4.撤退
「茶々、行け」
「ワフ」
初美達が山を下りるまでの間、ヒグマを監視し続けたが、幸いにも奴が動き出すことはなかった。腹が満たされているのか、暢気に昼寝をしているようにも見える。あまりの警戒心の無さに、嫌な想像が頭に浮かぶ。
茶々は奴から一定の距離を保つように、大回りで奴の反対側に向かう。クマコは奴の上空で旋回を繰り返し、茶々に向かう先を教えているようだ。いくらクマタカでもヒグマとでは勝負にならない。そんな奴がすぐそばに来ているという恐怖にう震える足を必死に抑えつけ、茶々の様子を見守る。
「ワンワンッ!」
「!」
茶々が奴の風上に陣取り、威嚇の吠え声を上げれば、奴は体を起こした。昼寝の邪魔をしたらしく、荒々しく起き上がる様がここからでもよく見える。幸いにも奴はこちらに気付くことはなく、茶々のほうへと走り出した。
迅い。想像の数段上の迅さだ。急な上り坂を全く問題視せずに、奴は茶々との距離を詰める。やばい、まさかここまでとは思わなかった。
「茶々! 跳べ!」
俺の声が届くかどうかなんて問題じゃない。届くと信じて茶々に指示を出せば、茶々は即座に宙を駆ける。奴の上空、立ち上がっても爪の届かないぎりぎりの高さを跳躍した茶々は、そのまま上空へと駆け上がっていく。奴はそんな茶々をしばらく追いかけていたが、絶対に手が届かないと理解すると追いかけるのを止めた。
茶々が誘導している間、俺もじっとしていたわけじゃない。少しずつ距離を取り、そのまま獣道を引き帰す。途中何度も小さな沢をわざと渡り、匂いを消すことも忘れない。今回、あの場所で奴を見つけたことはとても幸運だった。
うちの山と向こうの山の間には谷があり、大きめ沢がある。一部は崖のようになっている場所もあり、沢の水は渡る者の匂いを分断してくれる。ましてやこちらには空を飛べる茶々がいる。匂いを辿られるような下手はしないはずだ。
「ワンワンッ!」
「茶々、よくやってくれた!」
山の入口、コンクリート舗装された林道まで戻った時、上空から茶々が降りてきた。もし奴に野性が強く残っていれば、生活臭のある場所には簡単に踏み込まないはずだ。何しろ今は山にふんだんに食糧があるのだから。だがもしこのまま奴を野放しにして冬を迎えたらどうなるだろうか。
きっと奴は冬眠しないだろう。冬と言っても北関東と北海道では寒さのレベルが違う。それに冬眠などしなくても、少し歩けば食糧はいくらでも見つけられる。人家の近くまで行けば、保存してある農作物や家庭ごみがあるし、もっと恐ろしい考え方をすれば……人間だってたくさんいるのだから。
奴をどうにかするには今しかない。何故ヒグマがここにいるのかを考えたところで奴がどこかに行ってくれるという保証はどこにもない。まだ今なら奴は山から下りてくることはない。今が千載一遇のチャンスだ。
「……茶々、俺は奴を……仕留める」
「ワンッ!」
狩猟犬の訓練など茶々にはしたことがないし、ましてや熊を追わせるなんて無謀かもしれない。だがそれでもやらなきゃいけない。もしヒグマが集落の他の人間に危害を加えれば、間違いなく山狩りが始まる。その際の拠点になるのは間違いなく山に一番近い我が家だ。警察、猟友会、マスコミ、部外者がたくさん押し寄せる中でシェリーとフラムが見つかったらどうなるか……その恐怖を茶々も理解してくれている。だからこそ、任せろと言わんばかりに一声吠えてくれた。
「頼むぞ、茶々」
「ワンッ!」
尻尾を振りながら俺の足に身体を擦りつけてくる頼もしい相棒の存在に勇気を貰いながら、我が家への道を急いだ。一刻も早く戦闘準備を整えるために……
**********
「タケちゃん、早く雨戸閉めて! アルミの雨戸だけど、無いよりはましだから!」
家に戻るなり、ハツミさんが雨戸を閉め始めた。私が動画で見たクマはとても愛嬌があって、恐ろしい獣には思えなかった。だけどきっとハツミさんの知るクマが本当の姿で、私たちが知っているのは特別に飼育されたクマなのかもしれない。
考えてみれば、私たちの世界でも危険な獣を飼いならして使役することがある。例えばワイバーン、凶暴な下級の飛竜だけど、飼いならすことで輸送に使ったり、騎竜として騎士が乗ったりもできる。ワイバーンを使役するには卵から孵化させる必要があって、卵の採取はギルドでもトップクラスの依頼だったっけ。
「ハツミ、閉めちゃダメ、ソウイチが戻ってくる」
「お兄ちゃんなら家の鍵で玄関から入ってくるわよ」
「でも……もし手間取ってるうちにクマが追いついてきたら……」
「怖いこと言わないで!」
縁側の雨戸を閉めようとするハツミさんをフラムが止めてる。フラムの気持ちはわかるけど、ここはハツミさんの指示に従ったほうがいいと思うんだけど……
「あれ? 何かしら?」
雨戸の隙間から外を見れば、何かがふらふらとした足取りでこっちに歩いてくる。人かと思ったけど、人は普段四つん這いで歩かない。じゃああれはいったい何?
「ハツミさん、フラム、何か来るわ!」
「まさかもうクマが?」
「違う、ハツミ、あれはクマじゃない。あれは……イノシシ」
「猪……あの右耳……もしかして次郎?」
こちらにやってくるのは明らかにイノシシ、それも特徴のある右耳を持ったイノシシ、ジローだった。ジローはいつもの悠然とした態度じゃなく、満身創痍といった様子でやってくる。車が通るはずの道を歩いて。
「何でこんな時に次郎まで!」
「待ってハツミ、ジローの様子がおかしい」
「様子がって……怪我してるじゃない」
ジローは私たちが警戒しているのを気にしていないのか、それともそこまでの余裕がないのか、一直線にこちらに向かって歩いてくる。そして玄関の前まで来ると、そこで座り込んでしまった。
「次郎! あっち行きなさいよ! こっちはあんたに構ってる暇なんてないんだから」
「……」
ハツミさんが大声をあげるけど、ジローは全く気に留めずに目を閉じた。確かに私たちでジローをどうにかできる可能性は低い。たぶんそれをわかってるんだと思う。でもそれならどうしてわざわざここに来たの?
「ハツミ、もしかするとジローはチャチャとソウイチを待ってるのかもしれない」
「お兄ちゃんと茶々を?」
「うん、チャチャはジローに勝ってるし、ソウイチはジローが手も足も出なかったドラゴンを倒してる。だとすればジローがどうにもできない事案を報せにきたと考えるほうが妥当」
フラムの言葉が理解できたのか、ジローはうっすらと片目を開いた。その瞳にはいつもの強者の輝きはなく、弱弱しい光が宿ってるだけだった。
どうしたらいいんだろう、私たちじゃジローをどうにかするなんて出来ないし、ジローが何を求めているのかもわからない。ただわかるのは……ソウイチさんとチャチャさんが戻ってこなければ何も始まらないということ。しばらく私たちとジローとの無言の時間が流れて、ようやく……
「今戻ったぞ……ってなんで次郎がこんなところにいるんだ?」
「ワンワンッ!」
ソウイチさんとチャチャさんが山から帰ってきた。かなり驚いてるみたいだけど、当然よね。だって玄関にイノシシが来てるんだから……
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