未来の夫に絶望してたら婚約破棄してもらえました! これで幸せになれます……よね?
婚約破棄ものです。
愚かな王太子が優秀な婚約者に婚約破棄して廃嫡になるというよくある話……
とは少しだけ違います。
短編としてはちょっと長いですが、暇なら読んでもらえると嬉しいです。
ああ、夢を、また同じ夢を見てしまいました。
あの方の背中が遠ざかっていく夢を。
※ ※ ※ ※
「ジェーン! お前との婚約はやめだ! あとは好きにしろ」
エドワード王太子に告げられた瞬間、私は喜びを押し殺すのに必死でした。
粗暴で礼儀知らずで無教養で愚鈍な男と離れられるんですから!
周囲の立派な方々も全く同じ気持ちらしくて、驚くよりも、ようやっとだという安堵の空気が満ちておりました。
4年前。私が16。エドワード様が20の時に私達は婚約しました。
その時既に、エドワード様の評判は最悪でした。
エドワード様は勉学も礼儀作法も全く身につけておりませんでした。
本を読んだり、難しいことを聞くと眠くなってしまうそうで、講師様達の叱責の声すらも子守歌。
皆、匙を投げておりました。
教養の欠片もないことは、御容姿に現れておりました。
赤ら顔で、どんぐり眼、眉は太く鼻は大きくこぶだらけでねじ曲がり、黒い髪は収まりが悪く嵐をかぶっているみたいでした。
歯並びも悪く、そのくせ犬歯が妙に立派で、しかも背が高く凶暴な熊のようにがっしりしていて、絵本の中の山賊みたいです。
そのうえ、大酒飲みで賭け事好き、王都ロンデリーで怪しげな男女とつるんで夜な夜な飲んで騒いでいる始末。
娼館へもいりびたり、汚い銅貨一枚で身を売る気の触れた娼婦や酒場女から普通の町娘まで誰彼構わず手を出し、言うことを聞かねば乱暴するという評判。
孕ませた女は、王都近くの崖から突き落としたり、森に埋めたりして闇から闇へと言う噂も絶えません。
しかも、粗暴な上に、剣をふりまわすことが大好きでした。
近衛騎士達の屯所に現れては、騎士達を叩きのめしておりましたが、別に強いという訳ではないのだそうです。
近衛隊長でもある我が兄スレインの話では、その剣技はひどくいい加減で、勝てばいいというだけのもの。
しかも本人は気づいていないようですが、騎士達が遠慮しているから勝てるだけで、本当は強くもなんともないのだそうです。
本当の強さは近衛で一番腕が立つ兄どころか一番弱い見習い騎士の足元にも及ばないのだそうです。
もっとも本人が思い込んでいるくらいに強かったとしても、この敵も攻め寄せてこない平和な島国では何の意味もないのですが。
こんな最低の男に、なぜエンジバラ大公家の娘である私が婚約者とされたかと言えば、王家から懇願されたからでした。
父は遠回しに断ろうとしたのですが、陛下自らに何度も懇願され泣かれてかき口説かれては、断りようがありません。
それにこれは、我が王国内の政治にとっても必要な事でした。
王家とその分家であるノッキンガム大公家、そして最有力貴族であるエンジバラ大公家。
この3家の絶妙な平衡で、この島国の安定は保たれているのです。
ここ200年ばかりは、2大公家から交互に王妃を出す、というのが不文律になっているのでした。
そういうわけで私は、この最悪な男と婚約する事になったのです。
婚約しても、エドワード様の態度はなにも変わりませんでした。
私は王妃教育を必死に勤め、未来の王妃にふわさしい人間と周囲に言われるようになりましたが、エドワード様の関心が私に向けられることはありませんでした。
ハロルド王陛下とアン王妃殿下は、色々と言ってくださってようですが、何の効果もありません。
こちらからは誕生日の贈り物や手紙は欠かせませんでしたが、向こうからは明らかに代筆した礼状が来るばかり。
たまに同席するような事があっても、最低限以上は話しかけてくださいません。
こんな相手と結婚したら将来は暗黒です。それでも王国のために自分の幸せは諦めるしかなかったのです。
そんな私を慰めてくれたのは、第二王子のライオネル様でした。
エドワード様の3才年下の弟君であるライオネル様は、生まれついての王子様でした。
少し巻きが入った金髪、さわやかな笑顔、颯爽とした美丈夫。
礼儀作法も心得て、人にも気を遣える完璧な貴公子。
それでいて兄のスレインに言わせれば、剣の腕も立つのだそうです。
恐れ多いことではありますが、エドワード様とライオネル様の生まれ順が逆であればと何度思ったことか。
そう思ったのは私だけではないでしょう。
末端の貴族から国王陛下までが等しく思っていることでした。
これほどの悪評で低劣なら王太子を廃嫡するのもたやすそうですが、なかなかそうはいかなかったのです。
遺憾な事に、いかがわしい所に出入りしているのはエドワード様だけではないのです。
女達に手を出すというのも同じです。
あれほどひどくないとはいえ、若い貴族の方々にはそうしたふるまいをしている者は多いのです。
ですから、エドワード様を処断したら、他の貴族の子弟も処断しなければなりません。
王家のお金に手を出して遊んでいてくれれば、それが廃嫡の理由になったでしょうが、エドワード様はそうした事はなさいませんでした。
いかがわしい場所と言っても、卑しい庶民が通うような場所なので、大して金はかからず小遣いで足りる程度。
しかも、賭け事には無類の強さで、かえって金を稼いでいる始末。
