3.遭遇
「ソウイチさん、このキノコは食べられますか?」
「それはクリタケだな。いいダシが出るキノコだ」
「ソウイチ、これも?」
「それはよく似てるけどニガクリタケ、猛毒のキノコだ」
「宗一さん、これはどうですか?」
「武君、それは触っちゃダメだ。カエンタケっていう致死性の高いキノコだ。触っただけでも皮膚に炎症が起こる」
「だから言ったじゃない、あれはダメだって」
秋の色が強く出始めた山に騒がしい声が響く。少し騒々しいかもしれないが、このくらい騒がしければ獣除けにはちょうどいいかもしれない。
山の秋といえば山の幸、ということでようやく涼しくなってきたということもあり、皆でキノコ狩りに繰り出してきた。ちなみにクマコは上空の哨戒、茶々は少し離れて警戒している。両者の警戒網ならばそう簡単に獣の接近を許さないだろう。
「ヒラタケにナメコにクリタケ、結構とれたな」
「ソウイチ、マツタケはないの?」
「うちの山にはアカマツは生えてないから無理だな」
「フラム、自分が毒キノコばかり見つけたからってそんなに頑張らなくても……」
「シェリーはアケビも見つけたから余裕がある。私はまだ食べられるものを見つけてない。このままじゃ私は食事抜きに……」
「そんなことするはずないだろう」
うちの山には昔からアカマツが生えていないので、マツタケを得ることは出来ない。だがマツタケにも引けを取らない味の山の幸がたくさん採れたので俺としては気にしていない。元々山菜やキノコは熟練者でなければ食用のものはほとんど採れないので、素人が見つけられなかったとしても文句は言わない。そもそも自分の婚約者に食べさせないなんて意地悪をするつもりもない。
かくいうシェリーは籠の中に入っているアケビをうっとりとした目で眺めている。少し味見をさせてからずっとあんな感じだ。家まで我慢させれば良かったか?
「カキにナシにブドウ……それにアケビもあるなんて……」
「むぅ……シェリーの好物ばかりでずるい」
「ずるいって言われてもな……」
幸せそうなシェリーを恨めしそうに見るフラム。とはいえカキもナシもブドウも頂き物だが。頂き物と言っても馬鹿には出来ない、何故ならそれらは皆近所の農家からの頂き物なのだから。
自分の家で育てているところもあるが、協力関係にある農家からおすそ分けを貰うことが結構多い。例えば稲作農家の場合、稲わらの引き取り手として酪農家がある。乳牛の寝床に敷いて保温したり、糞で牛が汚れないようにするためだ。そしてさらに、糞と藁を混ぜて発酵させれば良質の肥料にもなる。
他にも色々と連携していることがあり、その流れで自分のところの作物をおすそ分けして味の評価を聞いたり、アドバイスをもらったりしている。なので多少見てくれは悪いかもしれないが、味は市販に出回るものと同等か、時にはそれ以上のものもある。なのでフルーツ好きのシェリーの顔は最近緩みっぱなしだ。
「お兄ちゃん、もういいんじゃない?」
「そうだな、このくらいにしておくか」
「えー? もっと採りたい」
山のしきたりを熟知している初美が切り上げようとすると、まだ目立った収穫をしていないフラムが駄々をこねるが、ここは従ってもらうしかない。これが山で暮らす者のルールでもあるのだから。
山の恵みは俺たちだけに与えられるものじゃない。山に生きる者すべてに与えられるものだ。山に生きる動物、昆虫、植物全てに与えられるものであり、俺たちだけで独占していいものじゃない。そして皆に分け与えることで山そのものが潤い、翌年再び恵みを与えてくれるという訳だ。
「そういうことなら仕方ない。私はソウイチの妻、同じく山に生きる者だから」
「それなら私も同じじゃない」
「シェリーはダメ、ソウイチにアケビもらったから」
「……わかったわよ、帰ったら分けてあげるから」
「やはりシェリーは親友、嬉しいことは分かち合うべき」
小さな婚約者たちの微笑ましいやり取りを眺めていると、茶々が音をたてずに戻ってきた。だが様子がいつもと違う。振られているはずの尻尾は静かなままで、しきりに遠くを気にしている。俺に視線の先を確認しろと言わんばかりに振り返る様子に、どこか胸騒ぎがした。
上空では先ほどまで楽しそうに鳴いていたクマコが静かに飛ぶだけになっていた。茶々が警戒している何かを見つけているのかもしれない。だが声すら出せなくなる何かとはいったい何なのか?
