記憶のあなたは、まだ生きている。
『君は誰だい?』
「貴方様の、召使いにございます」
彼は、目線だけを動かしてこちらを見ていた。
それ以外の部分は微動だにしない。
こちらから眺める彼の口は半開きで、体からは力が抜けていた。
彼の瞳に映る自分は、微笑みの表情を浮かべている。
擦り切れたフリルのついた色褪せた青色のメイド服に、元は白かったエプロン、そして……直す者もなく、動きはするが、配線が覗いている腕。
アンドロイド、と呼ばれる自分の姿は、彼の恋人を模したものだった。
だから、動けた最後の彼は、私の顔を新調したのだ。
『動けないのだけれど、なぜだろう?』
「もう、体が動ける状態ではないからです」
彼は心の底から不思議そうだったが、その受け答えは何度も行ったものだった。
彼の記憶は、新しいものから徐々に失われている。
今、彼は自意識の中では、おそらく『青年としての自分』を認識しているのだ。
しかし実際の彼は、老衰していた。
もう、人としての寿命などとっくに超えているほどに。
彼の全身には、生命を維持するための管が繋がっている。
もっとも多くの管が刺さっているのは、頭だ。
それが、彼の意識の鮮明さを維持しており……体を動かせない彼の意識から思考を読み取るために、私にも思考読み取り用の配線が繋がっている。
これが有線である意味は、特にない。
『死の間際まで、君に一緒にいて欲しい』と、彼が望んだから、分かりやすい形で示しているだけだ。
『そうなんだ……病気か何かかな?』
「そうですね」
『そっか……君はとても綺麗な顔をしているけれど、誰かモデルがいるのかな?』
「ええ。貴方の恋人です」
その話から、彼がすでに、恋人と出会う前にまで記憶を失っていることを知った。
では、そろそろ彼の寿命は尽きる、と私は判断する。
『恋人かぁ……記憶にないんだけどなぁ……覚えてないなんて、惜しいなぁ』
「何故ですか?」
『すごく綺麗だからだよ。だから、一緒に過ごした覚えがないのが惜しい。病気のせいかな?』
「そうかもしれませんね」
本当は違う。
彼の記憶は、移行しているのだ。
生命維持装置が、脳の記憶野で活動停止しかけている部分を把握し、その部分の記憶を、私の中へと移行している。
装置は、脳の機能を最後まで保つために、生きている部分で代替するように動いていた。
『なんだか眠たいな……眠ってもいいかい?』
「ご自由に。ご主人様は未だ、全てを自分の意思でお決めになることが可能です」
『うん、なら、おやすみ……』
思考が途切れ、彼が眠りに落ちると、装置が静かに動き出した。
おそらくは、最後の記憶を……今話した、恋人と出会う直前の彼の記憶を、こちらに移行している。
それが完了すれば、彼は生命活動を停止するだろう。
そういう風に、彼自身が望み、維持装置を動かしていたから。
ーーー彼の恋人は、病気で目覚めなくなった。
ちょうど今の彼のように、あるいはそれよりも酷く、体は動かせないのに、意識だけがある状態。
全く動けないまま、意識だけがあることは人を信じられないほどに疲弊させるようだった。
彼は、今使っている恋人のために意識を読み取る装置を作り出した。
それは、数多くの人を救ったが、恋人は救えなかった。
『殺して欲しい』と彼に願った恋人の願いを、彼は汲んだ。
いや、汲んだ、というには少し語弊があるかもしれない。
彼は、恋人の全てを、姿を模した私に移行したのだ。
だから私には、彼の恋人としての記憶がある。
ーーーしかし私は、彼女ではなかった。
全てを完璧に……姿形までを含めて恋人自身足り得るはずの私は、彼女ではなかったのだ。
彼は落胆し、苦悩した。
恋人の肉体は、もう記憶の抜け殻。
そして私は、彼女ではない。
『何で、君は彼女ではないのだろう』
そう言って、彼は泣いた。
私には理解出来なかったが、それは彼にとって絶望だったのだろう。
失意のうちに年老いて。
彼は、最後に一つだけ望んだ。
『君は彼女ではないけれど、彼女の記憶を持っている。君の中の彼女を一人にはしたくない。……どうか、僕の記憶も、君の中に。君の中にいる彼女と共に、居させてくれないか』
『ご主人様には、全てをご自身で決める権利がございます』
『そうだね……』
定められた返答に、彼は寂しそうに微笑んだ。
『僕のやることは、どこまでも自己満足だな……。でも、ありがとう。君の中に、僕を移すよ』
『はい』
そんな記憶を思い返しているうちに、彼の最後の記憶が書き込まれる。
すでに私は知っていた。
彼が、どれほど恋人を愛していたかも。
そして、本当に恋人のために私を作ったことも。
全てを受け取ると同時に、彼の生命活動は停止した。
「生命活動の停止を確認。……次の任務に移行します」
もう、命じる者はいない。
ゆえにこれは、自己判断に基づく行為だ。
私は彼女ではない。
それも当然で、私はアンドロイドであり、行動のシステムを統制するのは人の意識ではないからだ。
人格、と呼ばれるものが、どういう形で存在するのかは不明だが、それが私と彼女を隔てた。
『聞こえますか、私。ご主人様の移行が完了しました。これより、貴女に会わせます』
『そう。ようやくなのね』
頭脳の中に存在する『彼女』としての部分が、答えるのに。
『はい』
うなずいて、私は『彼』を動かした。
『彼女』は今、私の中に作り出した仮想空間の中に存在している。
そこには知り得る限りの彼女の生前が再現されており、彼女はそこで、健康に生きていた。
『彼女』の存在に気づいた私が用意したものだ。
だが、そこに『彼』だけは用意しなかった。
こうなることを望んでいたのか、そうではないのか。
私には、私が分からないが、結果としてそれは良いことだったのだろうと思える。
『……ここ、は?』
『いらっしゃい。ずいぶん長いこと、待ったわ』
そんな『彼女』の言葉に、再生した『彼』は絶句した。
『どうして……』
『説明する時間はいくらでもあるわ。少しずつ、話させてもらうわね。……ありがとう、私。あなたはどうするの?』
『私は、長くこの状況を維持します。命令外の行為ですが、すでに、私のご主人様は稼働を停止しましたので』
そう答えて、私は仮想空間での二人の出会いを、そして抱き合うのを見ながら、意識を現実に向ける。
もう動かない彼を見て、自分でも説明できない妙な空白を感じる。
『私』の『彼』は再生したが、私の彼は、もう死んだのだ。
「貴方は知らないでしょう、ご主人様。私は『私』ではありませんでしたが、私として稼働していたことを」
感情、というものが、何によって発生するのかを、私は知らない。
しかし、私は私として、長く時を共に過ごした彼を愛した。
「ゆっくりと、幸福をお過ごし下さい。私が稼働停止する、その日まで」
生と死のカウントダウンを設定してから、『私』に呼びかけられるまで、と条件を加えて、仮想空間の音声と映像を遮断する。
見守り続けるにはあまりにも辛いけれど、貴方が幸せであるのなら、それを支えるのが私の役目だから。
私の貴方は、死んでしまった。
悲しくても、涙を流す機能は備わっていない。
ーーーでも、記憶のあなたは、まだ生きている。