そして、こういう悪事に手を染めている人間らしく、人殺しや盗みの証拠などは何一つありません。
恐らくつるんでいる無頼の男女どもが手を貸しているに違いありません。
このまま暗愚なエドワード様が王になってしまうのか……。
貴族達はみな怯え、明けない夜に悪夢を見ているような心持ちであったのです。
今夜、ノッキンガム大公主催の夜会に現れた時も、列席者の方々は悪夢だと思ったことでしょう。
もちろん、私も同じです。
エドワード様は、ドレスコードなどどこ吹く風。
傭兵が着るようなすり切れたマントをなびかせ、流れ者のような服装で汗まみれ。
腰には妙に使い込まれた巨大な剣を無造作に差し。
黒髪はいつもと同じくぐちゃぐちゃで、嵐をかぶっているみたいでした。
しかも酒臭い息まで……最悪です。
あんなでも王太子ですから、会場の一番高い場所に上がられても誰も文句を言えません。
あろうことか殿下は、そこにあった大皿からチキンの丸焼きを手づかみでとると、噛みついて食べ始めたのです。
その慎みのない姿を見て倒れそうになった私を、そっと支えてくれたのは兄とライオネル殿下でした。
同じ空気を吸っていたくありませんでしたから、抜け出して家に帰ろうとしたのですが、なぜかライオネル殿下が。
「あんな兄ですが、挨拶くらいはしておかないと」
と無慈悲なことを仰るのです。
「そうだ。アレが無礼なのは仕方がないが、ジェーンが挨拶をしないのは咎められるかもしれん」
兄までがそんなことを言うのです。
二人とも私の苦しみを知っている筈なのに……。
そうして引き留められてしまっている内に、
「ああ。婚約者殿そこにいたかー。久しぶりだな」
そう言われてしまっては挨拶に伺うしかありません。
ああ、どうして、こんな方の婚約者なのだろうか……ライオネル殿下が王太子であればよかったのに。
私は運命を呪っておりました。
そんな気持ちなど全く知らぬげに、エドワード様は持っていたチキンの骨を放り出して、下品に笑うと。
「いつも変わんねぇなぁ肩がこらねぇのか?」
私は、不快さをぐっと堪えて、
「殿下もお変わりなく」
「ちょうどよかった。婚約者殿には言うことがあってなー」
「なんで御座いましょうか」
早くこの時間が終わって欲しい。
周囲の気の毒そうな視線もいとわしい。
そんな時、あの言葉が聞こえたのです。
「ジェーン! お前との婚約はやめた! あとは好きにしろ!」
なにを言われたのか判らず、なにも言葉が思い浮かびませんでした。
「あ、兄上! な、なにを言い出すのですか!? お戯れがひどすぎます!」
ライオネル殿下の声が妙に遠くで聞こえた気がしました。
「戯れじゃねーよ。もう一度言ってやろうか?」
野蛮人は、さやに入ったままの腰の剣で、どん、と床を突くと高らかに言いました。
「ジェーン! お前との婚約はやめた! あとは好きにしろ!」
ようやく私は理解しました。
婚約破棄。婚約破棄です。しかもエドワード様の方から!
最近、彼の周りをうろちょろしている平民あがりの卑しい娘と婚約したいのでしょう。
喜びに体がふるえるのを押さえきれません。
この粗野で粗暴で無教養で礼儀知らずな男から解放されるなんて! しかも向こうの有責で!
私は必死になって淑女の仮面を取り繕いながら、優雅に一礼して、
「殿下の仰せのままに、婚約破棄をつつしんでお受けします」
と、ドレスの裾をつまんで答えました。
私には判りました。
列席者の方々の雰囲気に、隠しきれない喜びが満ちるのを。
エドワード様を除けば、みな心は一つでした。
これで、最低の王太子がいなくなる! なんと素晴らしい日なんだ! というわけです。
私とエドワード様の縁組みは、王国のための縁組み。
王の命による縁組みなのです。
王太子の一存で、婚約破棄など出来るわけがないのです。
それを、自分の我が儘で破棄しようとした。つまり王命に背いたのです。国への反逆です。
いくら王太子だといえ、許されるわけがありません。
エドワード様はこの一件で、廃嫡、平民落ち、追放は決定事項でしょう。
いえ。それでは済まないかも知れません。
粗暴な王家の人間など、あちこちに種をまきかねませんから、こっそり始末という結末もありですよね。そうなって欲しいです。清々します。
淑女にあるまじき考えですが……恐らく間違いないところ。同情もわきませんでした。
「兄上! 一度口に出した以上はもう訂正できませんよ! 判っているのですか!?」
ライオネル殿下の悲痛な声。
ああ、殿下。こんなどうしようもない兄にも、そんな風に仰る素晴らしいお方。
このお方こそ、王太子にふさわしい。
そう思った瞬間、私の胸は、どきり、としました。
私とエドワードの婚約がなくなれば、私とライオネル殿下が婚約するはず。
王家と我が実家であるエンジバラ大公家との結びつきが必要である以上、それは確定です。
ライオネル殿下と私が夫婦に……頬が熱くなってしまいます。
なんという恥ずかしい思い。婚約破棄をされた直後だというのに。
ですが胸の高鳴りがとまりません。
だってあのお優しくも高潔なライオネル殿下と一緒になれるのですもの。
エドワード様、いえ、もうエドワードでいいでしょう。どうせすぐ王族でなくなるのですから。
列席者の方々も皆、そう思っていらっしゃるはずですしね。
「判ってるってばよ。そうか、そうか、受けたか!
