5.イノシシ
「今戻った! 何か問題なかったか? 茶々は大人しくしてたか?」
ソウイチさんが戻るなり声を上げた。ずぶ濡れだけど全く気にしない様子だけど、何があったんだろう。
「お兄ちゃん、雨合羽くらい脱ぎなよ。どうしたの、そんなに慌てて」
服を合わせていたハツミさんがソウイチさんの尋常ではない様子に声をかけるけど、ソウイチさんの表情は険しいままだ。チャチャさんのことを気にしていたけど、チャチャさんはずっと私たちと一緒にいて、大人しくしていたけど。
「コマツナがやられた! 次郎よりデカい猪だ! 流れの雄かもしれん! 銃の準備するから誰も入るなよ! 茶々、警戒頼んだ!」
「ワンッ!」
チャチャさんがいれば大丈夫だと思うけど、何を焦っているんだろう。チャチャさんの強さは私の世界でもトップクラスに入ると思う。もしかしたらあのドラゴンだって倒すかもしれない。ハツミさんを見れば彼女もどこか顔色が優れない。
「次郎より……わかった、気を付けてね」
ハツミさんの言葉にも応えることなくソウイチさんは自分の部屋に入っていった。一体何が起こるんだろう……
「ハツミさん、ジロウって何ですか?」
「えっとね……猪っていう獣なんだけど、茶々より大きい動物よ。ちょっと待って、今画像を見せるから」
そう言うとハツミさんは『のーとぱそこん』という道具を持ってきた。私も見せてもらったけど、あんな薄い板なのに信じられない量の情報が詰め込まれている。冒険者仲間に『最果ての賢者』って呼ばれてる魔道士がいて、彼女の家に行ったときに蔵書の多さに圧倒されたけど、それが霞むくらいに素晴らしい道具。だって知りたい情報があっという間にわかるんだもの、もし彼女がこれを知ったら愕然とするだろうな。一冊一冊本を開いて調べる手間が省けるんだから。
「えっと……猪で検索っと。で、ここのリンクを……ほら出てきた、これよこれ。雄はこれ」
「ボアみたいですけど……」
『のーとぱそこん』に映った絵を見て言葉が出てこなかった。確かに私の世界によく出没するボアという魔物によく似ている。でもボアは大きくても私と同じくらいの大きさで、それより一回りくらい大きな個体が時々現れることはあるけど、銀級冒険者の私にはどうってことない相手だ。
でもこれは違う。そんな生易しいものじゃない。盛り上がった筋肉と鋭い牙、こちらを見る瞳は荒ぶる感情を潜ませている危険な瞳だ。こんな生き物がチャチャさんより大きいなんて……
「茶々は次郎に勝ってるけど、それより大きいとなるとどうなるかわからないわね。次郎は以前この辺りにいた猪なんだけど、茶々が勝ってからは畑を荒らすこともなかったんだ。でも他所から流れてきた雄はそんなことお構いなしに荒らしてるんだと思う」
「チャチャさんが……」
「ワンワン!」
木の窓が閉められた薄暗い部屋で私たちを護るように位置どりしているチャチャさん。ジロウというイノシシという獣と戦って勝っているなんて、やっぱりチャチャさんはすごい。任せて!といわんばかりに吠えるチャチャさんでも勝てるかどうか分からない獣がいるなんて……
「そんな獣とどうやって戦うんですか?」
「お兄ちゃんの銃が頼りね。でもちょっとね……」
どうやらソウイチさんが持っているリョウジュウという武器が頼りらしいけど、ハツミさんの表情は優れない。そんな強い武器があるなら安心できると思うんだけど、何が心配なんだろう。あんな獣、もし王国に現れたら特級冒険者でも勝てるかどうかわからないのに、それに敵うだけの武器があるなら勝てるはずなのに。ソウイチさんはそのための許可を国から貰ってるというのに。
「お兄ちゃんの銃の腕は確かなの。確かなんだけど……」
「ハツミさん?」
「ううん、大丈夫よ。そうだ、忌避剤撒いてくるからちょっとだけ茶々と遊んでてね」
「あ、はい」
「お兄ちゃーん、忌避剤車にあるよね? ちょっと撒いてくるから」
ハツミさんはそう言うと玄関を出て行った。キヒザイというものが何なのかよくわからないけど、きっと獣避けのようなものだと思う。冒険者してた頃に何度か使ったことがあるけど、とても臭くてしばらくの間匂いが取れなかったことを覚えてる。
「……私も何かお手伝いできたらな」
こんな時ほど自分の力の無さが口惜しい。チャチャさんと同等かそれ以上の獣が相手じゃ私が出来ることなんて無いのかもしれないけど、それでも手伝いたい。ただ護られるだけでいたくない。私だってこの優しい人たちを護りたい。でも私に出来ることって何だろう?
「……風よ」
私の声に従うように、微風が部屋の中に流れる。精霊の力はある、となれば私の願いにこの世界の精霊たちが力を貸してくれるかどうかだけ。どれだけ私の願いが強いか、そしてそれを認めてくれるかだけ。お願い、どうか私に大事な人たちを護れる力をください……
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