10.救世主
「ありがとうございましたー」
汗を拭いながらトラックを走らせる運転手を見送りながら、ほっと一息つく。
「もう出てきて大丈夫だ」
「……はい」
寝室の襖戸の陰からシェリーが恐る恐るといった様子で顔を出す。何度も周囲を見回しながら、ゆっくりと歩き出す。
「ワンワン!」
「はい、大丈夫です」
茶々が心配するように吠えれば、シェリーは誰もいないことを確認して居間へと出てきた。およそ二時間ほど隠れてもらっていたので、さぞ窮屈だっただろう。
「……ソウイチさんとハツミさん以外の巨人を初めて見ました。なんかこう……怖かったです」
「あの態度はちょっとな……」
シェリーは未だに怯えの色を隠せないでいる。それを見た茶々がしきりに顔を舐めて慰めているが、正直俺もあれはどうかと思った。いくら忙しいとはいえ、もう少し配慮してくれても良さそうなものだが。
「あーもう! 何なのアイツ! 荷物が精密機械だらけだってわかってんの?」
初美がジーンズにTシャツというラフな格好で自分の部屋から出てきた。まだ怒りが収まっていないようだが、それも仕方ないと思う。
「あれだけの荷物、それも精密機械なのに運転手一人で来るとかあり得ないんだけど!」
そう、初美が怒っているのは初美の荷物を運びこむ人員が運転手一人だったということだ。何やらもう一人来る予定のはずが急病で来られなかったとの話だったが、実際は違うだろうと思ってる。というのも運転手は明らかに高齢で、きっとここが田舎だから主要メンバーを寄越せなかったんだろう。引っ越し業者は大概一日に数件こなすが、ウチだと他に回れる余裕がなくなるからな。
「お兄ちゃんもごめんね、手伝わしちゃって」
「いいよ、あのまま揉めてても進まないだろ」
いくらなんでも初美に重量物を持たせる訳にはいかないし、偶々俺が居合わせたので運び込みを手伝った。あまり他人に長居してほしくないというのもあったが。勝手に歩き回られてシェリーが見つかる可能性も捨てきれなかったのが大きな理由だ。
「ハツミさん、私にお手伝いできることはありますか?」
「いいのよ、シェリーちゃんはそのままで。シェリーちゃんがいてくれるだけで疲れが吹き飛んじゃうわ」
「は、はあ……」
どうも怒りのせいで自重することが出来なくなっているようだ。いつにも増してシェリーへの溺愛ぶりが激しい。いつもは軽く受け流すシェリーも若干戸惑っているようだ。
「そっちの進み具合はどうだ? 力仕事なら手を貸すぞ?」
「一通り箱から出したから大丈夫。あとは配線つないで立ち上げればいいだけだから」
初美の荷物のほとんどはパソコン類、そして模型製作の道具だった。衣料品の荷物が段ボール箱三つしかないっていうのが二十代半ばに入ろうかという女性としてどうなのかという不安は残るが、昔から着るものには興味を示さない傾向があったことを思い出して納得した。聞けば東京でも部屋着はずっと高校時代のジャージだったらしい。その恰好で平然とコンビニに買い物に行ってたそうだが、高校時代のジャージって背中に大きく名前入りゼッケンが縫い付けられてたやつだよな。我が妹ながら鋼の精神の持ち主であるこちに感心する。もしかすると本人は全く気にしてないだけなのかもしれないが……
「冷蔵庫の麦茶もらうね? 一休憩したら細かい作業が待って……」
「ん? どうした?」
「ハツミさん?」
台所に向かおうとした初美の動きが突然止まり、黙り込んでしまった。その目は一点を見据えて動かない。突如起こった異変に俺とシェリーが問いかけるも反応がない。ただその場に立ち尽くしたまま、じっと一か所を見つめている。その視線の先には蠢く小さな黒い影。あ、やばいかもしれない。
「嫌ぁぁーーーーーーっ!」
突如大声で叫ぶと頭を抱えて蹲る初美。固く目を閉じ、いやいやとばかりに頭を振って拒絶の意思表示をする。
「誰か! 誰か! それを何とかして!」
「ハ、ハツミさん?」
「ワンワン!」
初美の豹変ぶりに理解が追いついていないシェリーはただオロオロするばかり。茶々も何事かとしきりに吠えているが、俺はその原因を理解してしまった。初美の視線の先にあった黒い影、あれがすべての元凶だ。
初美が見たのは一般俗称『G』、つまりはゴキブリだ。うちは裏が山なのでゴキブリは日常茶飯事だが、初美は小さな頃からゴキブリが大の苦手だった。上京する前までは燻煙剤やベイト剤を使って入り込まないようにしていたが、茶々に悪い影響が出るかもしれないので最近は控えていた。暖かくなってきたので活動を始めたらしい。
「ソウイチさん! ハツミさんが!」
「心配しなくていいぞ、初美はあの虫が大嫌いなだけだ。すぐに叩いて始末するから……」
「わかりました、討伐すればいいんですね」
引っ越し業者が置いていった梱包用の古新聞を丸めて準備していると、シェリーが剣を抜いてゴキブリに向かう。だがゴキブリはあの素早さだ、果たしてシェリーが追いつけるのか?
「私だって何もしていなかった訳じゃありません。魔力の制御の訓練はしてたんです」
ゴキブリは自分に迫る何かを感じ取ったのか、あの素早い動きで逃げようとする。だがシェリーの動きはそのはるか上を行っていた。逃げるゴキブリに瞬間移動のようにも見える速度で近づくと、いとも簡単にゴキブリの黒光りする身体を分断してしまった。信じられない光景に思わず古新聞を取り落としてしまう。
「ハツミさん、あの黒いのは討伐しましたから大丈夫ですよ?」
「ふぇ? 本当? ありがとうシェリーちゃん! シェリーちゃんはアタシの命の恩人だわ!」
「大袈裟だろ、それは」
「大袈裟なんかじゃないよ! もう火をつけてこの家ごと燃やそうかと思ってたんだから!」
「燃やすんじゃねぇよ!」
とんでもなく恐ろしいことを口走る初美。だがこれから気温も上がって、ゴキブリがより活発に動き始めるのも事実。かといってベイト剤は茶々が誤飲するかもしれない。さてどうするか、これからこんな騒ぎが頻繁に起こるとなれば面倒だ。
「まいったな……これから暑くなるのに初美がこの調子じゃ……」
「あの黒いの、これからたくさん出没するんですか?」
「ああ、俺は平気だけど初美がな」
「ハツミさん……」
シェリーは初美の様子を窺うと、しばし考え込んでから表情を明るくした。ようやく復帰した初美と俺に笑顔を見せると、嬉しそうに口を開いた。
「ソウイチさん! ハツミさん! 私に出来ることが見つかりました!」
一体何を言い出すのかと兄妹揃ってシェリーを見ると、彼女は腰の剣の柄に手を置いて強い意思のこもった眼差しを返してきた。そして自信に満ちた顔で言った。
「私、あの黒いのを討伐します!」
そう宣言したシェリーは、念願だった討伐の仕事が出来る喜びに鼻息を荒くしていた。
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