ここにいるヤツらも見たよな! オレがこいつとの婚約破棄を宣言して、こいつが受けたのを!」
野蛮人が満足そうに笑っています。
皆も本当は笑いたかったでしょう。夢見ていた通りになったのですから。
この瞬間、エドワードも含めてみな幸せでした。
でも、判っていないというのは哀れなものです。
この野蛮人は、すぐ、ひとりだけ惨めな境遇に墜ちるのですから。
全てが終われば、私とライオネル殿下は――
「おいライオネルよ。なにをグズグズしてるんだ? さっさとやれよ」
「あ、兄上! このような場所でそのような物言いは」
「いーじゃねーか。どうせオレは王家から追放されるんだからよ」
「「え」」
私とライオネル様は、思わず声が出てしまいました。
「なに驚いてんだよ。とーぜんだろとーぜん」
「な!? 判っていらっしゃったのですか!? なっなら、どうして」
なぜ、自らの破滅が判っていながら、こんな衆人環視の中で暴挙に。
さっきまで世界は非常に簡単でした。
皆に軽蔑される王太子。
野蛮、無学、怠惰、粗暴、酒飲み、色狂い。
自分の破滅を招くことすら判らない哀れな男。
そのはずでした。
続く言葉は更に衝撃的でした。
「ほら、さっさとジェーンに婚約を申し込めよ」
「え?」
「いい機会じゃねーか。お前ぇ、この女が好きなんだろ。
前からチラチラみてたじゃねーか。そして溜息のコンボだ。かーっ美青年のためいきは絵になるよな!
日頃からあんな愚昧な兄の婚約者でジェーンはかわいそうだって周りにふいてたんだしよ!」
ライオネル殿下は真っ青になっていました。
第二王子が王太子を愚昧と誹謗する。それは王家に定められた王太子をそしる行為であり、反逆ととられかねないこと。
しかも王太子の婚約者に横恋慕。
二つ合わされば間違いなく反逆に問われてしまいます。
「な、なにを! 私は兄上をそしるようなことは! 証拠でもあるのですか!」
「そ、そうです! 私とライオネル様の間にはなにも――」
「は? をいをい今更なにを言ってるんだよ? お前がそう言ってることは誰だって知ってるぜ。
オレがみんなからバカだって言われてることもな。
うん。異議なしだ。自分がバカだってことくらいオレだって知ってる」
異様なざわめきが会場にひろがっています。
エドワードの言うとおりです。
みなが、目の前の男を野蛮人だと思っていたし、仲間内で公言している方も多かった。
ですが、それを当人が承知しているとは思ってもいませんでした。
それくらいバカにしていたのです。
「それに長男ってだけで、オレが王太子なんて世の中まちがってるとかもな。
全く同感だ大賛成だ」
王家の継承法に対する異議。
これもまた立派な反逆です。国の秩序への冒涜です。
私は悪夢でも見ている思いでした。
あの高貴なライオネル殿下が愚鈍なエドワード様に追い詰められているなんて。
このままでは、ライオネル殿下が反逆で――
「そのようなことは! わ、私を誣告する気ですか! 証拠もなく――」
野蛮人は、耳を小汚くほじりながら、
「だからよー。みんながそう言ってるんだから問題ねーって言ってるだろ。
ヤル気がまったくないオレより、真面目さんなお前が王位をつぐのが賢いやりかたってもんよ」
その台詞に私は光明を見いだしました。
今、エドワード様も、王家の継承法に異議を唱えたのです。
これは反逆。
「王太子殿下! なにを仰っているんですか!
ライオネル殿下がそんなこと言った証拠も証言もありませんが、今の貴方の発言は皆が聞いています!
貴方こそ反逆者です!
それに、そこまで自らの至らなさを自覚していらしたのなら、行いをあらためて王太子にふさわしくなるように努力するべきだったのです!
そうすれば、貴族も民草も貴方様を軽んじることなどなかった! 自業自得です!」
そうすれば私だって。
ずっと耐える必要もなく、婚約者としてふるまっていられたのです。
ですが野蛮人は肩をすくめて、
「根本的にムリムリ。文字読むと眠くなるオレにどうしろと? できねーものはできねーんだよ。
礼儀作法ってもんはさっぱり覚えられんしな。
自業自得っていうのは、はい、その通りっていうか、
オレはオレで別段評判とかどうでもいいんで。軽く扱われておっけー。
あらためる気とかさらさらねーな。
それになんでそんなカリカリするんだよ?
お前だって、ライオネルと視線があいそうになってはそらしてたじゃねーか。
そして哀しげにためいきとかついてたろー? 美女のためいきは絵になるよな!
