7.疲れた
本日二話目です。
視点移動があります。
「これ、受理してください」
「ちょ、ちょっと待って。いきなり辞められちゃ困るよ。どうしたのさ?」
「一身上の都合です」
デスクに叩き付けられた退職願とアタシの顔を何度も見比べながら、慌てた様子で言う社長。理由はもちろん一身上の都合、それ以上は説明する義務はないと思うけど、社長がしつこく食い下がってくる。
「一身上の都合って何だよ! 彼氏にも言えないことなのかよ!」
「……いい加減にして欲しいんだけど」
彼氏らしいことは何もしないで浮気三昧、こっちが別れを切り出そうとすれば泣いて謝るからまたやり直せば同じことの繰り返し、今じゃまともに社長としての仕事をしてるかどうかも怪しいところ。長々と付き合うつもりはないので早々に切り札を切ろう。
「兄が危篤なんです。危篤が重病で大問題なんです」
「う……」
さすがにこれは黙るだろ。でも間違いは言ってない。お兄ちゃんは過去重病で危篤状態になったことがある。今危篤かどうかなんて言ってないし。それに大問題が発生してることはゆるぎない事実、あの神の如き可愛い生き物を今すぐ愛でなければならないという大問題が発生中で、あれを見てしまったからには愛でなければアタシが死ぬ。確実に死ぬ。今このチャンスを逃したら自分が自分を許せなくて自分を殺す。自分絶対殺すマンに変貌する自信ある。
「なのでこれから実家に帰るので有給とります。連絡はメールくれたら後で返信します。それじゃ!」
シュタ!と音がしそうなくらいの勢いで片手をあげると、デスクの片づけもそのままで帰る。後輩も育ってきてるからアタシがいなくても大丈夫でしょ。そんなことよりまずは当面の問題を解決するべく動こうか。帰宅と同時に一週間分の着替えとノートパソコン、大事な大事な道具類を一切合切トランクに詰め込んで、主要ターミナル駅へタクシーを飛ばす。今からなら実家の最寄り駅の最終電車に間に合うはず、いや間に合わせる、そのためにはタクシーの運転手に少々手荒なお願いを実行することも躊躇わない所存。それほどまでにこれから起こる出会いはアタシの運命を大きく変えるはずだから。
だから……待っててね、シェリーちゃん!
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とりあえず初美への連絡は済ませた。予想通り、というか予想を遥かに上回る食いつきっぷりで、電話越しながら若干引いた。来るのはたぶん明日になると思うので、シェリーには今晩だけは少々我慢してもらおう。
当の本人はというと、縁側で差し込む陽光の暖かい誘惑に負けてしまたらしく、茶々にもたれかかるようにして眠っている。危険がないと判断したのと腹がふくれた満足感が睡魔の誘いをすんなり受け入れてしまったようだ。それに茶々の毛並みの柔らかさも要因の一つだろう、俺でも手で触る程度の楽しみしかできないのに、シェリーは全身でそれを愉しむことができるというのはとても羨ましい限りだ。
「……そのまま寝てな」
茶々が首をもたげてこちらの様子を窺ってくるので、そう言ってやると再び眠りについた。どうやら茶々はシェリーのことをとても気に入ったようで、まるで自分の子供に接するかのような優しさを見せている。といっても六歳になっても未だに出産の経験はないが。ポメラニアンにしては大きい身体と異様に高い戦闘力は何匹もの見合い相手に腹を向けさせる結果になった。獣医の話ではポメラニアンの原種と言われているジャーマンスピッツの要素が強く出た先祖返りのようなものらしいということだが、正直なところ俺にはどうでもいい。俺にとっては大事な家族の一員なのだから。
さて、シェリーは茶々に任せるとして、こっちはこっちの準備をしようか。初美が来るまでの急場しのぎが出来ればいいんだから、大掛かりなものは必要ないだろうが、シェリーの寝床が必要だ。茶々と一緒でもいいかと一瞬思ったが、やはり大きな動物と一緒に寝るというのは危険が伴うかもしれないからな。うっかり寝ぼけて踏みつぶしたなんてことになったら洒落じゃすまない。
客用の座布団に初美が使っていたひざ掛け毛布でもあれば何とかなるだろう。それを居間の中央に置けば俺も夜中にとうっかり踏みつぶすこともないだろう。食事に関しては……とりあえず色々試してみよう。宗教上の理由で食べられないものがあるかもしれないし、アレルギーの可能性だって捨てきれない。でもまあ……とりあえず後でいいか。
シェリーも茶々も疲れているだろうが、俺だって疲れた。いきなりあんな小さな人間が現れるなんて誰に話しても信じてくれやしない。初美はまあ……あれだ、ちょっとばかし特殊な趣味のおかげですんなり受け入れたみたいだが、ごく普通の脱サラ農家には少々、というかかなりの衝撃の連続だったからな。
「……晩飯まではまだ時間があるな……」
縁側で眠りこける茶々とシェリーの姿にほっとしたのか、突如俺にも睡魔が襲ってきた。晩飯の支度を始めるにはまだ早く、かといって畑に出て作業するという気分でもない。色々とリハビリを兼ねた農業でもあるので、無理して作業をすることもない。なのでここは俺も少々休憩するとしよう。
居間の座卓の脇に寝転んで座布団を枕に横になる。よくよく考えてみれば茶々以外に誰かがこの家にいるのはいつ以来だろうか。いつもなら即座に俺の傍にくる茶々がいないというのは少々悲しいものがあるが、二人仲良く昼寝している姿を見ればそんな気持ちも薄らいでくる。縁側で展開されている心温まる光景を見ながら、俺も眠りに落ちていった。
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