11.決着
沢に降りて大岩へと向かうと、その異様な光景に思わず固唾を飲んだ。ワンボックスカーくらいの大きさはある大岩が、無残にも砕けていた。砕けた中心あたりに付着した鮮血が、相当な衝撃でヒグマが激突したことを容易に理解させる。
だが肝心のヒグマがいない。大岩から山のほうに点々と血痕が続いている。
「ワンワン!」
「あっちか!」
いつもの散策ルートから大きく外れた方で、茶々がしきりに吠えている。急いで向かえば、山への入口あたりの地面に蹲る焦げ茶色の物体があった。茶々は距離をとりつつ、山に入らないように牽制している。
「茶々! 戻れ!」
「ワンッ!」
戻ってきた茶々には怪我をした様子はない。走り方にもおかしいところはなく、安堵に胸を撫でおろした。だがまだ問題は残っている。
「茶々、あいつはまだ生きてるのか?」
「ワンッ!」
茶々は吠えながらも視線はヒグマから離さない。ということは、あいつはまだ生きてるということ。満身創痍ながらも、逃げようとしているということ。決して小さくないダメージを負っているはずだが、ここで逃がしてしまうことは危険の種を芽吹かせることになる。野性の回復力は決して舐めてかかってはいけない。
こんなに弱っているんだから、保護してやればいいと思う連中もいるだろう。だがそれはあくまで危険の及ばない場所でぬくぬくとしている連中の意見だ。先ほど見せつけられた獰猛な獣性、あれが生活圏のすぐそばに存在しているという恐怖を味わったことのない連中の意見だ。
あの恐怖は当事者にしかわからない。この山に暮らすあらゆる生き物が奴に恐怖している。このまま放置してしまえば、この山の環境そのものが変化してしまう恐れすらある。この山を先祖代々受け継いできた佐倉家の人間として、それだけは絶対に認められない。
「……まだ動けるのか」
俺たちが来たことに気付いたのか、ヒグマは頭をもたげてこちらを見ると、ゆっくりと立ち上がろうとした。何とか逃げ延びて、身体を癒そうとしているのだろう。だが既に左前足は潰れて使い物にならず、四つ足で立ち上がることすら出来ないでいる。しかし……その目から覇気は消えていない。
「ソウイチさん……迷っているんですか?」
「ソウイチ、ここで禍根を残すことは出来ない。あれはここにいてはいけない生き物。苦しまないように止めを刺さないといけない」
「ああ、わかってる」
相当消耗しているのか、しばらく動こうともがいていたヒグマはこちらを見た。諦念か、それとも消えることの無い敵意か、その目に浮かぶ意識の光の内容を窺い知ることはできない。
お前に罪はない。お前はただ生きようとしていただけだ。どんな生き物にも命を繋ぐ権利は存在する。それが自然の掟だ。罪があるとすれば、身重だったお前の母親を、娯楽のためだけにここに連れてきた連中だ。そいつらに向ける怒りの炎を俺は消すつもりはない。
だが、この山の生きとし生けるもの全てにもまた、命を繋ぐ権利はあるんだ。お前さえいなければ、次の世代を残すことが出来たであろう生き物たちにも。そして俺たちのように、山と共に生きる人間にもだ。
お前はここで負けて、その命を終わらせるんだ。この山に生きるものたちを相手に、お前は負けるんだ。俺たちの全てがお前を上回った、ただそれだけだ。だが弱肉強食の世界、力劣るものが死ぬのは当然のこと。お前はその摂理のもとここまで生き抜いてきたんだ、誰よりもそれを理解しなくてはいけない。
片膝をつき、肘を落として脇を締め、さらにストックを肩と頬につけて固定する。俺が最も得意とする射撃姿勢、講習でもこの姿勢から外したことは一度もない。ハンドガードに添える手の力を抜き、狙いがぶれないようにすることも忘れない。
小さく息を吐いてスコープを覗き、照星を合わせて照準を定める。自分の愛銃、癖はよく理解している。静かに引き金を引けば、発射の衝撃が右肩から全身に伝わる。
放たれた弾丸は、今度は狙いを外さなかった。こちらを見るヒグマの左眼窩に命中したライフル弾は、眼球を撃ち抜き頭蓋内へと侵入する。炸薬により与えられた推進力とライフリングにより与えられた回転力の混ざった力は、頭蓋内で猛威を振るい、ヒグマの脳を破壊する。ヒグマは一瞬巨体をびくんと震わせると、耳や鼻から血を吹き出し、そのまま動かなくなった。
「……終わった、のか?」
「ワンッ!」
茶々がそばに寄って匂いを嗅ぐが、既にヒグマに生命の匂いは無かったようだ。ようやくライフルから手を離すと、手のひらにはじっとりと手汗をかいていた。そこで初めて自分がとんでもない奴と戦っていたことを再認識し、全身の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
「ソウイチさん、大丈夫ですか?」
「ソウイチ、しっかりして」
「心配するな、ちょっとばかり疲れただけだ」
二人が心配してくれているが、二人には悪いがその声がとても心地いい。ようやくこれで日常に戻れる、そんな気がした。だがやらなければならないことはまだ残っている。
『ブモ』
「次郎、終わったぞ」
生き残った猪たちを連れて次郎が沢へと降りてきた。次郎はヒグマの匂いを嗅いで死んだことを確認すると、俺たちのところへとやってきた。次郎も仲間を失って辛いはずなのに、リーダーとして気丈に振舞っている。
「すまなかったな、次郎。お前の仲間が命を散らして止めてくれなかったら全滅していた」
「ワンワン!」
『ブモ!』
茶々が俺の言葉を代弁してくれたのか、次郎は小さく鳴く。しかしその声に敵意はない。今この瞬間は俺たちは共に戦った仲間なのだから。
「ソウイチ、ヒグマはどうする? 解体する?」
「いや、出来ればここに埋めてやりたい。こいつだって望んでここにいた訳じゃないからな。このままここで眠らせてやりたい。次郎もそれでいいな?」
『ブモ!』
こいつを安らかに眠らせてやりたいというのは本心だが、それと同時にクマ肉なんてものが見つかったらとんでもないことになる。それも存在するはずがないヒグマ肉となれば、警察沙汰になるのは必至だ。そういう厄介事を避けるために単独で立ち向かうという危険を冒したんだ、ここにきて台無しにすることはできない。
「とりあえず……男手とスコップが必要だが……まずは少し休ませてくれ……」
これで終わったという安心感から、全身の力が抜ける。後始末が必要なのはよく理解しているが……とりあえず今は危機が去ったことへの安心感をゆっくりと噛みしめさせてくれ……
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