5.渦
「今日のソウイチさんとハツミさん、ちょっと変でしたね」
「わふ?」
カブトさんに跨って見回りをしながらチャチャさんに話しかける。チャチャさんはよくわからないといった様子だけど、夕食の時の二人はどこか会話も噛み合わないし、いつもとは違うように見えた。ハツミさんは『かめら』を向けてくることもなかったし、いつもより静かだったけど、ソウイチさんも普段と違ってた。いつもなら食後に果物が出るはずなのに、今日はそれがなかったから。きっと何か考え事をしていて忘れちゃったんじゃないかなって思う。まさか食べ過ぎて愛想つかされちゃった訳じゃない……よね?
「あれ? カブトさん、こっちですよ?」
いつもなら部屋を出て水場のほうに向かうはずなのに、カブトさんは居間へと歩いて行こうとする。ゴキブリは水場に多く出没するんだけど、居間にはあまり現れないから見回りの順番は一番最後にしてる。カブトさんもその順番は理解してるはずなのに、どうして今日に限って居間のほうから始めようとしているんだろう。
「もしかして……ゴキブリの巣があるんですか?」
「……」
問いかけてもカブトさんは何も答えない。喋ることができないから当然なんだけど、それでも私の指示を無視して動くことなんてなかった。もしかするとハツミさんが恐れていたゴキブリの巣があるのかな?
ハツミさんが言うには、ゴキブリは巣を作り、そこで繁殖するんだとか。驚いたことに、仲間の排泄物や死骸すら食べてしまうらしい。その生命力の強さは見習うべきものもあると思うんだけど、ハツミさんはゴキブリを見るととても混乱してしまうので退治しなくちゃいけない。
「カブトさん、ここは……」
「……」
相変わらずカブトさんは何も言わずに進み、居間のとある場所にやってきた。そこには壁に開いた大きな穴、夜なのでその奥まで見通すことは出来ないけど、私にとってはとても思い入れのある場所。この穴が無ければ、私はあのときドラゴンの餌食になっていたはずだから……そしてこの世界に来るきっかけを作ってくれた穴。優しい人たちと出会わせてくれた穴。
「カブトさん、信じられないかもしれませんけど、この穴は別の世界に繋がっていたんですよ? そして……私はそこから来たんですよ?」
「……」
言葉が返ってくることがないのは分かっているけど、それでも話しかけずにはいられなかった。私に懐いてくれているカブトさんには、きちんと私のことを話しておかなくちゃいけないと思ったから。きちんと理解してくれるかどうかなんて分からないけど、いつか帰ることになればカブトさんとも離れ離れになる。だからカブトさんにもきちんと私のことを知って欲しい。
「だからいつかは帰らないと……あれ? 何だろう、この感じ……」
穴の奥から感じるのは僅かばかりの違和感。でもそれは決して嫌な感じのするものじゃなく、どこか懐かしさすら感じさせる違和感。薄灯りの部屋の中、穴の奥は全く見えないけど、確かに感じる。この違和感は間違いなくこの穴の奥から感じる。
「カブトさん、ちょっと待っててくださいね……」
カブトさんから降りて、穴の奥に向かって歩く。いつもなら少し歩けば壁に当たる……そんなことを考えながら歩けば、いつも通りに壁に当たってしまった。勢いあまって尻餅をついてしまい、軽く痛むお尻をさすりながら行く手を遮る壁を見上げてようやく、私の感じた違和感は間違いではなかったんだと確信した。
「あれは……魔力?」
私が見上げる壁の一部分に小さく渦巻いているのは間違いなく魔力。でもそれは私のものじゃなく、ましてやこの世界のものでもない。どこか懐かしく感じたのは、その魔力が私にとって親和性のあるものだったから。
魔力の渦はまだ小さく、私の指先ほどの大きさしかない。でもその力は消え入りそうなものではなく、新たな芽吹きを感じさせるような力強さすら感じた。こんなに小さいのに、私を圧倒するかのような力強さ。そして私はその魔力の渦が何を意味しているのかを理解した。
これは始まりだ。この渦は次第に大きくなっていくだろう。そしてこの渦が拡がりきった時、再び世界は繋がる。その時がいつになるのかまでは私もわからないけど、間違いなくその時は来る。大切な仲間たちに再び会える時が来る。
どうしてだろう、あれほど帰りたいと願った元の世界なのに、今の私に胸の高鳴りはない。私はそんなに簡単に仲間のことを忘れてしまうような薄情な人間だったのかな。
ううん、違う。仲間たちに会いたいのは真実。でもそれと同じくらい、ここの人たちとの別れを辛いと感じる気持ちもまた真実。相反する二つの真実がせめぎ合っているから、諸手を挙げて喜ぶことができないんだ。
「渦が拡がりきるまで時間はある……それまでに心を決めないと……」
思いがけなく発見した元の世界へと戻る手掛かり。嬉しいはずのそれは、僅かずつ拡がっている。そしてその拡がりに比例するかのように、私の心をじわじわと締め付ける。嬉しいはずのものが、ゆっくりと私を苦しめる。
「……このことを伝えないといけないのに」
ソウイチさんとハツミさんにこのことを伝えないといけないのに、その決意ができない。居心地のいいこの世界からの決別を決める勇気が出ない。冒険者として何度も死線を潜り抜けてきたはずなのに、元の世界に戻るというたった一言を口にする勇気が出ない。
「どうして……どうしてこんなに苦しいの……」
懐かしい魔力を肌に感じながら、私は立ち上がることも出来ずにその場で涙を流していた。
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