4.被害
強くもなく弱くもなく降り続ける雨の中、雨合羽に身を包んだ俺は目の前に広がる光景に茫然としていた。
「何だよ、これは……」
今いるのはコマツナの畑。栽培当初から実験的に農薬や化成肥料を使わず、ようやく安定して生育が望めるようになった畑には一昨日まで青々としたコマツナが収穫を今か今かと待っているはずだった。だが二日経った今朝、畑の状況は一変していた。
無残に食い散らかされた作物、決して虫などではない。所々荒々しく掘り起こされた形跡はモグラなどではない。そもそもモグラは肉食で植物を食べることはなく、掘ったトンネルのせいで根が断ち切られたり株が浮いて枯れることはあるが、モグラがいるということはミミズなどの土を良い環境に導く生物であり、それを求めてやってくるモグラは畑の土壌環境が良くなった判断材料でもあるので一概に忌避される存在とは言い切れない。
それにうちの畑はモグラの塚が見つかり次第唐辛子を燻した煙を送り込んで対処しているが、その目印になるモグラ塚が無い。モグラ塚を探しているうちに、畝の一部にあるものを見つけた。
「これは……蹄の跡か?」
掘り起こされた土の周囲にいくつか残っているのは明らかに蹄の跡。幸いにも全部が雨に流されることなく残っていたようだ。蹄を持ち農作物を食害する動物は猪と鹿くらいのものだ。牛や馬も蹄を持つが、うちの近辺で野生の牛や馬がいるという話は聞いたことが無い。鹿についても同じで、もしかすると棲息しているのかもしれないが俺は見たことが無い。さらに言えば鹿の好む若草は今の時期の山には豊富にある。こんな開けた場所まで来る必要性がない。となれば残るのは……
「まさか次郎がやったのか?」
次郎はたびたびこの畑に姿を現したが、その際に畑の作物には一切手をつけていなかった。茶々に負けて縄張りを明け渡したからだと思っていたが、やはり野生の獣は食欲に我を忘れてしまうのか? そんなことを考えながら畝を調べていくと、若干の違和感が生まれた。柔らかい畝にはっきりと残った蹄の跡に感じた違和感。
果たして次郎の蹄はこんなに大きかったか?
次郎の足跡は何度も見ているし、次郎そのものもある程度の距離から見たこともある。その時に見た蹄よりもやや大きいような気がするのだ。専門家ではないのではっきりと断言することは出来ないが、つい最近見た次郎の体格にはそぐわない大きさの蹄の跡のようにも思えるのだ。
そこで昨日の講習会で猟友会の担当者から言われたことを思い出す。去年産まれた猪の生育状況が良く、各所で食害が出ているということだが、たった一年でこのサイズに成長することがあるとは思えない。親離れした雄猪が自分の縄張りを求めて放浪することは一般的に知られているが、この大きさは間違いなく数年は生き延びた個体のものだろう。念のために忌避剤を振り撒きつつ足跡を観察すると、改めてその蹄の大きさに背筋が寒くなる。
「マジかよ、本当に害獣駆除しなきゃならねぇ」
この大きさの蹄を持つ雄猪が流れてきたとしたら、この山の猪の勢力図が変わる可能性がある。ここまで畑を荒らすとすれば、簡単に餌が手に入ることに味をしめて集落のほうに向かう危険性が高くなる。年寄り主体の集落だ、対処なんて出来るはずがない。即座にスマートフォンを取り出し、アドレス帳のワ行の番号に発信する。
『宗ちゃん、どした?』
「コマツナ畑が猪にやられた。かなりデカい流れの雄かもしれないから、迂闊に外に出ないでくれ」
『わかった、他の奴らには俺から話しとくから。山には入らないほうがいいか?』
「頼む」
短く会話を交わしてから、次に連絡を入れたのは猟友会の担当者。万が一の事故の場合を想定した事前連絡は重要で、こういった連絡なしで誤射でもしようものなら保険が下りない可能性もある。それどころか下手をすれば公安が動くような事態になりかねない。
連絡を入れれば、各方面への対処は任せていいとのことだったので、すぐに自宅に戻って準備する必要がある。講習会で散弾銃の銃身を散弾用に変えたままだからだ。散弾程度じゃ猪は止められない。全身筋肉の塊の獣相手に貫通力の弱い散弾じゃ筋肉の鎧を撃ち抜けない。
それに……すぐに戻りたいのにはもう一つ理由がある。うちの畑に一番近い民家は我が家しかない。人を恐れなくなった猪は平然と家屋に侵入してくる。いくら茶々でも次郎よりデカい猪を相手にするのは分が悪い。そして今自宅にいるのは初美とシェリー、猪に対して有効な反撃手段を持たない者たちだ。
すぐに車に乗り自宅へ向かう。焦る心がついアクセルを踏み込む足に力を入れさせる。頼むから俺が戻るまでやってこないでくれよ……
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