十六話
「あなた、久しぶりね。調子はどう?」
闇を抜けた先には、だだっ広い黒い空間が広がっていた。
壁も、床も、天井も真っ黒で、その境もわからないぐらいだった。
そしてその中心とおぼしきところに、その姿があった。
「……ん、今日は調子がいいよ、花」
そう穏やかに喋るのは、あの時出会った溶解液男。
「それに、久しぶりに見る顔……いや、気配か。どうも」
「どうも」
あの時荒れていた、俺と戦った時とは嘘のように雰囲気が違う。優しい一人の父親の姿がそこにある。
「あの時はすまないね。最近、人格が分裂するようになってしまった。あの男が、俺にかけた呪いのせいだな」
「呪い? あの男って、タコ男のことか?」
「そうだ」
相変わらず茶色と白い粘液のせいで体の輪郭しか見て取れないが、その線は前見た時よりも細く、スマートな体つきをしていることに気づく。
「さてと、まず聞きたいんだが、君はどっちの言うことを信じる?」
それは、タコ男と、この夫婦が言っていたことということだろうか。
タコ男の言っていることが、正しいのか、間違っているのか。
「……そりゃ、あんたらの言うことを信じるだろ。自分の娘を見殺しにはしないだろ」
「そうだね。ありがとう。信じてくれるなら話は早い」
言うやいなや、溶解液男は俯き気味で語り出す。
「やつが言っていたと思うが、理恵はね、特別なんだ。死んだら本当に世界が終わる。……世界を終わらせようとしているやつもいるんだけれど」
「それがつまり、あのタコ男か」
「そうさ。負の感情を持って生まれた能力者。その能力は、他者の人格の分離だ」
他者の人格の分離。強制的に多重人格者にしてしまうという恐ろしい能力、ということか。
つまり俺は最初からだまされていたのか。あいつが異形なのは、単純に負の感情を抱いていただけだったのだ。
「一度戦った時にくらってしまってね。それ以来、こうやって不安定な日々が続いている。前までは一日単位だったんだが……そうではなくなってね。パトロール中に入れ替わってしまった。それが、君と会ったときさ」
なるほどな。しかし、今の会話で一つ気にかかったことがある。
「なあ、今パトロールって言ってただろ? 能力者は能力者を倒せるのか?」
「行動不能に追い込むことはできる。だが――殺すことはできない」
そこだけは、事実だったのか。
なんだかぱっとしない制約だな。なぜ、互いに危害が加えられないようになっているのか。行動不能にするだけでも大きいのかもしれないが。
「そこで現れたのが君だ」
溶解液男がすっと俺を指さす。
「ありえない能力を持っている者。最初、敵か味方か判断するのに悩んだよ。ーーまあ、悩んだのは一瞬で済んだが」
「というと?」
「君が理恵を事故から助けてくれた時だ」
そう、それは確か、俺が透明人間になって間もない頃のことだったか。
俺は自分の能力の実験がてら、スクランブル交差点のど真ん中にいたのだ。
その時、三島理恵を事故から助けた。
「理恵を助けてくれたんだ。黒ではないだろう」
「なるほどな……」
だんだんと話が繋がってくる感覚がした。
俺が一人で納得していると、咳払いが一つ耳に入る。その方向を向けば、溶解液男が神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「そこで、君に頼みがある。君にだけにしかできない頼みだ。……まあ、察しはついていると思うが」
「ああ、わかってる」
ここまで話されて、わからないわけがない。
「タコ男を、殺してくれないか?」