「……みんな、静かにしてくれ」
「……わかった、気を付けて」
俺の様子を見て、尋常ではないことが起こりつつあることを悟った初美が静かに応える。現在この山の頂点である茶々がこれ程まで警戒する相手、危険でないはずがない。流石は山育ち、こういうところの理解の速さは安心できる。武君に耳打ちして、出来るだけ大きな音を出さないようにしてくれている。
「……茶々、どこだ?」
「……」
茶々は一度だけ振り向くと、視線を前方に固定した。それは向かいの山の中腹あたり、木々がまばらになって下草の多い場所、一部不自然に地面が剥きだしになっている場所だ。だがそこに違和感を感じる。俺もあの山のことはよく見ているが、あんな場所にむき出しの地面なんてあったか?
ただの地面を茶々が警戒するはずもない。しばらくすると、茶々が警戒していた理由がわかった。むき出しの地面だと思っていたものが動き出したからだ。こげ茶色の体毛を持つそいつは、我が家でくつろいでいるかのように、実にのんびりとした動きを見せている。
茶々が警戒するのもわかる。向かいの山にいるというのに、身体にサイズがはっきりと理解できるほどの大きさは、目測でも3メートルくらいはあるだろうか。俺の記憶の中に存在する、とある動物と次第に一致しはじめる。
何故こいつがここにいる? ここにいてはいけない動物のはずだ。混乱する思考を何とか纏めようとするが、より一層わからなくなってくる。唯一はっきりしているのは、ここに俺たちがいることを奴に気付かせてはならないということ。奴はこのくらいの距離なら簡単に詰めてくる。人間の全力疾走など軽く凌駕する脚力をも持ち合わせているのだから。
「……お兄ちゃん、何がいたの?」
「……熊だ。デカいぞ」
「……わかった、タケちゃん連れて先に戻る。お兄ちゃんはどうするの?」
「茶々に攪乱させてから戻る。いいか、帰ったら雨戸閉めて絶対に出るな。夜までに戻らなかったら武君とバイクで逃げろ」
「……絶対に帰ってきてよね」
「ああ、わかった」
熊という単語を聞いて初美の表情が青ざめる。この近辺では目撃情報すらなかった熊、だが奴はツキノワグマじゃない。成体になったエゾヒグマだ。身体能力はツキノワグマの比じゃない。
「茶々、出来るだけ奴を反対方向に誘導してくれ。出来るな?」
「ワフ」
「……ごめんな、こんな危険な役目を押し付けて」
「クーン……」
俺はこれから茶々を死地に追いやろうとしている。だが今俺が打てる手はこれしか思いつかない。ヒグマに無手で立ち向かうなど自殺に等しい。何としても家まで戻り、ライフルを持ってこなければならない。散弾銃ではだめだ、一粒弾でも致命傷を与えられるかどうかわからない上に、散弾銃は射程が短すぎて、一撃で仕留められなければこちらがやられる。
茶々ならもし見つかっても空を駆けて逃げられる。奴に匂いを辿られる危険性も少なくなるはずだ。後は……
「シェリー、フラム、初美と一緒に戻れ」
「私たちも一緒に行きます」
「どこまでもソウイチと一緒」
「ダメだ! 連れていけない!」
「シェリーちゃん、フラムちゃん、お兄ちゃんを困らせちゃダメよ。熊は二人が思ってる以上に危険な動物なんだから」
「え? でもパソコンで熊の動画は何度も見たことありますし……」
「私たちなら大丈夫」
「ダメよ! お願いだから言うこと聞いて! お願いだから……」
俺について来ようとするシェリーとフラムだが、初美の消え入りそうな声に渋々従った。はっきり言って今の俺は二人を護りきる自信がない。茶々に誘導してもらうにしても、奴が俺に気付く可能性はゼロじゃない。追いつかれてしまえば一巻の終わりだ。
「心配するな、絶対に戻るから」
「……はい」
「……ソウイチ、信じてる」
二人の表情から不安の色が払拭されることはなかった。きっと今の俺は今までにないくらいに悲壮な顔をしているのだろう。そんな顔を見て不安にならないほうがおかしい。だがそれでもやらなければいけない。奴を家に近づけさせることだけは絶対に阻止しなければ……
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