7.酒
「お兄ちゃん、梅酒飲みたいんだけど、いいかな?」
夕食の支度を始めようと台所に向かう俺に初美がそんなことを言ってきた。梅酒は毎年仕込んでいるし、去年のやつがちょうどいいくらいに熟成されてきてるはず。だがそれよりも一昨年に一瓶だけ残して追熟させたものが残っているはず。初美が酒を飲むことは話で聞いていたが、実際に飲むところを見るのは初めてかもしれないので、それならば秘蔵の逸品を飲んでもらおう。
「赤い蓋のやつだよね」
「それは去年のやつだな。青い蓋のほうが美味いぞ、二年熟成させたやつだ」
「マジ? じゃあそっちもらうね」
初美が床下収納から取り出した青い蓋の瓶の中には綺麗な琥珀色の梅酒が入っている。味見程度なら何度かしたが、本格的に飲んだことはない。味見の段階ではかなりいい出来に仕上がっていたが、それも三ヶ月前なので今どうなっているかはわからない。ただ色合いから判断するとかなり上質なものになっているだろう。
「どれどれ、ちょっと味見……うわ、いい香り。これなら間違いないわね」
「何が間違いないんだ?」
「シェリーちゃんと一緒に飲もうと思ってさ。この味なら受け入れてもらえるだろうなって」
「飲むならツマミ作ったほうがいいか? 偶には俺も飲みたいからな」
「じゃあお願いしていい?」
「ああ、任せろ」
二人が飲んでいるのに俺だけ普通に飯を食うのは味気ないので、俺も偶には飲むとしよう。梅酒自体が甘い酒なので、アテにするものは塩気のあるものがいいだろう。とはいえ大したものがある訳ではなく、チーズやベーコンを切って出すくらいしかできないが。もっと前に言っておいてくれればきちんと準備しておいたのに……
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「というわけで今日はお酒を飲みます。シェリーちゃんも飲めるでしょ?」
「あまりきついお酒は苦手ですけど……」
「これならどう? 梅っていう果実を漬けこんだお酒」
「……甘くて美味しい、これなら飲めます」
「良かった、じゃあどんどん飲もう!」
ツマミの用意を進めていると、居間からこんなやり取りが聞こえてくる。シェリーに飲ませるのはいいが、大事なことを忘れていないかが心配だ。梅酒は梅を漬け込む際に大量の砂糖を使っているので、甘くて口当たりが良いのでついつい飲み過ぎてしまうので注意が必要なんだが……
「だからですねぇ、私だって色々あるんですよ? ハツミさん、聞いてます?」
「聞いてる聞いてる、それよりもうそこらへんにしといたほうが……」
「それは私に飲ませるお酒なんてないってことですか……」
「そ、そういうわけじゃ……」
ほんの十数分遅れで居間に向かえば、そこには完全に出来上がったシェリーがいた。呂律は回っているが、その目は完全に酔っ払い特有の座ったものへと変わり、顔は耳まで真っ赤になっている。茶碗に注がれた梅酒を自分専用のカップで掬っては飲み、掬っては飲みを繰り返している。その横で小さくなっている初美が、ようやく救いの手が現れたとばかりに俺のところへやってきた。
「どうなってるんだよ、これは」
「ちょっと飲ませ過ぎたみたい。いくらなんでもこんなにすぐに酔うなんて思わないじゃない」
「身体のサイズを考えろよ。それに梅酒はアルコール度数高いんだぞ?」
市販のものはアルコール度数を抑えてあるものも多いが、自家製の梅酒は大概アルコール度数が高い。というのも、梅酒を作るときに使うホワイトリカーがアルコール度数が高いからだ。一般的な焼酎が20~25度くらいなのに対して、ホワイトリカーは35度前後のものが多い。つまり焼酎より度数が高い。もちろん漬け込んでいる間にいくぶんアルコールは飛ぶが、それでも20度くらいはある。そんなものをがぶがぶ飲んだら悪酔いするに決まってる。
「何でこんなことおしようと思ったんだよ」
「実はさ……」
