7.意思
「今日も無事か……」
畑の確認に向かうと、昨日とほぼ変わらない様子に胸を撫でおろす。残ったコマツナをいくつか収穫しつつ詳しく調べていくが、目立った変化は感じられない。やはり流れの猪、危険な場所とわかれば離れていくんだろう。もし定住されたらどうしようかと思ったが、これで一安心できるかもしれない。
畑の手入れを終えてビニールハウスに向かうが、ここでも足跡や荒された様子は見られない。この中には野菜の苗、つまり若い芽やイチゴを栽培しているので、草食・雑食の野生動物にとっては極上の食材に見える。なのでこの周囲はかなり厳重に動物対策がしてある。
ビニールは強度の高いものを使い、骨組みも通常のものより段違いに太い。穴を掘られる可能性も考えて、基礎は深めに打ち込んである。ビニールハウスというよりも温室と表現したほうがいいかもしれない。だがそのおかげで動物の食害に遭ったことはなく、害虫も少ない。病気だけは完全に防げていないが、それでも露地栽培に比べれば微々たるものだ。現在の我が家の家計を支える育苗の場所だけに、ここだけは何としても死守しなきゃならない。
実はこのビニールハウス、内部はかなり手が加えられていて、ただのビニールハウスじゃない。散水は自動制御で、地表の湿度が基準値を下回ると一定量の散水を行うようになっている。温度については手動になるが、散水を任せられるのはとてもありがたい。育苗の場合、水が不足すると枯れてしまうのはもちろんだが、途中で水分が足りなくなると見た目は問題ないように見えるが将来成長した時に結実しなかったりすることもある。このハウスは親父が自分で設計したものらしいが、そのおかげで今俺が順調に暮らすことができている。親父には感謝の気持ちしかない。
機械の調子や育苗の進み具合、そしてシェリーのためのイチゴをいくつか収穫してハウスを出た時、何かにつまづいて転びそうになった。こんな場所に荷物を置いたのかと起き上がりながら記憶を探るが、そんなことをした覚えはない。そもそも出入り口を塞ぐような形で物を置けば扉が開かなくなる。
「誰だよ、こんなところに置いた……」
誰かの悪戯だろうかと口にした愚痴は最後まで言い切ることが出来なかった。起き上がろうとした俺のすぐ横にいるのは全身筋肉の塊のような獣。口から伸びた曲線を描く牙が梅雨の晴れ間の太陽の光を鈍く反射する。どこか理知的な輝きすら感じさせる瞳が俺を射抜く。
動けなかった。体長で言えば俺より絶対に小さいのに、その威圧感は有無を言わさぬものがある。だがそれは決して荒ぶることなく、俺の目を見つめていた。暴君か賢王かと言われれば、間違いなく後者であると言える風格。それが息遣いすら聞こえてきそうな至近距離で佇んでいる。
「……次郎」
ただ一言、その一言を絞り出すのにどれほどの力を要しただろうか。異様なまでに喉が渇き、声が掠れる。身体中の筋肉が強張り、自由に身体を動かすことができない。混じり気のない純粋な野性が放つ研ぎ澄まされた刃物のような空気は、人間がどれほど無力な存在であるかということを嫌が応にも理解させられる。
この山の獣のボス、次郎がそこにいた。
次郎はただじっと見つめているだけで、威嚇したり足を踏み鳴らしたりという、猪特有の興奮状態には陥っていなかった。千切れた右耳が特徴的な雄猪は、意味不明とも思えるような行動をとっている。いや、人間にその真意など理解できないのかもしれない。その瞳に宿る知性の輝きのようなものが一体何なのか、全くわからない。
お互いに見つめ合ったまま、どれだけ時間が経過しただろうか。ほんの数分のような気もするし、数時間に渡るような気もした。決して交わることのない人間と獣、だが今次郎は確かに何かを伝えようとしていると思った。でなければ危険と隣り合わせの行動をとるだろうか。食欲に負けて喰らい放浪するような獣がこれほど理知的な瞳を持つだろうか。
「お前は何が言いたいんだ」
人間の言葉がわかるかどうかなどわからない。だが猪の使うコミュニケーション手段を知らない俺はそう問いかけるしかできない。こちらの動揺を極力悟られないように、声の抑揚を出来るだけ抑えて問いかければ、次郎はほんの一瞬だけ視線を逸らした。
いや、違う。明らかに意思をもってある一点を見た。まるでそこに何かがあるとでも言いたげに、俺の目から視線を外して見た。野生の獣にとって先に目を逸らすことは負けを認めるようなもの、だが次郎はこの場において明らかに格下の俺から視線を外して見た。その場所こそ……
「家?」
俺の呟きの意味を理解したのか、次郎はゆっくりと踵を返すと山の中へと姿を消した。次郎が去ってもしばらく身体を動かせなかった俺は、ようやく動けるようになると次郎の行動を考える。こんな至近距離でも手を出さず、家に向けて視線を送った真意は……
「まさか……そんなことがあるのか?」
思い至ったその理由に全身が総毛立つ。あり得ないと一笑に付してしまうのは容易い。おそらくこのことを話しても誰もが悪い冗談だと笑い飛ばすだろう。だが我が家にはシェリーという、我々人間の常識から外れた存在がいる。彼女の存在が、あり得ないものなど無いのだという証明そのものだと気づくと、即座に飛び起きた。
「頼むから無事でいてくれよ……」
車へと走る途中で思い浮かべるのは家の事。完全に油断しているであろう家族のこと。絶対に起こって欲しくない最悪の結果ばかりが頭の中に溢れかえる中、逸る気持ちを必死に抑えながら車のキーを回してアクセルを踏み込む。自宅までたった数キロメートルのはずなのに、この時だけは途轍もなく長い距離のように感じた。
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