9.雨中の対峙
「お兄ちゃん……猪が来た……でかいよあいつ……」
部屋に入るなり初美が震える声で言う。まさかここまで来ていたのか?
「裏で野菜屑食べてる……アタシが出しっぱなしにしたから……」
「わかった、それからお前のせいじゃない。いずれ納屋あたりが狙われてたはずだ」
青ざめた顔で言う初美の様子から、現れた猪が尋常ではない奴だとすぐに理解できた。初美も高校までここで暮らしていたので、猪は何度も見たことがある。そんな初美が動転するほどの巨躯を持った猪、危険でないはずがない。
「お兄ちゃん……どうしよう……」
「……任せておけ」
涙を浮かべる初美の頭を軽く撫でてから、整備してあった銃を掴んで立ち上がる。部屋を出ようとすると、初美が服の裾を掴んで離さない。振り返れば不安に満ちた顔をしている。
「どうするつもりなの」
「仕留める」
「だってお兄ちゃんは……」
「……やるしかないだろ」
初美が心配している理由は理解している。今の状況を打破するにはあまりにも大きな俺自身の欠陥、だがそれでもやらなければならない。もし初美の言うように尋常ではない大きさの猪なら野菜屑程度で満足するはずがない。次に狙うのは納屋の芋類、それが食い尽くされれば必然的に狙われるのは母屋、成熟した猪にとっては雨戸程度は何の障害にもならない。それがわかっていて家族を危険に晒すような真似が出来るか。
「いいから大人しくしてろよ」
「……うん」
渋る初美を置いて玄関を出る。外は豪雨と言ってもいいほどの土砂降りだが、そのまま裏に回る。雨合羽は視界を遮るので着ていない。静かに裏に回って流し場に向かうと、たしかにそいつはいた。次郎より一回り大きいであろう巨体を揺らしながら、一心不乱に野菜屑を貪っている。そして明らかに異常である点に気付いた。
「雌かよ……」
そいつは確かに猪だが、牙が短い。もっとよく見れば乳房が張っている。雄にあるべきものが無く、雄に無いものがある。そしてこいつは間違いなく次郎より大きい。どれほど餌を食い荒らせばこんなに大きくなるのかわからないが、この雌が異常な個体だということは間違いないだろう。さらに……
「手負いじゃねぇか……」
そいつは左目付近が大きく爛れていた。まるで焼けた石でも押し付けられたかのように爛れた左目付近、そしてそのせいでほとんど視力が無くなったであろう白化した左目。手負いの獣が危険だとはよく言われていることだが、凶暴性が格段に跳ね上がる。
野菜屑を喰いながらも、そいつの耳は俺のほうを向いているので、間違いなく俺のことを認識している。もしここで激しい動きをしたら俺を敵と認識して襲い掛かってくるだろう。チャンスは奴が俺を危険視していない今の内、確実に仕留めるにはそれしかない。右手に握る猟銃を構えようとして、とんでもないミスを犯していることに気付いた。
ポケットに入れてきた弾丸はライフル弾。しかし右手に持っているのは散弾銃。ガス圧式のオート散弾銃には二発しか装填していないので、チャンスは二回あるとも言える。だが確実に仕留めるには初弾を命中させて動きを止め、確実に二発目で頭を撃ち抜かなければならない。だが俺にそれが出来るのか?
奴に警戒心を抱かせないようにゆっくりと立射の姿勢で銃を構え、極力音を立てないように注意しながらボルトを引いて弾丸を弾室に送り込む。ゆっくりと息を吐きながら精神を集中させてゆく。豪雨の中とはいえ、奴の耳はずっと俺を捉えている。迂闊な動きは厳禁だ。だが早く仕留めたいという気持ちが逸るせいで、心臓の鼓動が速度を上げてゆく。これから初めて銃で動物の命を奪うという事実が心を乱してゆく。
そう、初美が心配した俺の欠陥、それは俺が未だ生きている大きな動物を撃ったことが無いということだ。
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扉の隙間から様子を窺えば、イノシシは手負いだった。顔の左側には大きく焼けただれた跡があり、左目はもう光を宿していなかった。イノシシとは反対側にソウイチさんの姿が見える。黒光りする筒のようなもの、あれがリョウジュウという武器なんだと思う。見たことの無い形の武器はここから見る限りではハツミさんの言うような強いものだとは思えない。
「お兄ちゃん……」
ハツミさんが不安を隠せない様子で状況を見守ってるけど、そんなに強い武器を持ってるなら問題ないと思うのはおかしいことじゃないはず。
「ソウイチさんは強い武器を持ってるんですよね? なら大丈夫じゃないですか?」
「お兄ちゃんはね……あの武器で動物を殺したことがないの。これまでに使う機会が無かったから」
「え? コウシュウカイというもので訓練してるんじゃないんですか?」
「講習会は物を撃つの。だから安心して撃ってるのよ。もしこの距離で外したら……あんな巨体で突進されたら……お兄ちゃん、死んじゃうよ……」
ハツミさんの不安の原因がわかった。ソウイチさんはまだ童貞なんだ。命を奪うということを実践していないというプレッシャーがかかっているんだ。どんな強い武器を持っていても、それが使いこなせているかどうかは別問題。そして今、ソウイチさんは絶対に失敗できない状況にいる。
ハツミさんの言う通り、あのイノシシの巨躯で突進されたらひとたまりもないと思う。そんなときにこうして見ていることしか出来ない自分が口惜しい。でも私に何が出来るの?