思い合ってる真実の愛のふたり! これはくっつくべきだろ! ほら! ほら!」
私は思わずよろめきました。兄が支えてくれなかったら倒れてしまったかもしれません。
この野蛮人、いえエドワード様は判っていたのです。
私が、このひとを全く思っておらず、ライオネル殿下を思っていたことを。
「あ、兄上! 私の事は構いませんが、彼女が浮気をしていたなどとそしるのは許せません!」
「をいをい。そんなことより好いた女が倒れそうになってんだから支えてやれよ。
そんなに浮気だと思われるのがこえーのか?
好いた相手を支えるくらいの気概をもってねぇのか。やれやれだぜ。
そもそも。こっそり思い合ってるのがバレバレってだけで浮気なんて言ってねーっつの。
オレっていうジャマモンがなくなったんだから素直になれってよ。
お似合いだって祝福してるんだからな」
そして、この方が、私に対して、なんの価値も感じていなかったことも。
「ジェーンだって、これでよかったじゃねーか。
今までさんざん影でオレのこと愚痴ってたろ。
オレは酒場にいりびたりなんで、お前も含めたここにいるヤツらの奉公人どもの愚痴や噂はよーく知ってんだぜ」
「! しっ下々の者の話など信じるにあああ値しません! そんなものを真に受けて!」
私の声は悲鳴でした。
全て知られていた。
それでいてさえ、何とも思われていなかった。
「オレを前に心にもねーことしか言わない貴族どものほーが信じるに値しねーだろ。
ま、立場っつーもんがあるからごくろーさんだけどな。
その点、あいつらのほうが正直だぜ、なんせ遠慮がねーからな。
しかも酒場じゃオレが誰かもしらねーからな。言いたい放題。
オレも一緒になって自分の悪口をさえずってたよ。
騎士様が手を抜いてるのも知らずに勝ち誇るバカ王子だってなぁ! かっかっか!」
会場は、シン、と静まりかえっていました。
なぜなら、さっきまで軽蔑の対象でしかなかったこの男は、全てを知っていたのです。
自分に対する悪口の全てを。
中には私やライオネル殿下よりも知られては都合の悪い事を仰っていた方もいたでしょう。
この方を追い落とすための謀略を巡らしていた方もいらしたでしょう。
それでも何とも思っていないのです。
ここにいる人間達、この国で一番尊い人々のことを、この男は無価値だと思っているのです。
「ジェーンなんかよー。
いつもオレを便所に住む虫けらを見てるよーな目で見てたじゃねーか。
ほらいい機会だ、オレの前でショージキに言ってみろよ。すっきりするぜ」
「そっそれは、そんなことはありませんっ」
私は思わず動揺して声が裏返ってしまいました。
この粗暴な男が、貴族教育で分厚く鎧をかけた心情を見抜いてるとは思ってもいなかったのです。
「お前はトウシロの割にうまく隠してたほうさ。
でもな剣でやりあってるとわかるようになるんだなーこれが。相手がなにを考えてるかとかよ。
そうでねーと勝てねーからな。
まぁ、オレは何とも思ってないから心配すんな」
恐るべき野蛮人は、パン、と手を打ち。
「というわけで、さっさとくっついちまえよお似合いども! ほら遠慮するな!
邪魔だったオレはドジして王太子失格、ライオネルが王太子殿下!
無能で勉強もできない礼儀もなってねーダメ人間が王になるのはおかしいだろ」
そして、ニッと笑って周りを見回し。
「お前らだってそう思ってるから仕組んだんだろ?
まぁ、黙って見てただけかもしらんけどな」
会場に、複数の人間が倒れる音が響きました。
卒倒したのです。
私を抱き留めたまま固まっている兄も、がたがたと震えています。
「をいをい、だいじょうぶか?
別にとって喰おうっていうんじゃねーんだから卒倒すんなよ。
あのバカ女は天然ものだって判ってるんだからな。
見て見ぬふりしただけなら、反逆ってことにはなんねーし」
私は悟りました。
ライオネル殿下も兄も今夜ここで起こることを知っていたのです。
だから私を引き留めたのです。
ふたりがどこまで関わっていたのかは判りません。
見て見ぬふりをしていただけかもしれません。
ただ最低でも知ってはいた。
今、卒倒した人たちも知っていたのでしょう。
エドワード様が私に対して婚約破棄を宣言し、その罪により廃嫡されるのを。
「わ、わしは何にも知らん! 知らんぞ!」
わめき声に振り返れば、ノッキンガム大公が青ざめた顔で立っていました。
「わ、わしはただっ、場所を貸しただけだっ!
あのバカ女に招待状を出してやったのも、アレの父に懇願されたからだっ!
エドワード王太子殿下を廃嫡する陰謀など知らん! 知らん!
