2.記憶の中の女
農家にははっきりとした休日というものがない。動物・植物を問わずに育成をするということは、常に何が起こるかわからないという不安定要素を抱えているので、いつでも対処できるようにしておかなければならないからだ。
だがそんな毎日でも、幸運が重なって休息出来るようになる日というのも少なからず存在する。盆暮れ正月などは定期行事が多いので自ら調整するが、それ以外の日で完全に休める日というのは貴重だ。とはいえ今までは手持無沙汰になるのが嫌で、何かしらやる事を見つけて働いていたものだが。
以前サラリーマンをしていた頃も同じように休みがほとんど取れない状況だったが、今の暮らしとは充足度が段違いだ。あの頃は仕事もそうだが、プライベートでも色々と面倒なことを抱えていた。会社を辞めてからはそういった厄介事とも縁が切れ、精神的に解放されたことが大きい。
さらに言えば、今は一緒に暮らす家族が増えたということもある。両親が死んで初美と二人だけになった時、きっとこのまま疎遠になっていくんだろうと思っていた。初美は自分の仕事で忙しく、俺のことなど構っていられない様子だったし、俺もまた初美の負担になりたくなかったので、実家のことは関わらせないつもりだった。
そんな覚悟をうっすらと決めていたあの頃、今こんなに賑やかながらも穏やかな暮らしをしているなどと欠片も思わなかった。茶々と一緒の暮らしのはずが、初美が戻ってきて、さらに武君も初美と一緒になるつもりでやってきた。
何よりも大きいのは、シェリーとフラムの存在だ。身体はとても小さいが、二人が我が家に与えてくれた恩恵というのは計り知れない。彼女たちが来てくれたおかげで、初美が戻ってきてくれたのだから。
決して公にはできない存在ながら、もう我が家には欠かせない存在になった。シェリーが着てからおよそ一年半、様々なことがあったが、皆で力を合わせて乗り越えてきた。俺たちの理解の範疇をはるかに超えた世界からやってきた、小さな小さな俺の婚約者たち。
「チャチャさん、もっと食べてください」
「ワン!」
「クマコももっとお食べ」
「ピィ!」
縁側では二人が茶々とクマコにそれぞれおやつをあげている。こうしたほのぼのとした光景が我が家の日常となっている。これも全て俺たちが暮らす山のおかげだろう。もし二人が現れたのが、依然暮らしていた東京のぼろアパートだったらと想像すると、恐怖すら抱く。
他人の目に触れずに暮らすなどまず不可能、となれば見つかった時にどうなってしまうのかなど考えたくもない。こんな辺鄙な山で暮らしているからこそ、他者が入り込むことを防ぐことが出来たんだ。
これから先もこの暮らしを続けるには、何としてもこの山を護らなきゃいけない。以前は山を売れと言ってくる業者も多かったが、不景気のおかげで最近はその手の話も全くない。相続税の都合上、他にも所有していた山を手放したりしたが、この山だけは絶対に手放さないと決めていた。俺たちが小さな頃から育った山、言うなればこの山もまた実家のようなものだ。
「ピィ! ピィ!」
「どうしたのクマコ? 誰か来たの?」
「ピィ!」
「珍しいな、自動車のエンジン音だ。初美は宅配便が来るなんて言ってなかったが……」
おやつをもらい上機嫌で上空を舞っていたクマコが警戒の声を上げる。初美は荷物が届くなんて言っていなかったし、誰がこんなところに来るというのか。渡邊さんの場合はいつもここまでトラクターで来ることがほとんどなので、そもそもエンジン音が違う。今聞こえているのはかなり排気量の多いエンジンのそれだ。
宅配便のことを事前に確認するのは、いきなり訪問されてシェリーとフラムが見つかることを恐れてのことだ。ネット通販を頻繁に利用する初美からの提案だ。なので宅配便は常に日時を指定し、その時間帯にはシェリーとフラムには室内に隠れてもらっている。
「初美! 通販で何か買ったか?」
「えー? 何も買ってないよー! 宅配便の配達連絡もないしー!」
仕事中で手が離せないのか、部屋からはアニメソングのBGMとともに初美の返事が聞こえてくる。何かしら荷物が届く前には連絡が来るようにしているらしく、それが無いということはあのエンジン音は俺たちのあずかり知らない何かだということか。
郵便配達はバイクで来るはずだし、集落の住人にあんなエンジン音をさせる自動車で移動する者はいない。訪問販売や飛込営業なんてものも頭に浮かんだが、こんな僻地の住人を相手にしたところで大した売り上げになるはずがない。もっと市街地に近い住宅地を狙えば経費も時間もかからないし、そもそもこの集落が過疎化の道を進んでいるのは、営業をかけたところで見返りがないと様々な業種から見限られたからだ。今時コンビニすら無いのだから。
エンジン音は次第に大きくなり、ここに近づいてくる。通り過ぎるだけかとも考えたが、わざわざこの集落を通らなくても他県に向かうルートはいくつもあるし、ロードサイドも栄えているので、ここを通るメリットがない。紅葉散策ということも考えられなくはないが、それでもこんな奥地に来る必要なく楽しめるはずだ。
我が家に通じる農道を見ていると、そのエンジン音の正体が明らかになった。まともに舗装されていない農道を走るには間違いなく不向きな、真っ赤に塗装された低い車体と大きな車幅。絶対にこの集落の住人の持ち物じゃない。
「二人とも! 部屋に戻れ! 誰か来る!」
「わかりました!」
「わかった、クマコも山に戻って」
「ピィ!」
「茶々は俺のところで待機だ、いいな?」
「ワン!」
シェリーとフラムには急いで部屋に隠れてもらい、もちろんクマコも見つからないように山に戻ってもらう。茶々は最悪の場合二人が見つかりそうになった時、山に連れ出してもらうために待機だ。
「……嘘だろ」
走ってくる車の中が遠目で確認できた。運転席の男に面識はなく、記憶の中を探っても思い出すことはできなかった。だが……助手席で煙草を吸っている女にははっきりと見覚えがある。サングラスで目元が隠され、髪型も俺の記憶にあるものとは違っている。しかし纏う空気のようなものだけは忘れることができない。記憶に、いや身体の奥底に忘れることのできない傷痕になって残っている。
どうしてあいつがここに来る? ここはあいつが来るような場所じゃないはずだ。あいつの大嫌いな土と埃に満ちた、流行などとは縁のない場所のはずだ。もう二度と関わり合うつもりもなかったのに、どうして今になって……
考えがまとまらない中、真っ赤な外国車はゆっくりと我が家に近づいてくる。今になってやってくる真意はわからないが、俺の記憶の中にあるあいつは、俺から毟り取ることしかしなかった。はっきり言って嫌な予感しかないが、家の窓が開いていることは向こうからも確認できているだろう、今から居留守を使うのは難しい。
「……何しに来たんだよ、今更」
ついそんな言葉が零れ落ちる。過去に置いてきたはずの、苦い記憶の中にしか存在しなかった女が、今再び俺の前に現れようとしていた……
読んでいただいてありがとうございます。




