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巨人の館へようこそ 小さな小さな来訪者  作者: 黒六
押しかけてきた花嫁
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10.またね……

 まだまだ緑に満ちる山の木々の下、あのクヌギの木へと歩みを進める。作業着の胸の右ポケットにはシェリーが、左ポケットにはフラムが陣取り、腹のあたりにはヒラタさんとヒーちゃんがしがみつく。茶々は少し先を先導してくれている。ちなみにクマコは上空で哨戒中だ。


 歩きなれた山道が下草の生い茂る簡素な道へと変わり、やがて一般人には判別がつかないであろう獣道へと姿を変える。せり出す木々の太い枝をかいくぐるようにしながら、決して楽ではない道を奥へと分け入っていく。


「……着いたぞ、相変わらずの姿だな、ここは」


 獣道が突然開け、クヌギの巨木が姿を現す。その幹からは大量の樹液を滲ませ、様々な昆虫たちに自然の恵みをもたらす姿はまるでこの山の虫たちの母のようにさえ思えてくる。ヒラタさんたちがここを産卵の場にしたことも容易に納得がいく。きっとこのクヌギがヒラタさん、そしてカブトさんやミヤマさんにとっての母親なのだろう。


「……フラム、着いたぞ」

「……うん」


 声をかけてもフラムはポケットから出ようとしない。ヒラタさんも作業着に爪を喰い込ませて、なかなか離れようとしない。その様子を見かねたシェリーが右ポケットから優しく語り掛ける。


「フラム、辛いのはわかるけど、あなたがそんな様子じゃヒラタさんたちも帰れないわ」

「うん……」


 そんなシェリーの表情も固い。ヒラタさんが訪ねてきてくれた時のフラムの喜びようを間近で見ていた彼女だからこそ、フラムが今どれだけ辛いかを察している。シェリーもカブトさんたちとの別れを経験しているので、その時のことを思い返しているのかもしれない


「ヒラタさん、ここならきっと健やかな卵を産めるはず。だから……」

「……」


 フラムの言葉に、ようやく離れるヒラタさん。ヒーちゃんは既にクヌギの朽木に上り、産卵に適した隙間を探し始めている。だがヒラタさんは朽木に登ろうとせず、根元でずっとフラムのほうを向いて動かない。


「ヒラタさん、私のことを想ってくれたのはとても嬉しい。だけど私はヒラタさんのお嫁さんにはなれない。ヒラタさんのお嫁さんはヒーちゃん。だから……ヒーちゃんを護ってあげて」

「……」


 ヒーちゃんは朽木に開いたいくつもの穴の中から、最も状態の良いものを一生懸命選んでいる。しかしそんな場所は種類を問わず様々な生き物が狙っており、中にはヒーちゃんに明確な敵意を見せるものもいた。ヒーちゃんも通常のヒラタクワガタの雌よりはるかに大きいので、簡単に後れを取ることは無いと思うが、今はお腹に卵を抱えているので動きが鈍ることも考えられる。


 ちょうどヒーちゃんが覗き込んだ穴から一匹の野ネズミが顔を出し、ヒーちゃんが慌てて距離を取るが、野ネズミは大きな獲物が見つかったとばかりにヒーちゃんに狙いを定めた。クワガタムシやカブトムシの天敵といえば一般的に知られているのはタヌキやキツネ、イタチなどの哺乳類と、カラスなどの鳥類だが、実はネズミなども甲虫を捕食する。卵を持った昆虫はごちそうに見えるに違いない。


「ヒラタさん! ヒーちゃんが危ない!」

「!」


 フラムの叫びにヒラタさんが反応し、ヒーちゃんのもとに駆けつける。野ネズミはヒーちゃんと同じくらいの大きさだが、ヒラタさんと比べれば半分くらいの大きさしかない。俺たちが追い払ってやることは簡単だが、産卵という事前の摂理に従うのであれば、野生のルールを俺たちが捻じ曲げることはできない。こういう障害をも跳ねのけることで、強い個体になるのだから。


「!!!」

「ヂィッ!」

「ヒラタさん!」


 ヒーちゃんに襲い掛かろうとした野ネズミの身体をヒラタさんの大あごが捕らえる。これまで捕食の対象としか見ていなかったヒラタクワガタからのまさかの反撃に驚く野ネズミだが、もう遅い。強靭な大あごに胴体をがっちりと挟まれた野ネズミは、大事な嫁を狙うというヒラタさんの逆鱗に触れてしまったおかげで、その大あごの威力を自分の身体で味わうことになった。


 クワガタの大あごは決して切断に適した形状ではない。しかしその力は万力のように野ネズミの胴体を締め付ける。加えられる力に抗いきれずに、鈍い音とともに砕かれる野ネズミの骨。大事な嫁を狙った愚か者がぐったりと動かなくなったのを確認すると、ヒラタさんは無造作に野ネズミを投げ捨てる。後は森の中の有象無象の虫たちが始末してくれると言わんばかりに。