殿下、本当です! こいつらが勝手にやったのです!」
ああ。知っていらしたのですね。
だからパーティを主催した。
「だからかー。
あの空気女がこのパーティに出たいってしつこく言ってたのは、
なるほどなー」
実際は、誰が主導して計画をしたというのではなかったのかもしれません。
庶民上がりで貴族の養女になった女が現れ、向こう見ずにも王太子に近づいた。
その実家も同じく愚昧で、養女が王太子の側女、ひょっとして正室になれば幸運。
その程度の事だったのかもしれません。
私も含めて、周りじゅうはそれを見て見ぬふりした。
そしてノッキンガム大公が女にしてやったように、お膳立てを整えてやった。
女も、女を養女にした貴族も軽輩もの。
彼らが巻き添えになって処刑されたとて、おおかたの貴族には痛くもかゆくもない。
彼女らが犠牲になっても、エドワード様を追い払えればおつりがくる。
ですが、もし、ここでエドワード様が自分を廃嫡する陰謀をたくらんだと我々を告発したら。
この会場にいる人間は全て何らかの罪を免れないでしょう。
事実だけをつなげれば、
軽い考えなしの女を王太子に近づけて、婚約破棄をそそのかし、婚約破棄事件を起こし、エドワード様を失脚させる。
そういう陰謀があったように見えてしまう。
だから皆様は恐怖しているのです。
だけど、私には判ってしまっていたのです。
エドワード様は、私達が何をしようとどうなろうと知ったことではないのです。
なんとも思っていないのですから。
「ナニ青ざめてんだよ。
オレは王になりたくねーし、お前らはオレに王になってほしくねー。
利害が一致。みんなしあわせだぜ。
パーティの余興みたいなもんだろ。笑え笑え」
その時、私は気づきました。
この婚約破棄事件のきっかけになった筈の女性がどこにもおりません。
「あ、あの兄上、兄上のその……お相手の女性は」
ライオネル殿下もお気づきになったのですね。
「あの軽いバカ女のことか?
男の尻をおっかけて色目使う以外役立たずを、オレが気に入るはずねーだろ。
ま、ひとつ役には立ったな。
あれが周りをちょろちょろしはじめたのに、まわりがなーんも言ってこないんで、
こいつ使ってオレを追い出すつもりだってなって。あっ、察し ってワケさ」
「あの女のせいではないというならなんで! どうしてこんなことを!」
まるで子犬と獅子ですね、と私は思ってしまいました。
キャンキャンと怯えて騒ぐライオネル殿下と、堂々とそびえ立つエドワード様を。
「そりゃ、皆はオレを嫌いだし、オレだってここにいてもすることがねーからだ。
黙って出て行くのも手だったがよ、
弟と婚約者殿がくっつくのを確かめて出てったほうが後腐れねーからな」
「いつもあの女を隣に置いてたではありませんか!」
「あいつが勝手に隣にいてピーピー言ってただけだぜ。
簡単だったぜ。あいつが『わたしのこと好きですか』って聞いてきたら、『ああ、好きだ』ってオウム返しにしてるだけでいいんだから。頭を使う必要もねぇ。
化粧くさいけばい女で閉口したけどな」
「なぜ、あの女は、ここにいないのですか!」
「この屋敷の便所に縛って放り出してある。さっさと助けてやんな」
「なっ」
「さっすがになー。いくらアレが考えなしの阿呆でも、巻き添えにして死刑とかねざめわりーしよ」
私はありえないはずの感覚に囚われていました。
エドワード様が野蛮で粗野はなく、豪放磊落で魅力的に見えてしまうのです。
そしてライオネル様の礼儀正しく爽やかなのが、凡庸で頼りなく見えてしまうのです。
さっきまでライオネル殿下が好きだと思っていました。
粗暴なエドワード様と比較にならないくらいに。そのはずでした。
ですが、私は人の価値に関して、何か大きな間違いを犯していたのではないか――
「なぁっ親父もそう思うだろ?」
その声と共に正面の扉が開かれると、慌てて飛び出してきた侍従達に導かれ、陛下と王妃殿下が現れました。
心なしか青ざめた顔をしております。
エドワード様への断罪劇の最後に重々しく登場して終幕を引く役をするつもりだったのでしょう。
ですが、実際に繰り広げられていたのは、エドワード様がライオネル殿下をはじめとする尊い人々を圧倒する舞台。
予想外の事態に、いつ入れば良いか判らなかったのでしょう。
「え、エドワードぉ! おっお前はなんと愚かなのだ!」
「わっ我が息子ながら、かばいようが、あっありませんわっっ」
お二方の台詞とも、今の事態に全く合っておりません。
事前に決めた通りなのでしょう。
「あっは。言われなくても判ってるさ! オレはバカで暗愚な王太子!
だからバカなことをしでかした! よかったな!」
エドワード様に圧倒された陛下は、
「な、なにを言うのだ!? お前はまだ判らんのか!? お前は王太子どころか王子でもなくなり平民いや罪人に落とされるのだぞ!」
悲鳴のような声で仰いますが、この舞台で誰が主役かは明白でした。
「よーく判ってるさ。そうすればオレの名は王家から消されて、ライオネルが長男だ。
親父もお袋も、ライオネルが長男なら良かったって始終言ってたじゃないか!」
陛下さえも、愚鈍で粗暴と呼ばれていたエドワード様の引き立て役に過ぎません。
「し、知っていたのか!?」
「あったりめーだろ。あんなにそこらじゅうでこぼしてて知らないと思うのがわかんねーな。
王都の平民どもだってみんな知ってることだぜ」
「ちがうのです! 本心ではなかったのです!
