15.共鳴
再び繋がった音声、粗いノイズまじりに聞こえるのは茶々の遠吠えだった。茶々の遠吠えを聞くのはいつ以来だろうか、普段は無駄吠えや遠吠えをしない茶々が久方ぶりに見せる遠吠え、聞いていることらの胸が締め付けられるような切ない遠吠え、そしてその意味はだいたい理解している。
「チャチャ様……とても悲しんでいらっしゃる……」
悲しいよな、辛いよな、自分の力が及ばないなんて、大事なものが奪われていくさまを見ていることしか出来ないなんて。こんな苦しみから逃げたいって思っても、誰もお前を責めたりしない。そもそも一介のポメラニアンにそこまでの負担を負わせてしまった俺が悪いんだ。
「いいよ、茶々。もういい、もういいんだ」
「ワォォォーーーーン! ワォォォーーーーン!」
ヤツの内側にいるフラムがこうするしかないと決めたんだ、他に手立ては無いんだろう。理解は出来るが納得はできない、だが受け入れるしかない。この苦しさを吐き出せるものなら吐き出して楽になりたいがそれだけは出来ない。フラムはもっと苦しい状況にあるのだから。
自分が消えることを受け入れなければならなくなった時、俺はあんな風に冷静に判断できるだろうか。涙をぽろぽろ流しつつも、魔王を抑え続けるようなことが出来るだろうか。俺の嫁は何という強い女性だろう。
「ああ……チャチャ様……おいたわしや……」
茶々の遠吠えはなおも続く。その切迫した声にカルアは声を抑えて涙を零す。茶々の言葉がわかる彼女は、その遠吠えに込められた切なる願いに胸を苦しめている。フラムを助けたい、助けられるだけの力が欲しい、俺にもその想いは強く伝わってくる。更なる力の渇望が、そしてそれが果たされない絶望が。
「茶々……」
誰もが言葉を失う中、茶々の遠吠えだけが悲しく繰り返される……
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その感情をもし言葉にすることが出来たなら、その思いを誰に伝えただろうか。しかし悲しいことに茶々はそれを言い表す言葉を知らない。そういう感情はもちろんある、近い種族の者ならばその意味を理解してくれる、しかし最もその思いを届けたい者に届かない。
茶々にとって最も大事な存在は宗一だ。自分を本当の家族として受け入れてくれた存在、何があっても護ろうと心に決めた存在。茶々にとっては宗一は全てに勝る、それ故に如何なる強敵に相対したとしても怯まない。他の犬たちのことなど正直どうでもよく、宗一のためだけに生きてきた。
最初にシェリーを見つけた時、その存在の真意を理解できなかった。ネズミのように小さな、けれども人間と同じような姿かたちをした不思議な存在。これを見せたら宗一は喜んでくれるだろうか、そんな思いを抱いていた。
結果は上々、いやそれ以上だった。あまり笑顔を見せなかった宗一がよく笑うようになった。それが茶々には何よりうれしかった。彼女がいれば宗一はもっともっと笑顔になれる、そう確信した時から、シェリーは茶々にとって宗一と同じくらい大事な存在になった。
そしてさらにやってきたシェリーの親友フラム、当然宗一の笑顔はより多くなった。感情を表に出すことが少し苦手な小さな女の子、当然フラムもまた茶々にとって大事な存在になった。これまで宗一と二人きりの生活は平穏ではあったが、宗一の笑顔の少ない生活。その頃に比べれば遥かに明るくて楽しい生活、それを護るためならばどんな苦境に飛び込むことも厭わなかった。
未知なる力を得ることの恐怖も、誰も行ったことのない世界へ行くことも、全ては大事なものを護るため。大事な存在の悲しい顔を無くすため。その為だけに茶々は戦ってきた。そしてその全てに勝ってきた。そのことが自信につながったとしても不思議なことではなく、そしてその力が茶々に慢心を生んだとしてもそれは仕方のないことだろう。
だが今、茶々は経験したことのない苦境に立っていた。茶々の目に映るのは、フラムではあるがフラムではない存在。フラムの匂いは消えていない、しかしとても嫌な匂いを発する何者かがフラムの身体を占領している。いつもなら圧倒的な力の差をもってフラムを奪還しているはずだった。
茶々の全力ならば、その匂いの元を消し去ることは可能、それは理解している。理解しているが故に、その行為は残ったフラムの匂いもまた消し去ってしまうことも理解できた。フラムを護り、取り返すための攻撃でフラムを消し去る。その矛盾に茶々は動けないでいた。
葛藤、苦悩、そういった類のものが茶々の心を苛む。そして敵は茶々のそんな姿を見て確信している、こいつには自分を滅ぼすことなどできない、と。そしてその思惑通り、茶々は動けない。
そんな時、宗一の声が聞こえた。宗一は怒っていた、大事な存在を奪われたことへの怒り、そして今まさに消し去られそうになっていることへの怒り。宗一の怒りは茶々の怒り、だがそれは敵にだけ向けられたものではない。何もできない自分に対してもまた、茶々は怒っていた。
突如、フラムの匂いが強くなる。それはフラムもまた苦境に立ちながらも戦っている証だった。しかしその戦いは、大きな犠牲を前提としたものだった。茶々に自分ごと敵を消し去れという、到底受け入れられない戦い方。だがそれを拒み続ければ間違いなくフラムは消える。戦うことも逃げることも、経過を見守り続けることもできない八方ふさがりの状況に茶々は葛藤する。
さらに茶々の葛藤を大きくする衝撃、それはフラムの本心の吐露。死にたくない、消えたくないという心の叫び、そしてこぼれる涙。それでも茶々には為す術がない。茶々の心の中で大きくなる感情、まさしく焔、いや業火の如く燃え上がる激しい感情。それは怒り、何もできない自分への怒り、そして大事なフラムを奪おうとする敵への怒り。身を焦がすほどの怒りの炎を心の内に宿しながらも、何もできない自分の悲しみ。それらが茶々を葛藤させ、渇望させる。
茶々の遠吠え、それは悲しい渇望、哀れな切望の表れ。もっと自分に力があれば、という願い。決して誰にも叶えることのできない不毛な願い。されど怒りの炎に心を焼かれる茶々の遠吠えは止まらない。
あの憎い敵を倒す力が欲しい、卑怯な手段で大事なものを奪う敵を滅ぼす力が欲しい。
茶々は望む、そうすれば願いは届くと知っているから。かつて自分がすべてを失いそうになった時、助けてほしいと願った結果、それは叶った。宗一の笑顔が欲しいと願い、それも叶った。ならば今回もまた叶うはずだと信じて。
『焔の君……もう無理だ』
白い子犬がそう言葉をかけるが、それでも渇望は止まらない。切望は絶えない。誰かがきっと救いの手を差し伸べてくれるとひたすらに信じて、他の誰にも届かぬ願いを乗せた遠吠えを繰り返す。
一体どれほど繰り返しただろうか、それでもまだ遠吠えを続ける茶々の願いは、予想外のところから拾い上げられる。茶々の心の深い深い部分、茶々の力の源となっているモノから、それは大きな波となって押し寄せる。
『ヤツが憎いか……ならば我が力を託そう、我を取り込みし者よ……』
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