6.解呪完了
あれはそう、確か両親が交通事故で二人とも還らぬ人となった頃だろうか。あの女と知り合ったのは。
俺は大学を卒業と同時に実家に戻り、親父と一緒に農業をやるつもりだった。当然ながら大学は農業大学で、大学に合格した時は親父もお袋も涙を流して喜んでくれていたが、卒業を前に突然就職しろと言い出した。初美も高校卒業と同時に上京することが決まり、両親を手助けしたかった俺は当然反発したが、結局俺は両親を説得しきれずにとある不動産会社に入社することになった。
これまで農業のことしか考えてこなかった人間が、いきなり土地売買やマンション開発なんて出来るはずもなく、仕事はうまくいかずに溜まる一方、入社早々から深夜残業は当たり前の生活になっていった。そして両親の突然の訃報、心に大きく穴が開いたような感覚は、まともな思考を阻害していたのかもしれない。
会社の上司に実家に戻りたい旨を伝え、出した辞表が一時預かりとなった頃、あの女が現れた。会社の総務に入社したと社内で噂になっていた、社長令嬢だ。毎日社長に同伴して出社し、定時になると仕事中でも即座に退社して六本木や西麻布あたりにタクシーで繰り出すという派手な遊びっぷりは、俺みたいな農家の倅には全く縁がないはずだった。
「佐倉君……だっけ? ちょっといいかしら」
昼休み中も終わらない仕事を片付けるためにデスクに向かっていた俺に声をかけてきた。今思えばうちの山の権利を狙っていたんだが、何かに縋りつきたかった俺はそのまま絡めとられていった。給料のほとんどを貢ぎ、もう自分の金が無くなった時に、ようやくあの女は本性を現した。
「山の権利、売っちゃおうよ」
先祖代々受け継いできた大事な山、そして農地、そもそも俺はそれらを護りたくて農業大学に進む決意をしたはずじゃなかったか。自分を見失っていた時、偶々両親の法要の件で初美が俺の元に来なければ、あのままあの女に差し出してしまっていただろう。
結局あの女との関係はそれっきりになり、自然消滅して終わったとばかり思っていた。だからこそ……再会した時、あの頃の自分が急激に甦ってきたのを感じていた。どうしようもなく苦しくて、しかし誰も助けてくれなかったあの頃の苦しみが……
そう、こんな感じだ。まるで熱病に侵されているような、生死の境を彷徨っているかのような感覚、思考する力を根こそぎ奪い取られていく感覚、自分ではない誰かの意思が入り込み、俺を好き勝手に動かしてしまうような感覚。何とか抗おうとするが、それすらも食い尽くされていくような不気味な感覚。
このまま全て終わってしまうんだろうか。あの女の思惑に乗ってしまうんだろうか。まだまだやりたいことはたくさんあるのに、ようやく俺の幸せを掴んだと思えるようになったのに。
寒い。暗い。苦しい。シェリーとフラムが来てから続いた温かな日々が嘘のように思えるくらい、俺の心は暗く苦しい。このまま何も考えることなく、流れに身を任せてしまえばいいか。もう深く考えることも億劫に感じられてきた。それじゃいけないとわかっているのに、すべてを投げ出したくなる自分がいる。
大事なものがたくさんあるのに、それらを投げ捨てていいはずがない。苦しさで弱った心を叱咤して、かろうじて自分を完全に見失わないようにする。いつまでこのまま耐えていけばいいのか、先の見えない不安が俺の心から気力を急激に奪っていく。誰か俺を助けてくれ、このままじゃ俺は俺じゃなくなってしまう……
『ソウイチさん、負けないでください』
『ソウイチ、今助けるから、もう少し頑張って』
ふと聞こえるはずがない声が聞こえたような気がした。様々な苦境に立たされながらも、必死に生きる俺の小さな小さな婚約者たちの声が。もしかしたら俺の弱った心が生み出した幻聴かもしれないが、それでも大事な人たちの声は俺に力を与えてくれた。
もう少し、もう少しだけ頑張ろう。そうすれば何か変わるかもしれない。あの頃はそんなことすら出来なかったんだから、今度はきっと変わった流れになるかもしれない。そう心に言い聞かせて、再び俺は苦しみの波に飲み込まれていった。いや、それは違うな、立ち向かうために自分から飛び込んでいくんだ。だから……待っててくれ……
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これで何度目の口移しになるのかしら、ソウイチさんに水を飲ませつつ、治癒魔法をかけ続けるけど、不思議なくらい体に疲労を感じなかった。フラムが言うには、この身体は魔力の集合体だから生半可なことじゃ魔力切れにならないって言ってたけど、まさにその通りね。以前の私だったらここまで魔法を使い続けていたら、意識を失ってしまってもおかしくなかったかもしれない。
「あれ? 手応えが……軽くなった?」
さっきまで感じていた、何かに邪魔されるような感覚が消えて、治癒魔法の通りがよくなったように感じる。ううん、間違いない、さっきより確実に魔法が効いてる。ソウイチさんの顔を見ると、次第に顔色がよくなってきてるし、荒かった呼吸も落ち着きを見せ始めてる。
きっとフラムが呪いを解除しはじめてるのね。術式のない原初の呪いだから、そこまでたどり着くのは大変かもしれないけど、いざ解呪が始まれば難しいことはないって言ってたから。これが呪いの専門家なら、解呪の妨害を術式に必ず盛り込む。でもあの女は呪いに関しては何の知識もない素人、偶々強い欲望が呪いに昇華しただけだから、妨害手段を講じてない。
やがてソウイチさんの顔色はいつもとかわらないものになり、静かな寝息を立て始めた。そしてまもなくしてフラムが疲れを隠さない表情を見せながら、ゆっくりと体を起こした。
「フラム……どうだった?」
「とりあえずこれで大丈夫だと思う。呪いの種は全部取り除いたから、あとは消耗した体力を取り戻せばいいだけ。まずは睡眠をしっかりとらせて、時折治癒魔法で補助してやればいい」
「そう……よかった……ってフラム、大丈夫なの? ふらついてるけど?」
「こんなに魔力を操作したの初めてだから……疲れた……私も寝る……」
「ちょ、ちょっと……」
フラムはそれだけ言うと、肌着すら身に付けないままソウイチさんに抱きついて寝息を立て始めた。本来ならはしたないって怒るところかもしれないけど、今回の功労者は誰が見てもフラムだから文句も言えないわ。それに……こんなにも疲れ切ったフラムを怒れない。何よりも……
「何だか私も……疲れちゃったみたい……」
ずっと気を張り詰めていたせいか、安心した途端に一気に疲れが出てきたみたい。私も眠気に抗えなくなってきちゃった。私も……少しくらいならいいわよね? 婚約者なんだから……
ずっとずっとこうしたいって願っていた。お互いの温もりを感じあいたいって思ってた。失われるかもしれなかったソウイチさんの温もり、今はそれに包まれて眠りたい……大好きなソウイチさんの温もりに……
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