二両目
貫通扉を潜ると急いで扉を閉める。すると先程まで大声で騒いでいたパレンツの声が、全くと言っていいほど聞こえなくなったのだ。だが油断は禁物だ。パレンツがこの扉を潜って来ないとは限らない。私は急いで近くにあった木の陰に身を隠すが、体感10分経っても気配はおろか、声すらも聞こえない。どうやら別車両までは追って来れないようだ。もうそろそろ大丈夫だろうと思いゆっくりと周囲を見渡す。先程までの室内のような雰囲気とは打って変わり、何処かの森の中のような場所になっていた。列車が揺れている感覚はあるので走行はしているのだろうが、どう考えても屋外のようにしか考えられない。床からは木やら草やらが無造作に生えており人工的な物は一切見当たらない。その上またしても人の気配は感じられなかった。
(好都合だ)
これから何が起こるのかも分からないので体力を回復させる為に休憩をすることにした。丁度良いことに、近くに切り株があったのでそこで休憩をしようと座る。
切り株に座ると一気に疲れが押し寄せてきて、何故こんなことになっているのか、果たして無事に帰ることが出来るのだろうか、という後ろ向きな考えが湧き出してくるが、考え出したらキリがないと思い体力を回復することに集中する。風は無く光が暖かい、その上鳥の声も聞こえて来る。こんな状況下でなければずっと此処に留まりたいと思うほど心地良いが、そうはしていられない。私は切り株から立ち上がり伸びをする。「よしっ」と自分自身に活を入れ、次の車両へと向かう為にと初めの一歩を踏み出した。道は整備されておらず、と言うかなかったが何とか歩みを進める。しばらく歩いていると何処からか女性らしき歌声が聞こえてきた。歌声はとても美しく、まるで妖精が歌っているのかと錯覚してしまうほど、この車両内の雰囲気にとても合っていた。私は歌声に誘われるがままに先へと進んだ。少しして道無き道が急に無くなり、広場のような開けた場所に出る。
そこに彼女は佇んでいた。シャンパンゴールドの軽くウェーブがかかっている背中まで伸びた髪に神話の中に登場するような神秘的な衣装を身に纏っている姿はまるで絵画の中の女神のようであった。
「…美しい」
自然と口から漏れていた。その声が聞こえたからなのか、気配に気づいたのかは分からないが彼女は歌うのを止め、こちらへと近づいて来た。
「あらまぁ、綺麗な方ですこと。どちら様かしら」
彼女はゆっくりと私に近づきながら話しかけてきた。
私は彼女の声や姿に何故だか安心感と同時に懐かしさを覚える。
「えっと、あの。何処かで会ったことありませんか」
質問に質問で返すということがよろしくないことだとは知っていたが、そう聞かずにはいられなかった。彼女は呆気に取られたようにしていたが、直ぐに笑顔を作り私に微笑みかけた。その微笑みで私の心の中はこの人と話したい、知りたいということで満たされた。彼女には私の心を惹く、まるで呪いのような魅力があったのだ。
「す、すみません。急に驚きましたよね、こんなこと聞かれて。え、と名前でしたっけ」
言葉に詰まる。自分の名前が分からない現状、何と応えるのが正解なのだろうか。
「どうかしたの」
急に言葉を止めた私を不思議に思ったのか、少し困った表情で私の顔を見詰めてきた。そんな彼女の顔を見て私は何か返事をしなければと思い、咄嗟に
「と、灯馬…灯馬と言います」
と言ってしまった。彼女は小さく「とうま、とうま、とうま…よし」と私の名を呟き、女神を思わせるような微笑みで
「素敵な名前ね。よろしくお願いね、とうま君」
と言い私に手を差し出してきた。名前には深い意味などなく頭に『走馬灯』が浮かんできたから応えた、ただそれだけであったが、誰かに名前を呼ばれると少し違和感を抱いてしまう。その違和感の正体はよく分からないが、君付けで呼ばれると心の中が掻き回されるような、そんな気持ちになってしまう。
「あの、君付けはやめてもらってもいいですか。何か、その…呼び捨ての方がしっくりくるなぁと」
適当につけた理由だったが、彼女には変に思われなかったようだ。
「とうま、ね。わかったわ」
「ありがとうございます。あの…貴女のお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
彼女は「そうだったわね」と言い、私の瞳をしっかりと見つめて笑顔で応えてくれた。
「私はデモザ・グランって言うのよ。デモザと呼んで頂戴」
「デモザさん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いね、とうま。ところでその、貴方の髪を少し、ほんの少しでいいから見せてくれないかしら。先程から貴方の髪がとても気になってしまって…いいかしら」
デモザは少し上目遣いで私を見つめてくる、その表情は先程までの美しさとはまた違った美しさがあった。私は断る理由が特になかったので二つ返事をする。デモザは「やったわ」と小さく呟き
「ありがとう。さあ、此方へ。立っているのは疲れるでしょう」
と言いながら私の手をとり、近くの切り株へと誘導した。私を切り株へと座らせると、デモザは何処からか取り出した櫛で私の髪を梳かし始めた。デモザの手に触れられていると不思議と眠たくなってきてしまう。ついうとうとしてしまっていると、不意にデモザが私に語りかけてきた。
「ねぇとうま。貴方の髪は本当に綺麗で素敵ね。永遠に触っていたくなってしまうわ」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ。でもデモザの髪も十分素敵よ、女神様みたい」