「……嫌だよ」
「ハツミさん!」
「そんなの嫌だよ!」
突然ハツミさんが立ち上がり、扉を開いた。その手にはソウイチさんが料理の時に使ってるホウチョウという道具。でもそんな小さな刃じゃあのイノシシの急所には届かない。このままじゃ危険だ。
「初美! 何してる! 中に入ってろ!」
「嫌だよ! アタシも戦う! お兄ちゃんが死んじゃったらアタシどうすればいいの? もう独りぼっちは嫌なの! アタシを置いていかないでよ!」
涙を流しながら叫ぶハツミさんの姿に驚いたソウイチさんも叫び返す。そんな二人の姿を見て、私はかつての冒険者仲間を思い出していた。どんな危険な状況でも力を合わせて潜り抜けてきた心強い仲間たち。心優しい仲間たち。
ハツミさんもソウイチさんもお互いのことが心配でならないであろうことはすぐにわかった。優しいからこそ自分が代わりになろうとしてる。ソウイチさんはハツミさんや私たちを護るために、たった一人で不慣れな戦いに身を投じ、ハツミさんはそんなソウイチさんだけを戦わせたくなくて覚悟を決めた。こんな優しい人たちが傷つく様は見たくない。
「茶々! 注意を引け!」
「ワンワン!」
ソウイチさんが何かに気付いたようにチャチャさんに指示を出せば、チャチャさんは弾かれたように外へと身を躍らせる。いつもと違い、必死に吠えるチャチャさんの様子に違和感を感じてイノシシのほうを見れば、まだ光の宿る右目がはっきりとハツミさんを捉えていた。ソウイチさんがそれに気づいてチャチャさんに興味を移そうとしているけど、イノシシはハツミさんから視線を外さない。
イノシシは四肢に力を籠めるのがわかった。それはこれから攻撃を行おうという意志表示。あんな巨体が突進してきたら、ハツミさんは怪我どころか命の危険性すらある。
どうして私はここで護られているんだろう。私だって今は彼らの家族の一員、ならば一緒に戦いたい。でも私の武器ではイノシシに傷をつけるのは至難の業、なら残された手段は一つだけ。
「お願い、この地に住まう精霊たち、私に力を貸して……」
私に使えるのは魔法のみ、でもこんな大きな相手に有効な魔法が放てるかどうかはわからない。なら……せめてイノシシの動きだけでも止めることが出来たなら……ソウイチさんの武器が通じるはず。
「まだ足りない……もっと……もっとたくさん……」
細かい制御は一切なし、ただ純粋な力を集める。構えた剣を通じて猛烈な勢いで精霊たちの力が流れ込んでくる。今にも弾けそうな濃密な力が集まりつつある。その間にもイノシシはハツミさんに狙いを定めたまま、ゆっくりと前かがみになる。
「早く中に入れ!」
「嫌だ!」
「ワンワン!」
そんなやりとりが遠くに聞こえる。こんなに魔力を、精霊の力を集めたことは無かった。どうなることになるかなんてわからない。でもそれでいい、自分のことより今は大事な家族を護りたい。そのために全力を使う!
『風よ集え! 今この場に!』
精霊の力と私の魔力が剣を通して融合する。と同時に私を中心として風が集まる。石礫の如き雨粒すら吹き飛ばす風の渦が私を包み込んだ。
宗一の使う散弾銃はレミントンのオートです。チョーク交換式です。
読んでいただいてありがとうございます。




