1.夏の始まり
新章スタートです
梅雨も明け、周囲の山々は鮮やかな深緑の葉は陽光にその色を際立たせる。庭の植栽は春の花が終わり、夏の花が徐々にその美しさを競うように花弁を優雅に拡げはじめる頃、我が家でも夏に向けての準備が整いつつあった。
畑は春まきの葉物野菜はほぼ収穫を終え、秋まきに向けて耕された畑は抜けるような青い空に反して深めのこげ茶色の様相を見せている。その隣では実験的に育て始めたトウモロコシやトマト、ナスやピーマンといった夏野菜が育ち始めの小さな実をつけ始め、その様子を見ながら、しみじみと去年までの畑を思い出して胸が熱くなる。
「去年までは惨憺たるものだったからなぁ……渡邊さんには感謝しきれない」
いくら農家の息子とはいえ、専門的に学んだ訳でもない素人がいきなり成功できるほど農業が簡単じゃないということは理解していた。しているつもりだった。だが病気で枯れたもの、成長不足で結実しないもの、結実しても歪で色も悪いものを抜いていく度に悔しさがこみ上げた。何とか色づいたものは、食べてみれば市販の鮮度の落ちたものにも劣るほど味がなかった。
葉物野菜は何とか育ちはしたが、害虫に葉脈を残して食害されてまるでレース編みのようになっていた。当然そんなものが食べられるはずもなく、全て抜くはめになった。虫も食わないような野菜は不味いとはよく言ったものだが、虫に全部食わせるために育てたつもりはない。
ネットと本で情報を仕入れて試行錯誤したが、ほとんどうまくいかなかった。理論はわかっているが、実際に自分の畑がどのような状態になっているのか、どうなっていくのかがわからずに困っているところをアドバイスしてくれたのが渡邊さんだった。
『こんなんじゃダメだ、うちの堆肥わけてやっから、それでやってみろ? 余計なもんやると逆にダメだ、一月ほど寝かせてみな』
そう言われて渡邊さんの畑の堆肥を持ち込んでよく耕し、ひと冬寝かせた後に蒔いた春まきの種は見事なまでに育ってくれた。そして失敗してばかりだった夏野菜も早いものは鮮やかな実をつけているものすらある。
「一番果は早めに摘んで……と」
色づき始めた実を摘んでいく。これをしないと全体の収量が減るのできちんとやっておかないといけない。赤くなりかけた小さなミニトマトを食べてみると、まだ甘味は少ないが去年とは段違いの味の良さに思わず顔がほころぶ。この調子ならば今年の夏野菜は問題ないだろう。
摘果した実をどうやって食べようかを思案しながら家に戻ると、いつも夏に見かける光景は消えていた。うちは屋根こそ瓦葺に替えたが、れっきとした古民家だ。裏口と玄関、縁側の窓を全開にすれば風が通って涼しいので、いつも窓は開けっぱなしにしてあるんだが、今日に限っては窓が閉まっている。
早咲きのヒマワリの山吹色の花や四季咲きの色とりどりの薔薇が咲き誇る庭を一切拒絶するかのように閉められた窓、その原因は粗方想像がつく。だがひとつだけ気になるところがあるが、果たしてあいつらはそれに気づいているだろうか。
「戻ったぞ」
「お帰りなさい、ソウイチさん」
ガラス戸の閉められた居間から聞こえるのはシェリーの声。だがいつもなら茶々とともに出迎えてくれるはずの姿がない。汗を拭いながら居間の戸を開ければ、途端に冷たい空気が流れ出て拭いきれなかった汗を一気に冷やす。そして冷えた室内に横たわる初美、茶々、そしてシェリー。
「冷やしすぎだぞ、初美」
「だってこんなに暑くちゃ動きたくなくなるじゃない。それにせっかくエアコンついてるんだから使わないと。ね、シェリーちゃん?」
「はい、とっても涼しいですね」
「クーン……」
Tシャツにショートパンツというだらしない格好で寝転がる初美のだらけた声に応じるシェリーは白のワンピースに身を包んで座卓の脚にもたれかかっている。茶々はその横で横たわって眠っている。茶々は毛皮を着ているようなものなのでこの状況は仕方ないところだ。
「そういえばカブトさんはどうした?」
「カブトさんなら……あ、向こうにいらっしゃいます」
シェリーが指さした先は居間から台所に抜ける戸の辺り、やや暗くなっているあたりでじっとしているカブトさんだが、今日はいつもと違いシェリーの傍にいないらしい。ちょっと待て、この状態は……
「この室温はカブトさんには厳しいだろ、カブトさんは暑いほうが好きなはずだからな。死ぬことはないと思うが体調崩すかもしれないから外に出しておいたほうがいいぞ」
「え? 大変です! カブトさん、外に出てください!」
シェリーが慌ててカブトさんに駆け寄るが、カブトさんは動こうとしない。たぶん寒いと感じているんだろうが、シェリーと同じ部屋にいたいらしい。だがこのままじゃカブトさんにはきついのは確かだ。仕方ない、ちょっとだけ面倒みてやろうか。
台所に置いてあった小さな段ボール箱、おそらく初美が通販で頼んだ製品が入っていたであろう箱に、水に浸して固く絞った新聞紙と乾いた新聞紙を細かくして混ぜて入れてやると、入り口の傍に置いて戸を少しだけ開けておく。こうしておけばカブトさんもシェリーのところに自由に行けるはず。
「とりあえずここに入ってもらったらどうだ?」
「はい。カブトさん、ソウイチさんがお部屋を作ってくださいましたよ」
シェリーの言葉にようやくカブトさんは動き出し、箱の中へと入っていった。水で湿らせたのはカブトムシの好きな湿った落ち葉の代わりだ。
「カブトさんも嬉しそうです。ありがとうございました」
「気にするな、カブトさんも出来るだけシェリーのそばにいたいだろうしな」
相変わらず昆虫にしては物分かりのよすぎるカブトさんだが、ようやく我が家の日常的な光景になりつつある。他人には到底見せられないが、できればずっとこのままでいてほしいというのは無理な話だろう。いずれカブトさんとの別れの時が来るのだから。
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