良ー


 重尾末良(しげおすえよし)はスーツ姿で覇気の無い顔をしながら駅前を歩いていた。今日はいつもよりも多めに飲んだかもしれない。頭も体もふらふらする。

 既に日付は過ぎて終電も終わってしまっている。末良はタクシーに乗ろうと乗り場へと向かう。すでに並んでいた数人の乗客が次々と一人ずつタクシーへと乗り込んでいく。末良のすぐ前に並んでいたのはカップルらしく、腕を組んだままタクシーの後部座席へと乗り込んでいった。髪を染め派手な衣服に身を包んだ二人を末良は背後から真顔で見送った。

 自分が乗る番が来ると、自動ドアが開けられた黒いタクシーの後部座席にふらりと乗り込み、自宅の近くの場所を目印と共に運転手に伝えた。

 タクシーが発車すれば後は到着まで気楽に過ごせる。シートに背中を預け、目を閉じる。今日は取引先への接待を兼ねた会食だった。普通の会食なら楽しいだろうが、こういう会社の利益やら自分の成績やらを背負っての食事は食後の疲労が半端じゃない。酒を飲んでもいつものように酔えない。それを自分の生き甲斐にしている自分と同じ立場の人間もいるのだろうが、最近の自分はそれがどうもネガティブに感じてならない。

 今年で三十五歳。所帯は無し。地元の両親からは結婚はまだかとか孫はまだかとか、そんなことを言われる。相手がいないんだから仕方ないじゃないか。仕事だってあるし、そもそも人の人生にとやかく言わないでほしい。それに別に自分だって結婚したくないわけではない。めぼしい相手と上手くいけば今にでも結婚している。それを急かされるから余計に結婚に辿り着くやる気を無くさせているんだろう。その内、親が勝ってに見合いの場でも作り出すのだろうか。そうなった時こそ面倒だ。

 ふと、目を開けるとバックミラーに映ったタクシー運転手の顔が飛び込んできた。深夜で疲れていそうなものだが、運転手の顔は比較的明るく、気楽な感じだ。きっとこの仕事への好意が強く、生き甲斐に出来ているのだろう。私生活では好きな人と結婚し、かわいい子供にも恵まれ充実した毎日を送っているのだろうか。

 助手席側のダッシュボードに置かれた運転手の顔写真と名前が書かれたネームプレートに目をやる。顔写真に映る運転手は、口をしっかりと閉じ真っ直ぐとカメラの方を向いている。名前を見ようとした末良は目を細める。

(早……()()()?)

 末良は体を前に反らす。「早」はわかる、その後だ。「瀬」が三つ続いている? そんな訳がない。似たような字が並んでいるのだろう。酒が入っているために、視界から入る情報が曖昧になっているのか、頭の中の処理が間に合っていないのか?

「どうしました?」

 末良の耳に男の声が聞こえてきた。ちょうど赤信号で停車し、運転席と助手席の間の部分に顔を近づけていた末良に運転手が思わず話しかけてきたのだ。

「あっ、すいません。」早々に背中をシートに戻す。

 良いが回って判断力も鈍っていたのか、運転手の名前が気になった末良はいつの間にかネームプレートに目を奪われてしまっていた。

 運転手の名前は、「早瀬頼輔」というらしい。「瀬」と「頼」と「輔」という似たような三文字が並んでいることは昔から自分でも自覚しており、周りからもたまに言われていたという。両親はよくもこんなにコミカルな名前を付けたものだと運転手は思っているらしい。

「すいません。酒が効いているみたいで。」

「この時間だと飲みたくなりますもんね。」

「今日は接待とそれが終わった後に一人で飲みに行ったもので。」

「あ~接待ですか。それは大変でしたね。」

「もう本当に、顔色を伺いながらになるので。」

「わかりますよ。私も同じようなサラリーマンでしたから。」

「そうなんですか?」

「ええ。三年だけですけど。」

 末良は元サラリーマンの運転手になんとなくシンパシーを覚えた。そしてサラリーマン生活をリタイアして今この場で働いている彼にどこか憧れのようなものを感じた。

「何で辞めちゃったんですか?」

「キツさを感じてしまって、それで将来が不安になっちゃったんです。」

「タクシー運転手を選んだのは…

「運転が好きだったんで。」

 運転手は好きなことを仕事にしたようだ。ますます運転手への憧憬が募る。

「もう、すごいですよ運転手さん。すごい人生楽しんでるじゃないすか~。」熱くなってきた末良。

「因みにご家族とかは?」

「子供が二人います。」

「そうですか。子供ってかわいいですか?」

「かわいかったですよ小さい頃なんかは。」

「かわいかった?」

「二人共、もう成人してるんです。」

「人生ハイスピードじゃないですか~!」頭を抑えてシートにふんぞり返る末良。

「別にそこまで早くはないですよ。私、五十ですから。」

「五十歳!?」

 ネームプレートの写真を見てもバックミラーに映る本人の顔を見ても自分よりも数歳上の四十歳過ぎくらいだと思った。

「運転手さんは僕よりも先を行っている。」

「先を行ってるって…」よくわからないが微笑みながら対応する頼輔。

「僕が運転手さんだったら、とっくに転職してとっくに結婚して、子供も産んでるじゃないですか。あぁ、だいぶ先を越されてるな~って。」

 自分が運転手のような人生を辿っていれば、今頃は仕事のストレスに押されていることもなく、親から結婚やら孫やらの圧力をかけられることもなく、好きな仕事を気楽にできている。そう考えると、運転手の人生は末良にとって羨ましくてたまらない。