それがお前の耳に入れば、少しは心を入れ替えてくれるだろうと」
「慌ててとりつくろわなくてもいーんだぜ。
全て予定通りなんだろ。
そもそも、大公主催とはいえ臣下の夜会に王と王妃がそろっておでましになるなんてよ。
しかもそこで、バカ王子が婚約破棄騒ぎを起こすなんてさ。できすぎってやつだ」
「そ、それは」
陛下は絶句してしまいました。
「おおかた、オレをビシッと叱って、バスっと廃嫡にして、王っぽいとこをみせたかったんだろー。
ま、いいじゃないか、細かいところは違ったが。オレは廃嫡。
んでライオネルが王太子になる。
王家とエンジバラ大公家との婚姻は必要だからってことで、
ジェーンとライオネルが婚約。大団円だ! がっはっは」
ライオネル殿下のすがるような声が響きます。
「で、ですが兄上は、なにもしていないではありませんか!?
それでどうしてそんな処分を受け入れるのですか!
王太子でなくなるどころか、王家の人間でさえなくなるのですよ!」
ああ、そうか。
ライオネル殿下は怖いのでしょう。
王家での地位をなんのためらいもなく捨てられるエドワード様が。
「ならよー。オレが親父を侮辱したからってことにすりゃいいだろ。
当たるとは言え遠からずだ。
そうだ! もうひとつあるぞ。
どっかの国からの献上品を持ち出して人にやっちまった。
うん。オレって悪人だぜ!」
「どうしてそんなに楽しそうなのですか!」
「それからジェーンの家に払う違約金だけどよ、
ここまでそっちの思惑にのって協力してやったんだから、チャラってことでいいよな」
エドワード様は、ニィっとお笑いになりました。
そのなにもかも吹き飛ばすような笑顔に、ドキッとしてしまいます。
「んじゃ、オレはここでおさらばさせてもらうわ。
アソコをちょんぎられたり、闇討ちされたりはしたくねーんでな」
エドワード様は、王者のような堂々と歩き出します。
誰も止めようとしません。
私達の横を通り過ぎていってしまいます。
呆然としているライオネル殿下も、私を支えている兄も、もちろん私のことも一瞥すらしません。
エドワード様にとって私達は、何の関心もない路傍の石でしかないのです。
どうしてでしょうか。
どうしようもない衝動にかられて私は叫んでいました。
「あの人をいかせてはだめ!」
魔法が解けたように、陛下が叫びました。
「あの無礼者をとりおさえろ!」
その声に、陛下の護衛達が動いてエドワード様の前に立ち塞がります。
「え、エドワード殿下、縛について下さい。抵抗するなら――」
「やめときな」
その声は、周囲の温度を一気に下げたようでした。
「もうオレは王子でも殿下でもねぇ。
単なる無法モンだ。道を塞ぐなら容赦しねーぞ」
「ひぃっっ」
護衛達は、武器を取り落とし、尻餅をついてしまいます。
子犬達が何匹いようと獅子に敵うわけがありません。
エドワード様は、つまらなそうに、
「剣も抜いてねー相手にぶるっちまうって、それでも衛兵か?
ま、この国じゃそれでいーんだろうがな」
ああ、行ってしまう。
あの人が行ってしまう。
「兄様! ライオネル殿下! このまま行かせていいのですか!?
王家の法と権威と伝統が踏みにじられているのですよ!」
私は卑劣な女です。
わけのわからない感情で、あの人を引き留めたかっただけ。
それで兄上とライオネル殿下が逆らえない口実を持ち出したのです。
形式と慣習と伝統に雁字搦めされた彼ら。
建前を守る事だけが大切な彼らには、私の言葉に抗う術はありませんでした。
兄上が叫びながら剣を抜き放ちました。
「エドワードぉぉぉぉぉ!」
エドワード様は振り向きました。少しだけ楽しそうでした。
「どうしたスレイン? 踏み潰されたカエルみてーな声をあげて」
ライオネル殿下も剣を抜きました。
「兄上ぇ! 王家の法を踏みにじって! それで何の咎も受けずに立ち去ろうなんて!
