7.カブトムシ
「……という訳なのよ」
「なるほどな、それでこの騒ぎか」
朝起きると同時に、眠そうな表情の初美から説明を受けてようやくこの状況が理解できた。そして居間で繰り広げられていることはというと……
「こ、来ないでください!」
「ワンワン!」
カブトムシに追いかけられて逃げ回るシェリーだが、カブトムシは諦めることなくシェリーの後をついて行く。茶々もカブトムシがシェリーに危害を加えるような存在ではないのを知っているようで、牽制するように吠えるにとどまっている。もしこれがカマキリのような獰猛な虫であれば即座に排除していることだろう。カブトムシの動きはシェリーに比べれば遅いので追いつかれることはないが、虫のスタミナは測り知れないのでいずれ追いつかれるかもしれない。
「た、助けてください、ソウイチさん! 食べられちゃいます!」
「大丈夫だよ、カブトムシは甘い蜜みたいなものしか食べないから」
「そんなこと言われても怖いです!」
逃げ回りながら助けを求めるシェリーにカブトムシの生態について説明するも、全く納得した様子のない彼女は再び逃げ回っている。カブトムシに攻撃の意思が見られないので剣こそ抜いていないが、このままではいずれそうなることだろう。ここは助け船を出しておこう。
「わかったよ。ほらこっち来い……でかすぎないか、こいつ? 胴体だけでも十センチ以上あるぞ?」
「でしょ? アタシも最初見たときびっくりしたんだから」
「ちょっと勿体ない気もするがシェリーの平穏の為だ。ほら、山に帰りな」
未だシェリーを追いかけているカブトムシを摘み上げて、裏口から裏山のほうへと放り投げる。山なりに投げたので途中で飛ぶこともできるだろうし、もしそのまま落ちても勢いがないので下草がクッションになってくれるはず。そしてカブトムシは藪の中へと落ちていった。
「これで大丈夫だ、きっとメロンの匂いに寄ってきたんだろう」
「そっか、シェリーちゃんもメロン食べてたし」
「助かりました……あのままずっと追いかけられるかと思いました」
「カブトムシは日中は土の中や落ち葉の下で眠るんだ。だから安心していいぞ」
カブトムシは元来夜行性の昆虫なので、そのまま裏山の落ち葉の下で眠ってくれるだろう。夜になれば樹液を求めて山の奥深くに戻っていくはずだ。だがあの大きさのカブトムシがいるとなると、山の腐葉土の質が良くなったのかもしれない。カブトムシは幼虫の頃にどれだけ栄養を摂取できるかで決まるが、あの大きさはギネス級かもしれない。八センチメートル超えれば大物と言われてるくらいだからな。
「あの見た目で肉を食べないなんて……」
「ただ樹液を巡って争うことはよくあるけどな」
「やっぱり危険じゃないですか!」
ようやくカブトムシから解放されたシェリーが頬を膨らませて怒ってるが、争うのは餌場を巡ってのことなので俺たちはそんなに心配していない。どうしてシェリーが追いかけ回されたのかは原因がわからなかったが、とりあえず虫の考えていることを人間がわかるはずもない。
「ごめんごめん、でも本当に大丈夫だから」
「そうよ、むしろゴキブリのほうが危険なんだから!」
「はぁ……わかりました。少し眠いので休ませてもらいますね」
そう言うとシェリーは茶々と一緒に初美の部屋に入っていった。よく考えれば俺たちはカブトムシの生態を知っているから平気だが、何の事前情報もなしに遭遇したらシェリーのような対応になるかもしれない。ちょっと悪いことしてしまったので、後で一番熟したイチゴを献上してご機嫌伺いしよう。
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「どうしてここにいるんですか! 大丈夫だって言ってたじゃないですか!」
夕食時、居間にシェリーの泣きそうな声が響く。その声に支度を中断して駆けつければ、そこにはあのカブトムシが再び来ていた。一般的なカブトムシの大きさを遥かに超えるギネス級の個体、そうそう多くいるとは思えない。そいつはシェリーを確認すると、朝のように追いかけ始めた。だが今はメロンのような甘い匂いを発するものはないし、一体どうしてここまで入り込んできたんだろうか?
「シェリーちゃん気に入られたんじゃないの? お嫁に欲しいとか……いや、だめよ。シェリーちゃんはアタシの嫁なんだから」
「誰の嫁にもなりません! 早く助けてください!」
シェリーはステップを登り座卓の上に避難したが、カブトムシも後を追うようにステップを登り始めた。間違いない、こいつシェリーが目的でここに来た。だがいくら何でも嫁は無いだろう。そもそも生殖の方法が違うだろうし。そしてカブトムシは座卓の上にやってくると、予想外の行動をとった。てっきりシェリーに襲いかかるのかと思ったが、シェリーのそばに来ると動きを止めたのだ。ただそこにじっとしているだけで、動こうとしない。しかしシェリーが動けばそれに追随する。まるで主人に従順なペットのようだ。
「シェリー、やっぱり気に入られたんじゃないか? 見ててやるからちょっと触ってみたらどうだ? 危険ならすぐに放り出すから」
「え……これをですか? 本当に大丈夫ですよね? 噛みついたりしないですよね?」
「噛みつくような口してないから安心しろ」
「うう……固いです……鎧みたいです……これは何でしょうか?」
おっかなびっくり触れるシェリーだったが、カブトムシは触覚に触れられても全く動こうとしない。だが俺が触れるとすぐに動き出して、再びシェリーの傍で動きを止める。やっぱりこのカブトムシはシェリーのことが気に入ったようだ。実際にそこまでの知能があるのかは甚だ疑問だが。
「シェリー、普通のカブトムシは触られると動き出すんだよ。でもシェリーが触れても全く嫌がらないから、こいつはシェリーの傍にいたいんだよ。ボディーガードのつもりなのかもな」
「……本当ですか?」
カブトムシに問いかけるシェリーだが、当然カブトムシは答えない。だが俺はそうだという確信めいたものを感じていた。シェリーはさっき触角に触れたが、カブトムシに限らず昆虫にとって触角は生命線ともいえる器官であり、触れれば何らかの反応を見せるのが普通だ。だがこのカブトムシは全く動こうとしなかった、まるで自分の意思でここにいるとでも主張するかのように……
「……わかりました、危害を加えないならいてもいいです。たぶん追い払ってもまた来るでしょうし、好きにさせておきます。ただ、危ないと思ったら攻撃しますからね」
シェリーが諦めた様子で言う。確かに今追い払ってもまた来るような気がしてならない。日本のカブトムシの生態からシェリーの危惧するようなことはないと思うし、そもそもカブトムシ一匹程度、茶々がいれば問題ない。シェリーに危害を加えようものなら最強の守護者が黙っていないはずだからな。
シェリーのそんな言葉を理解しているのか、カブトムシはしきりに触角を動かしながらもじっとしていた。そしてシェリーが夕食を食べ終わるまですっとそのまま動くことはなかった。。
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