「ありがとう…実はね、此処にはずっと私一人だけだったから、こうやって誰かに触れられるのがとても嬉しいの。ねぇ、とうま。貴方のことを、外のことを聞かせてくれないかしら。何でもいいの、貴方のことなら何でも…」
デモザは此処にずっと一人で居たらしく、言葉の節々に哀しさを漂わせている。何か言わなければいけないと思ったが、私には孤独であった彼女、デモザを癒せるような面白い話などは生憎持ち合わせていなかった。そんなことを察してかデモザは直ぐに
「いいのごめんなさい、突然困るわよね」
「いいや、全然大丈夫だよ。ごめんね。実は私…記憶が無いから話すことも何も無いんだ」
「そうだったのね。ごめんなさいね、デリケートな問題なのに」
「全然いいんだって。あっそうだ。先あった出来事なんだけど…」
私はデモザに先程遭遇した話をした。私が話をしている間デモザは黙って静かに聞いてくれていた。私が話し終えるとデモザは私の顔を覗き込み、静かに私の瞳を見つめた。静寂が辺りを包み込む。暫くすると優しく私に語りかけた。
「随分と傷付いたのね。でもねとうま、貴方はそのままでいいの。男性が女性らしくして何が悪いのかしら。こんなにも素敵なのに、ねぇ。私なら貴方を認めてあげられる、ありのままの貴方を愛してあげられる。だから貴方は現実なんて見なくていいの、永遠に此処に居ればいい。そうすれば貴方は傷付かない。だからね、とうま。お願い、ずっと此処に居て。私は貴方が傷付くのが許せないの…」
デモザは聖母のような、女神のような存在だと、私は今此処で確信した。デモザなら私の全てを包み込んでくれる、ありのままを愛してくれる。とても嬉しかった。パレンツは私を否定したがデモザは私を肯定してくれた、それだけで救われた気分になった。
「居たい、ずっと此処に居たい」
自然と口から発せられた、まるで魔法のように。
「嬉しい。それでね、とうま。貴方がずっと私と此処に居るためには、外に世界との繋がりを消さなければいけないの、だから貴方の持っている物を…」
デモザは今までで一番の笑顔を私に向けて
「全部…私に頂戴?」
と言った。神話の女神のような美しさに聖母を思わせる愛を備え持ちながらも私へ蠱惑的に甘く囁きかけるその姿はまるで、女神とは対極の悪魔のようであった。デモザは私に有無を言わせず、鞄をゆったりと奪い取る。
「これがなければ貴方は私と永遠に居られる。なんて素敵なことでしょう」
いつの間にかデモザは妖艶な衣装を纏っており雰囲気だけではなくその姿までもが悪魔のようになっていたが、デモザの聖母のような微笑みだけは相も変わらずそこに存在していた。だが先程まで安心感を覚えていたはずのデモザの聖母のような微笑みは今では逆に恐ろしく感じられる。そしてデモザの変化と共に周囲の木々は紅く染まり、床から生えていた雑草は瞬く間に枯れていった。デモザのあまりの変貌ぶりに、私は先程まで感じていた安堵とは対極に位置している恐怖を感じ硬直してしまう。そんな私にデモザは変わらず語りかけ続ける。
「貴方と私なら永遠なんてあってないものよ」
デモザの腕が少しずつだが溶けてゆく。そしてデモザは私の腕に自分の腕を絡め、取り込んでゆく。ずぶずぶと気持ちの悪い音が周囲に響き渡る。
「さぁ。貴方の心を私に見せて」
取り込まれてゆくにつれ自分の心を誰かに覗かれているような、深層を強引に引き出されるような不快な感覚に襲われた。このままではいけないと思い何とかデモザと離れようとするが、離れない。何度も何度も腕を引っ張る。するとネチャッという嫌な音を発してやっとデモザと離れることが出来たがその反動で近くへと倒れ込んでしまう。
「キィヤーーーーーーーーーーーーーーー」
その様子を見たデモザは、この世のものとは思えない奇声を上げる。聞いていると手足が痺れるような、脳を掻き回されるような感覚になってしまい、座ることまでは出来たが足に力が入らず上手く立ち上がれない。
「気持ち悪い」
つい口に出してしまった。その言葉を聞いたデモザは奇声を止め、急に笑い始める。
「キャハハハハハハハハハハハハハハハハ」
その姿表情には女神や聖母を感じさせるものが一切残っておらず、女神のように美しかったデモザはただの怪物へと変貌していた。
「お前も私を裏切るの?こんなに認めて、愛してやったのに。何が足りないの?どうしたら私を受け入れてくれるのかしら、ねぇ××?」
最後の方は叫びとなっておりデモザが何を言ったのかまったく聞き取れなかった。デモザは完全に溶解しきっていない腕を私の居る方向へと伸ばそうとしてくるが伸ばしきらずに、途中で完全に溶解しきってしまいデモザは大きな水溜りへとなってしまった。紅とシャンパンゴールドを混ぜた綺麗な色に濡羽色や涅色を混ぜたよな汚らしい色、その上には私が持っていたネムリグサ色の鞄が浮かんでいた。私はその様子を呆然と眺める。暫くするとやっと状況が飲み込めたのか私は急いで立ち上がる。こんな所には居たくない、その一心でまだ完全に力が戻らない足に鞭を振るう。倒れそうになりながらも懸命に貫通扉へと向かおうとする途中、背後のデモザと言う水溜りから年配の女性の声が聞こえてくる。
「灯馬、貴女はネムリグサのような子だからこれからが少し心配ね。ごめんね、ずっと守ってあげられなくて。代わりと言っちゃなんだけどこのバッグをいつでも私と思っていてね。これがあればいつでも私は、貴女を見守っていられるわ」
その声は聖母のように慈愛に満ち溢れていた。