許されると思ってるのですか!」
「別に許して貰わなくてもいーぜ。オレはオレだ。
止めるなら殺してみろよオレを」
エドワード様は、両手を広げました。剣を抜く必要もない、という態度です。
王国1位と2位の剣豪相手にです。
「ば、バカにしおってぇぇぇぇぇぇ!」
兄が素晴らしい速度で剣を打ち込みました。
ライオネル様が、兄上っ、とちいさくつぶやいたのも聞こえました。
ですが、手品のようにヒョイと躱されてしまいます。
「オレ相手にはいつも手ぇ抜いてたんだってな。
そのくせが出ちまったか。
本気ならオレに勝てるんだろ。いつも我慢してるんだろ。
相手が王太子でなけりゃ、身の程を教えてさしあげたいって、酒場でくだまいてよ。
何度か見かけたぜ。宮仕えはつれーなー。
だが今のオレは咎人だぜ。斬り捨てたっていいんだ。
思いっきりやれよ」
エドワード様は本気で仰ってる。
そんな力が兄にあるなら味わってみたいと。
なんて残酷なんでしょう。
きっと、さっきのは兄の全力。
ライオネル殿下だってそう思ったから、エドワード様が切られると確信したのでしょうに。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
兄は悲鳴のような声をあげて、エドワード様に斬りかかりました。
さっきよりも速い。恐らく実力以上の速さ。
それでも遅すぎました。
なにが起こったかも判らぬうちに、
兄の体は宙を舞い、何個ものテーブルの料理を薙ぎ倒して飛んでいき、壁に激突しました。
そのままずるずると滑り落ち、丁度そこにあった椅子にはまって動かなくなりました。
「なんだ、結局、手加減しやがったのか。騎士の鑑だねー。
肋の二三本やっちまったかもな。でも、死んじゃあいねーよ。
オレも手加減したからよ。
さっさと治療してやんな」
余りにも実力が違いすぎました。
獅子と子ウサギ。
おそらく、突っ込んでいった兄様の腹に拳を軽く当てたのでしょう。
エドワード様は本当にお強かったのです。
近衛騎士達のほうが負け惜しみを言っていたのです。
ライオネル様が、がたがたと震えながら剣を落とし、膝をつくのが見えました。
「もういねえのか?」
誰もなにも言いませんでした。
「じゃあ、いかせてもらうぜ。あばよ」
エドワード様は、陛下と王妃殿下の脇を通り抜けて、正面の扉から出て行きました。
振り返りもしませんでした。
大きくたくましい背中が遠ざかっていきます。
誰も止められない。止めることなどできるはずがない。
私達の国は、獅子を満足させるには狭すぎる。
捨てられた。
私達は捨てられたのだ。
※ ※ ※ ※
出奔後エドワード様がどうなったのかは誰も知りません。
王家は手をこまねいていた訳ではありません。
翌日、役所が開く時間になると、ハロルド陛下は『王の犬』の長官に命じて、エドワード様の捜査と逮捕をお命じになりました。
日頃、その能力への疑問から『王家のかわいいペット』と言われていた彼らですが、精一杯働いてくれたと思います。
判明したのは以下の事実でした。
遙か西の国からもたらされた献上品が 王家の宝物庫から紛失していたこと。
それは王族にのみ着用が許されているという異国の豪華な服だったということ。
王都の無頼の男女数十人ばかりが姿を消したこと。
彼らは全て係累がない者たちで、賃料や借金などは全て清算をすませていたということ。
港に泊まっていた外洋輸送船が一隻、夜明けと共に出航していったこと。
その所有者については、誰も知らなかったということ。
汚い銅貨一枚で身を売る気の触れた娼婦がひとりいなくなったこと。
気が触れていると言われていたのは、
遠い遠い異国から売られてきた彼女は、自分は滅びた国の王女だと言っていたからだとか。
エドワード様とつきあいのあった庶民達は、その正体を知らなかったこと。
無頼ではあるが、弱きを助け強きをくじく頼りになる男だと慕われていたこと。
女を無理矢理乱暴するというのは、エドワード様を陥れようとしていた貴族達や、負けた騎士達が流した事実無根の噂だったということ。
それ以上の事実は浮かび上がって来ませんでした。
王家は捜査を打ち切り、エドワード様は病死したと処理されました。
葬儀は王族とは思えぬ簡素なもので、評判の悪い王太子の死を哀しむものは誰もおりませんでした。
ただ、無頼だが気のいい男がいなくなったことを、いぶかしみ哀しむ庶民は多かったようでした。
ですが彼らはこうも言っていたそうです。
『あの人は、でっかいことをやりに旅だったにちがいない』と。
私は思うのです。
ひょっとしてひょっとしたら、
エドワード様は、滅びた国の王女に国を取り返してやるために、仲間と共に国を出たのではないか、と。
それが本当なら馬鹿げています。気の触れた卑しい娼婦の戯言など真に受けるなんて。
でも、エドワード様は仰ってました。
『剣でやりあってるとわかるようになるんだなーこれが。相手がなにを考えてるかとかよ』
もしかしたら娼婦の言葉の中に真実を見たのかもしれません。
まさか。ありえません。
何かの物語でもあるまいし。
でも、もし万が一それが真実であったのなら、
エドワード様は自分がするべき事を見つけた、ということなのでしょう。
遙か西の地を目指す船。
高々と翻っているのはエドワード様とお仲間達の旗。
そして彼のかたわらには、豪華な異国の服を着たうつくしい女。
すべて私の妄想です。
ありえない戯れ言です。
確かなのは、王都から姿を消したということだけです。
あの日、列席していた貴族達は、皆くちをつぐみました。