「先を越されてるとか言わないでくださいよ。」笑いながら運転手が言う。「私は私で生きてきただけですから。」

「僕も勝手に生きようかな。」力が抜けたような末良。

「自分の人生ですから自分で好きなことを良いと思いますよ。まあ、あくまで僕の経験から言えることですけど。」

 タクシーはもう直ぐで目的地に到着する。



  ータクシー運転手・早瀬頼輔ー


 昼過ぎ、二人掛けのソファーに座ってテレビを見ていると、ローテーブルの上に置いてあった携帯電話が振動した。手を伸ばすと、妻の糸香の名前が発信者名として表示されていた。

「もしもし?」

〈もしもし、今日は公休?〉

「ああ、今日は公休だよ。」

〈それなら良かった。どう? 最近は。〉

「別に、変わってないよ。」

 こんなふうに定期的に連絡を取って他愛もない会話をしている。

〈そう? また芸能人乗せたとかは?〉

「あ~それなら一昨日、狛犬刀の西塚さん乗せたよ。」

〈広安じゃない方?〉

「そう。あ、広安も先週乗せたよ。」

〈え!? 二週連続で狛犬刀?〉

 電話越しに糸香が驚いている表情が脳裏に浮かび上がってきた。

「乗せた時はびっくりしたよ。」

〈ふふっ、本当に昔から運が良いわね。〉

「昔から?」

〈今みたいによく芸能人乗せたりとか、転職して上手くいったりとか…別居してむしろ家族と上手くいったりとか。〉

 電話越しなので見えないが糸香が微笑んでいることはなんとなくわかった。

「最後の辞めてくれ。」笑いで体を揺らしながら言う。

〈あ、そうだ、甫香(なみか)のことなんだけど。〉

 甫香は頼輔と糸香の長女だ。今年で二十三歳。二年前にデザイン系の専門学校を卒業し、隣町のデザイン系の企業に就職した。頼輔は車や公共交通機関を使えばすぐに行ける隣町とはいえ、娘が一人で暮らしていく事に心配があったが、何かあったら母親である糸香に相談できているらしく、現在まで上手くやれているようなので安心している。

〈なんか連絡とか来てない?〉

 嬉々とした雰囲気が電話越しから感じ取れた。

「えーと、先々週くらいに連絡したのが最後だけど…」どことなく胸騒ぎを覚える。

〈あ~、まだ言ってないんだ~〉

「今のでなんとなくわかたぞ。」携帯電話を耳に密着させたまま苦笑する。「まあまあ、いずれはこうなるだろうから。」

〈あなただって昔は同じようだったんだから。来れるときに来てね。〉

「ああ、わかった。」

 娘の恋人と会う。どんな気持ちになるんだろう。今のところ負の感情は特にない。頼輔も青春時代に糸香と仲良くなり家に行くようになった頃に現在の義父である糸香の父親に何度か会った。しかし、その時は友人として出入りしていたのでそれほど緊張はしなかったし、付き合い始めた後もある程度はお互いを知れていた。しかし、頼輔と甫香の恋人の場合は、今回が初対面だ。自分の経験が通用しない。会う時までにどんな対応をすべきかしっかり考えておこう。

「そういえば頼次(よりつぐ)の方は最近どうしてるの?」

 頼輔と糸香の長男で甫香の弟である頼次は実家暮らし。稀に頼輔に連絡してくる甫香とは違い、こちらは自分から連絡をしてくることは滅多にない。その為、近況を知れるのは会った時やこのようにして糸香と連絡を取った時くらいである。

〈頼次はそんなに変わってない。今のところは。〉

 頼次は今年で大学二年生。昔の自分と同じように平凡な学生生活を送っているのだろう。

〈彼女が出来たとか、どこに就職したいとかないのかな。〉

「そんなに急がなくてもいいよ。普通に就職しても良いし、何かやりたいことがあればやれば良いよ、本人の人生なんだから。」

〈ふふっ。まあ気ままにやってもらえればね。人生長いから。〉

「そう。俺なんて大学から就職したところ三年で辞めて、運転手になったんだから。」

〈ふふふ、転職したり別居したり。〉

「もう、別居って言うなよ~。」

 電話越しに二人は笑い合った。

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