8.死闘
周囲に潜んでいたのか、それとも音を立てずについてきたのか、次郎の合図を皮切りに猪の軍団が姿を現した。猪たちは一斉にヒグマに向けて突進する。普通ならばヒグマにやられて終わりなのだが、さすがに複数同時に突進されると厄介なようで、ヒグマも少々てこずっている。
だがそれだけ、猪たちには決定打となる攻撃手段がないので、次第にヒグマが攻撃に慣れてくると、突進が当たらなくなってくる。まだヒグマの自由を阻害できてはいるが、このままではやられるのも時間の問題だ。ライフルを構えながら状況を見守っていると、次郎が時折こちらを確認するかのように視線を送ってくる。
その間も猪たちの突進は愚直に繰り返される。まだ四足歩行状態のヒグマめがけて進むが、鬱陶しそうに振り回す丸太のような腕で弾き飛ばされている。まだ爪での攻撃がないせいか、弾き飛ばされた猪は起き上がると再び突進を繰り返す。
『ふん、足止めとはなかなかやりおるわ。我のブレスをお見舞いしてやるとするか』
フェンリルの口に光が宿り、力を溜めているのがわかる。もしかしてあの猪たちはただ足止めのためだけにここにいるというのか?
『喰らうがいい!』
フェンリルの口から光が放たれると同時に、猪たちも散開する。いきなり猪たちが距離をとったことで優位を確信したヒグマは、その両足で斜面に踏ん張ると、威嚇のために立ち上がる。3メートルに届きそうな全長は、ただそこに在るだけでこちらの戦意を削り取る。
立ち上がったヒグマの腹のあたりに、フェンリルのブレスが直撃する。眩い光の奔流がヒグマへとぶつかり、思わず目を瞑りたくなるのを必死に堪えた。確かに凄まじい威力だと思うが、それはシェリーやフラムの身体のサイズで考えた時のこと。その懸念があるが故に、どうしても不安が残ってしまう。そしてその不安は現実のものとなってしまtった。
『グアァ!』
『ば、馬鹿な、かすり傷程度だと……』
フェンリルのブレスは確かに直撃した。ヒグマの体表にはその痕がはっきりと残っている。ヒグマの獣毛を焼き、皮膚の表面に火傷を残した。だがいかんせんその面積が小さかった。大きさで言えば小さめのハンカチくらいだろうか、ヒグマに致命傷を与えるには程遠い火傷は、ヒグマの戦意を削ぐことが出来なかった。
「効いてますよ!」
「これなら時間をかければ……」
「いや……最悪だ」
シェリーとフラムは火傷を負わせたことで表情を明るくするが、事態は深刻な状況に傾きつつある。はっきり言ってヒグマはまだ俺たちを舐めていた。猪の突進程度ではどうにもならず、自分が負けるなど微塵も考えていない。明らかな弱者として見下していた。
そんな弱者に怪我を負わされたのだ、怒りが生まれないはずがない。弱者によって自分の身体に傷を負う、圧倒的な力の差をもって自らの食糧となるべき存在からの、あってはならない反抗は、容易にヒグマの怒りの導火線を焼き尽くす。
『グアァアァ!』
『ブキィィ!』
怒りに満ちた一撃が、傍にいた一頭の猪に降りかかる。強靭な筋肉から生み出される膂力と鋭い爪による攻撃は、硬いはずの猪の獣毛に包まれた身体を容易に切り裂く。一撃で胴体を深く抉られ、夥しい量の鮮血をまき散らして転がってゆく猪。あまりにもあっけない結果は、さらにヒグマの怒りの炎に油を注ぐ。なぜこんな弱い連中に傷を負わされたのだとでも言うかのように。
憤怒の視線はそれだけで俺たちの自由を奪いにくる。このままでは危険だ。こちらとしても次の手を打たなければならない。
「茶々! 止めろ!」
「ガゥッ!」
指示を聞いた茶々が全身に力を込める。フェンリルの攻撃は最初から計算に入れていなかったが、まさかこんな形で戦況を乱してくれるとは……連れてくるべきじゃなかった。だがそんなことを嘆いてももう遅い、今からでも立て直さなくては。
「ガゥ!」
『グア?』
「いいぞ! そのまま! みんな散れ!」
茶々が不可視のブレスを放ち、それを受けたヒグマの動きが鈍る。フェンリルのブレスよりも威力は高いと思うが、これでも決定打にはならないはず。あの暴君はそのくらいでは終わらないはずだ。だからこその……ライフルだ。
猪が射線に入らないように声を上げると、一斉に俺とヒグマの間からいなくなり、遮るものはなくなった。茶々が早くと目で促してくるので、もうそろそろ限界なのだろう。逸る心を静めつつ、トリガーにかけた指に力を入れる。
周囲に轟く乾いた射撃音。放たれた弾丸は狙い通りにヒグマの頭部を直撃……しなかった。発射の瞬間茶々のブレスによる拘束を己の力だけで振りほどき、思わず銃口がほんの少し下がった。ヒグマの胸のあたりに小さな血煙が舞う。
「当たりました!」
「これならいける!」
「ダメだ! 体勢を立て直すぞ!」
確かにヒグマの身体に着弾した。だがそれだけだ、致命傷には遠く及ばない。生まれて初めて味わうであろうライフル弾の衝撃に戸惑っているようだが、すぐにこちらに向かってくるはず。より一層怒りを強めて。果たして奴がここに辿り着くのが先か、頭部を一撃で破壊できるのが先か、賭けは非常に分が悪い、悪すぎる。茶々のブレスもあとどれだけ放てるかわからず、動く相手に当てなければならないという状況になるかもしれない。しかも向かってくるヒグマの頭部を撃ち抜かなければならないなんて、百戦錬磨のマタギでもなければ無理だろう。
だがそれでもやらなきゃいけない。いや、やるんだ。少しでも弱気になれば、奴の覇気に飲まれてしまう。自分の心を叱咤しながら、再び弾室に弾丸を装填する。誤射を防ぐために弾室は常に空にしているので、弾倉には5発入っていた。今一発撃ったので、残り4発。チャンスは4回、予備弾丸も予備弾倉も持ってきているが、それを交換する猶予は与えてもらえないだろう。
どうする? どうする? クマコを呼んでシェリーとフラムだけでも離脱させるか? 奴は今の一撃で、俺がこの中で最も殺傷能力に長けていることを理解しただろう。標的を俺に変更したとしても不思議じゃない。フラムにクマコを呼ぶように指示しようとして……突如ヒグマが炎に包まれる。
「ソウイチ! 私たちだって戦える!」
「ソウイチさん! フォローします!」
胸ポケットから聞こえてくるのは、凛とした覚悟の籠った二つの声。彼女たちはずっと俺に護られることより、一緒に命を懸けて戦うことを選んだ。俺がその覚悟を無碍にしてどうする。彼女たちも大事な仲間であり、生涯を共にすると決めた存在なのだから。
「わかった! 力を貸してくれ!」
「はい! わかりました!」
「私たちの前には敵などいない!」
そうだ。俺たちにはまだ奴の知らない攻撃手段があった。魔法という、この世界には存在しない未知の方法が。これならきっと……
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