初美のこの行動の真意を聞かされ、なるほどと思った。確かに今日のシェリーはどこか余所余所しい感じだった。言うなれば、シェリーがこの家にやってきてすぐの頃のようなぎこちなさを感じていた。だがその原因が初美の予想通りだとしたら、この問題は俺たち全員で共有しなければならない大きな問題だ。
「一緒にいいか?」
「いいですよぉ、美味しいお酒は皆で楽しむものですからぁ」
座卓の上で手酌で梅酒を飲み続けるシェリーに一言断りを入れてから隣に座る。ひたすら梅酒を流し込み続ける彼女の姿はどこかで見た光景を思い出させる。かつて劣悪な環境で働いていた頃、同僚たちが不満を押さえつけるために無理矢理酒をあおっていた姿に近いものを感じた俺は、シェリーの心の中にわだかまっているものが決して無視できないものだと確信した。
「……シェリー、俺たちに隠し事してないか?」
「……」
俺の言葉に酒を掬う手を止めたシェリー。うつむいたままなので表情はわからないが、カップを持つ手が小さく震えている。
「もう一度聞くぞ、隠し事してないか?」
「……してません」
俯いたまま、微かに震える声で答えるシェリー。だがその間と震える声がその答えが真実でないことを雄弁に物語っている。
「なぁ、俺たちはそんなに頼りないのか? それとも俺たちは本当のことを聞く価値がないのか?」
「……ち、違います」
「じゃあどうして嘘をつくんだ?」
「そ、それは……」
何かを言おうとして、言葉に詰まってしまったシェリー。言おうか言うまいか迷っているようで、大きな瞳が定まることなく動いているが、言葉が続くことはなかった。
「……わかったよ、もう何も聞かない。好きにすればいいさ」
「お兄ちゃん?」
「本人が言いたくないのなら仕方ないだろう? 酒の力を借りればというお前の気持ちはわからなくもないが、お前は家族の秘密を無理矢理聞き出して嬉しいか?」
「そ、それはそうだけど……」
初美が抗議の声を上げるが、俺としてはこのあたりで退くべきだと思ってる。これ以上追い詰めてしまえば、苦しむのは彼女だけじゃない、俺たち皆が苦しむことになる。だからこれ以上問い詰めることはしない。
「……家族?」
「ああ、家族といっても話せないことくらいあって当然だ。シェリーが話せないということは、俺たちではどうしようもないことが起こっているということだろう?」
「家族……家族……」
家族という言葉をしきりに繰り返すシェリー。少なくとも俺たちはシェリーのことを家族だと思っている。シェリーにとっては迷惑な話なのかもしれないが、俺たちは本気でそう考えている。だから……苦しんでいるシェリーのことを放っておくことがとても心苦しいんだ。
「初美ももういいだろう? これ以上やって何になる?」
「……わかったよ。シェリーちゃんもごめんね、こんな真似しちゃって」
初美もようやく諦めたようで、素直にシェリーに謝罪したが、当の本人は俯いたまま何やら呟いている。その呟きは小さすぎて、何を言ってるのか聞き取ることはできない。それが何なのかを聞き取ろうとしたとき、不意にシェリーが顔をあげた。その瞳には今にも零れそうなほどの涙を溜めている。
「シェリー、お前……」
「……ソウイチさんはこんな私を家族って言ってくれました。でも私は……そんな家族に嘘をついて、逃げようとしてました。すごく怖くて、何も言わずに逃げようとしてました。でも……私のことを本当に心配してくれる家族に向かってそれは……許されないことです。だから……ものすごく怖いですけど、きちんとお話します」
シェリーは涙を零しながらも、何かを決意した表情で話し始めた。その言葉の端々から、初美の予想していたことが現実になってしまったんだろうということは粗方想像できた。だが俺たちにわかるのはそこまで、詳しいところはシェリーにしかわからない。だから俺と初美は彼女の言葉を待った。
「……もうすぐ私のいた世界とこの世界が……繋がります」
覚悟を決めたはずの別れの時は、予想していたよりもはるかに早くやってきてしまった。
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