 そして固まったままのヒーちゃんの傍に寄り添うと、もう大丈夫だと言うように触覚を触れ合わせる。さらにヒラタさんは産卵用の穴が安全かどうかを確認し、それを見たヒーちゃんが穴へと入っていく。ヒラタさんが安全だというのなら、といったところだろう。


「ヒラタさん……ちゃんとヒーちゃんのことを護ってあげてね」

「……」


 フラムを手のひらに乗せて近づけてやると、二人はじっと見つめ合う。昨年秋から約束し、今年の夏を共に暮らした仲間だ。本当は別れたくないのだろうが、ヒラタさんにクワガタとしての生をまっとうさせるには必然の別れだ。そして産卵という命がけの作業をこれから終えなければならない。おそらくヒラタさんのやるべきことはもう終わっているだろうが。


「……じゃあ、またね。今度はもっといっぱい遊ぼうね」

「……」

「……ソウイチ、行こう」

「もういいのか?」

「うん、だってヒラタさんも辛そうだから……」


 そう言うフラムは目にたくさんの涙を湛えて、しかしヒラタさんに心配かけないようにそれを零すことだけはするまいと平静を装っている。心優しい彼女の思いやりを無碍にすることは出来ない。他の生き物にヒラタさんたちの存在を教えることのないよう、ゆっくりとその場を離れる。そしてようやく踏み固められた山道へと戻ってきた途端……


「うわああぁぁぁん……ヒラタさあぁぁぁん……」

「フラム……今だけは思い切り泣いていいのよ」

「うわああぁぁぁん……」


 泣きじゃくるフラムに優しく声をかけるシェリー。しかし泣くことを止めないのは、大事な仲間を失うことの辛さをよく理解しているからだろう。そしてフラムは知っている、ヒラタさんとはもう会えないだろうということを。確かにヒラタクワガタやオオクワガタの類は二年以上生きる個体がいる。そもそもヒラタクワガタは完全に成熟するために冬を越す必要がある。ヒラタさんと出会ったのも越冬に入る前だった。


 しかし二年より長く生きるとなれば、それは自然の摂理から大きく乖離した生き方になる。二年で成熟した個体は繁殖行動に移り、残った全ての力を使い切り子孫を残す。もし繁殖行動をさせなければもっと生きることが出来るだろうが、それがヒラタさんにとって幸せかどうかを俺たちが判断してはいけない。


 ドラゴンの力で進化したとはいえ、産卵行動まで変わったとは考えにくい。きっとヒラタさんもまた自分のことを理解ていただろう。


「ヒラタさんは……自分が長く生きられないことを知ってた……だから……ヒーちゃんとの子供を遺すことを選んだ……ううぅ……」

「フラム……」


 こんな時に気の利いた言葉をかけられない自分が情けない。だがもし俺が茶々とこんな別れをしなければならなくなったとしたら……きっと声をあげて泣くだろう。それだけ濃密な時間を一緒に過ごしてきたという自負もある。フラムもまたヒラタさんと濃密な時間を過ごしていたんだ。


 泣きじゃくるフラムを連れて家に帰ると、初美もその心情を察してか声をかけることはなかった。そしてフラムはそのまま自分のベッドに潜り込み泣いていたが、やがて泣き疲れて眠ってしまった。




**********




「ソウイチ、おはよう」

「おはようフラム、もういいのか?」

「うん、いつまでもめそめそしてたらヒラタさんに笑われる。それにヒラタさんとはまた会うって約束した」

「フラム……それは……」


 翌朝、元気に挨拶してきたフラムに少々驚いた。そしてフラムの話した内容にも。もしかしたら自分の世界に入り込んでしまったままなのかと思ったが、その後に続く言葉に合点がいった。


「ヒラタさんの子供たちが私に会いに来てくれる。ヒラタさんの子供たちに無様な姿は見せられない」

「そう……だな。フラムはお姉さん的立場になるんだしな」

「そう、だからいつまでも落ち込んでいられない」


 フラムはヒラタさんとの最期の約束のことを言っているようだ。ヒラタさんの子供にフラムのことが伝わるかどうかは分からないが、あれだけフラムのことを想っていたヒラタさんのことだ、その程度のことは平気でやってのけるかもしれない。


「なら今度は我が家で冬越しさせられるように準備するか」

「うん!」


 もし本当に来年夏に我が家に来てくれたのなら、今度は越冬出来るような準備をしておこう。産卵は難しいかもしれないが、越冬だけなら何度もやったことがある。フラムの顔が一層明るく輝く。


 これまでカブトさんやミヤマさんとの悲しい別れを経験してきたが、今度の別れは悲観するものじゃない。それはフラム自身がよく理解している。新たな世代に命を繋ぐために必然の別れ、未来のための別れだ。


「大丈夫、ヒラタさんは絶対に約束を守ってくれる」

「そうだな、昨年の約束を守ってくれたんだからな」


 若干静かになった我が家、しかしこれはあくまでも一時的なものだ。きっと来年の夏になれば、ヒラタさんの子供たちがやってくる。とても騒がしい夏が約束されたも同じだ。熱く賑やかな夏を今から期待しておこう。



これでこの章は終わりです。

次回は閑話の予定です。


読んでいただいてありがとうございます。

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