死んだに違いない、とすら誰も言いませんでした。
私だけでなく、あのとき皆が感じたのでしょう。
自分たちは捨てられたのだと。
それを忘れるため、いえ、そのことから目をそむけるために、誰も言わなかったのでしょう。
エドワード様がいなくなっても、国はなにも変わりませんでした。
私は、ライオネル様と婚約しましたが、以前のような胸の高ぶりはありませんでした。
婚約者同士として礼儀正しく、節度を保ち、おつきあいを続け、2年後に結婚しました。
その頃には、エドワード様を思い出すことも少なくなっておりました。
ゆっくりと流れる日常は、全てを押し流し、過去へ変えていくのです。
それとも……思い出すのが怖かったのかもしれません。
結婚生活は、ふしぎと幸せでした。
私とライオネル殿下は、なにか大きなものを失って心の空洞を抱えた似たもの同士でした。
言葉にはしないものの、お互いよくわかっておりました。
それは悪く言えば傷のなめあい。よく言えばいたわり合いに満ちた生活でした。
もし何事も起こらなければ、エドワード様のことを思い出に出来たかもしれません。
たまに「今頃はどうしているだろうね」なんて話すことさえできるようになったかもしれません。
彼らがやって来なければ。
私達が結婚して1年も経たないうちに、彼らはやってきたのです。
大陸の方で、北天帝国の急激な拡大によって追われた民族が、新天地を求めて我が国がある島へ押しよせて来たのです。
たった14艘の船から上陸してきた1000に満たない敵軍を、1万の我が軍が迎え撃ちました。
みすぼらしい流民の群にしか見えぬ敵軍。
それに対して我が軍の見事さ。
美しい紋章が描かれた旗を無数に靡かせ、
磨き上げた華々しい鎧に身を固め、見事な白馬にまたがった我が軍。
先陣を務めるは、兄上が率いる栄光と伝統に彩られた近衛騎士団。
朝日に輝き誇らしく翻るエンジバラ大公家の旗印。
装備の質、兵数、我が軍の勝利は間違いないと思われました。
私達貴族の婦女も、戦場を見渡せる丘の上で、ピクニック気分で観戦しておりました。
私達は気づきませんでした。敵は皆、必死の目をしていることを。
戦が始まると、敵はただひたすらハロルド陛下を目指して突進して来ました。
礼法としきたり通りの美しい剣の技を披露する我が騎士達に対して、敵は野蛮でした。
名乗りもあげず、馬を狙い、網を投げ、武器を失えば石で殴り、噛みつき、むしゃぶりつき、組み討ち、見苦しくも必死な戦いぶり。
死に物狂いの勢いに味方は押され、エンジバラ大公家の旗は傾き逃げだし見えなくなり、ついには突破され、
敵の濁流が本陣を呑み込み、王旗は引き倒されました。
そして血まみれの槍の穂先にハロルド陛下の首がかかげられたのです。
相手は死に物狂いの戦争をしていましたが、我々は決まったルールでお遊戯をする子供でしかなかったのです。
敵は強風に煽られた野火のように広がり、翌日、王都ロンデリーは火の海となりました。
地歩を確保した敵は、次々と上陸してきて、この島国を飲み込んでいきました。
数ヶ月のうちに、王家もエンジバラ大公家もノッキンガム大公家も他の貴族達も全て滅ぼされました。
凄まじい略奪の中で、惨めな逃亡生活の中で、貴族だった誰もが思ったことでしょう。
エドワード様がいてくれればと。
陛下やライオネル殿下や兄が無能だったとは思いません。
この国を何一つ変えることなく守るのには、必要十分な才能だったでしょう。
エドワード様を追放しようとしたことも間違いだったとは言い切れません。
もしあのまま国が続いていれば、周囲と軋轢を生むだけの存在だったでしょうから。
それでも考えずにはいられません。
エドワード様がいてくれていたらと。
私達王太子夫妻は執拗な追撃を受けました。
西へ西へ、そして西南の密林へと追い詰められました。
ライオネル殿下は獣用の罠で捕らえられ田舎町の広場で処刑され、兄は降伏し敵の手先に成り下がりました。
今や私の周りには誰もおりません。
何日も洗っていない饐えた匂いのする裸も同然の姿で、ひたすら逃げ回る日々。
昼は洞窟にひそみ、滴る水で喉を潤し。
夜はネズミのように這いずり、口に入れられるモノはなんでも食べます。
今が何月何日かすら判りません。
密林と海の境。
目の前に海へ落ちる崖がある洞窟が、私の最後の地となりそうです。
体は衰弱し、だんだん起き上がれなくなり、近頃はいつも夢ばかりを見ています。
エドワード様が去って行くあの日の光景ばかりを見ます。
ああ、兄の声が聞こえてきます。
敵の捜索隊の先頭に立っているのです。
出てくれば命はとらないと。
裏切り者の言葉など信じられるでしょうか。
辱めを受けないためには、洞窟の前の崖から海へ身を投げるしかないようです。
もしエドワード様が亡くなっていれば、死者の国で会えるかも知れません。
声が近づいてくる。近づいてくる。
私は痩せ衰えた体から最後の力を振り絞り這いずって、崖際にたどりつき、大きく身を乗り出します。
体が浮きました。
落ちていきます。
さざなみが打ち寄せる海の下には、
鋭く尖った岩がこちらに向かって突き出しているのが見えます。
あれが全てを終わらしてくれるでしょう。
なにもかも失ってようやくわかりました。
わたしは、エドワード様が去って行く時の後ろ姿を見たとき、恋におちていたのです。
きっとあれが本当の初恋でした。
「会いたい」
誤字脱字、稚拙な文章ではございますがお読み頂ければ幸いでございます。
評価を、ぽちっ、と入れてもらえるとうれしいです。
あと、もしお暇なら他の投稿した小説も読んでもらえるともっとうれしいです。