5.ピンクの雪
「ソウイチ、まだ芽が出ない」
「そりゃ出ないだろ、昨日播いたばかりなんだからな」
フラムが育苗箱を眺めて不安そうな顔をするが、たった一晩で発芽する種にお目にかかったことはない。砂漠の植物の中には、僅か数日の雨で発芽成長するものもあるらしいが、そういう類の種は綺麗な花よりも子孫を残すための花であることが多い。例えばとにかく受粉させるためにとても臭い匂いを発して虫を集めて受粉させるような花もあるが、正直言って二人にはそんな花を育ててほしくはない。
だがフラムの気持ちはわかる。俺も小学生の頃、アサガオの種を播いていつ芽吹くか心待ちにしたものだ。農業に従事してからは大量に種を播いたり、ほぼ機械的に育苗用の種を播いたりしているうちに、そういう思いを忘れてしまうようなことは避けたい。
「ソウイチさん、不思議なこともあるんですね。ピンク色の雪が落ちてきました」
「シェリー、何を言って……本当だ、ピンク色の雪だ」
「何を言ってるんだ?」
「だってほら、こんなのが……」
シェリーが両手で掲げて見せたのは、一枚の桜の花びら。集落の中心部では桜を植えている家も多いが、この家の周辺では桜を植えてあるところはない。唯一あるとすれば、うちの山の山頂付近にある一本桜くらいのものだ。もうそろそろ咲く頃だとは思っていたが、家にまで花びらが飛んでくるのは珍しい。
がっしりとした幹、広く伸ばした根、それに支えられるように、大空を埋め尽くさんとする枝に咲き乱れる花。佐倉家の人間以外立ち入り禁止にしているため、俺たちしか見ることのできない素晴らしい桜だ。だがどういう訳か、散った花びらが周辺に飛ばされることはほとんどない。
春の強風に舞い上がる光景は何度も見たことがあるが、ほぼ全ての花びらが山の中腹あたりに落ちていく。そのせいでうちの山に桜があることを知らない集落の住人も多い。それはともかく、花びらが飛んでくるということは、開花が始まっているということだろう。
「これがお花なんですか?」
「ああ、これが桜の花びらだ」
「わあ……これが……」
まるで精巧に織られた薄桃色のシルクのような花びらを興味深そうに見つめるシェリー。そういえば桜を見てみたいって言ってたな。畑のほうも急ぎで何かしなきゃいけないこともないし、一日くらいはいいだろう。ここまで花びらが飛んできたのは、もう見ごろだと教えてくれたのかもしれない。
「そろそろ頃合いみたいだし、皆で花見に行くか」
「ハナミ、ですか?」
「知ってる、花を見ると言いながら酒と料理を味わうこの国独自の儀式。若い兵士はバショトリという過酷な任務を任されるという……」
「あながち間違いじゃないがな」
おそらくテレビで得た知識だろうが、概ねその通りだというのが少々情けなくもある。だがうちの花見は純粋に桜を愛でるもの、弁当くらいは食べるが酒は厳禁だ。というのも一本桜までは山道を歩くことになるので、酒に酔った状態ではとてもじゃないが歩けない。
「え? 御馳走ないの?」
「弁当くらいなら用意するぞ」
「ソ、ソウイチさん、イチゴは? イチゴはありますか?」
「ちゃんと用意するから安心しろ」
「「 わーい!」」
フラムは花より団子といった感じだが、シェリーまで乗ってくるとは思わなかった。それにしてもどれだけイチゴ好きなんだ? 現状うちのイチゴのほとんどはシェリーが消費してるぞ。
「ソウイチさんの作るイチゴはとても甘くて美味しいです!」
「私も食べる、シェリーにだけソウイチの味を独り占めにはさせない」
「二人分用意するから安心しろ」
にっこりと微笑んで言うシェリー。こういう顔を見ると、農家をやっていて良かったと心から思える。大規模農業で儲ける農家もいるが、俺はこうして消費者の顔が見える農業のほうが性に合ってると思う。自分の努力の結晶をしっかりと理解してくれる人に届けたいと思うのは決して我儘じゃないはずだ。
生活は裕福とは程遠い状態だが、やはり自分が丹精こめて作ったものは自分が納得できる人に食べてもらいたい。大量に出荷して売れ残って、廃棄処分になるのを想像するととても心が痛む。少なくともシェリーもフラムも俺の苦労を理解して味わってくれるのが嬉しい。
「明日も晴れらしいし、この様子だと風も強くない。絶好の花見日和だぞ」
「とても楽しみです!」
「チャチャとクマコも連れていっていい?」
「ああ、もちろんだ」
茶々は元より連れて行くつもりだし、クマコは現地で合流してもいい。となるとクマコ用に鹿肉を解凍しておかなくちゃいけない。我が家に遊びに来ているとはいえ、いずれは自然に帰ることになる以上、加工品の味を覚えさせたらまずい。もし加工品の味を求めて人里に降りて、不幸な事故に遭ってしまえば悲しむのはフラムだからな。
初美と武君は今日は徹夜明けらしいので、一応声はかけるが無理強いはしない。春とはいえ睡眠不足で山登りさせるのは危険だし、当然そのことは初美も理解してるはず。皆で一緒に行ければいいが、無理をさせるつもりはない。今回はあくまでシェリーとフラムに桜を見せるのが目的だから。
一年ぶりに合う一本桜、俺たちが小さい頃は毎年成長を見守ってくれていたうちの山の守り神ともいえる存在。今年は新しい家族を紹介することになりそうだ。もしかしたらここまで花びらを飛ばしてきたのは、シェリーとフラムに会いたいからかもしれない。
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