芽生え
閑話です。
時は少し遡り、茶々がフラムとともにシェリーを連れ帰って数日のこと、完膚なきまで打ちのめされたフェンリルは遠く離れた鬱蒼とした森の中にいた。周囲には戦いを挑んできた身の程知らずの魔物たちの残骸が積み上げられてあるが、フェンリルはそれらに一口も手を付けることなく、沈んだ表情でうずくまっていた。
茶々から逃げ出したフェンリルは、自らが粗相をした汚物に塗れた姿でこの森へとたどり着いた。近くを流れる小川で体を洗い、ようやく元の純白の身体を取り戻したが、気分は一向に晴れることがなかった。その様子を見て勝機があると考えた魔物たちが一斉に襲い掛かってきたが、こんな状態でもこの世界の覇者の一角たる存在、結果は当然の如くフェンリルの圧勝だった。身の程を知らない愚か者が迎える末路などフェンリルにとってはどうでもよく、今はただ茶々に対しての複雑な感情に苛まれていた。
確かに怒りの感情はある。これまで自分が味わってきた勝利の味を奪われ、自分が与え続けてきた敗北の味を味わうことになるなど想像もしたことがなかった。フェンリルのプライドは粉々に打ち砕かれ、踏みにじられ、泥に塗れてしまったのだ。
しかし怒りの感情を表に出そうとすると、体の奥底から今まで味わったことのない感情が沸き上がってきた。それが恐怖だということは誰もが気付くだろうが、敗北というものをとても長い年月味わったことのないフェンリルは、幼い頃の敗北の記憶を完全に忘れていた。
その感情が何なのかフェンリルにはわからない。それは格の違いを体の芯に刻み込まれたために生まれたトラウマのようなものだが、到底理解できるような状態ではなかった。ただ自分の中から沸き上がり続ける理解不能の感情に苛まれ続けていた。
それからどのくらい考えただろうか、考えるたびに脳裏に甦るのは、自らにこんな苦しみを与える元凶となったあの獣。フェンリルを超える体躯は、決して余計な肉がついている訳でもなく、数々の戦いを経て辿り着いたであろう鍛え抜かれたもの。オレンジの体毛は全てを焼き尽くす焔のようにも見え、夜明け時の朱に染まる空の色のようにも見えた。
凛とした立ち姿、そこから醸し出されるのは自らとは大きく乖離した強者の風格。自身とて決して弱くはない。その証拠に敗れた後でもフェンリルの姿を見たほとんどが怯えて逃げていったのだから。
だがあの獣は全く違った。強さを誇りながらも、周囲の者たちは敬意のこもった畏怖の念を抱いていた。決して強さに驕ることなく、力を持つ者はこうあるべきだとその態度で表していた。
自分が持ち合わせていないものを持つ獣、その存在はフェンリルの中で次第に大きく変化していく。言い表すならば「羨望」だろうか。力に驕らず、弱き者を護る。気高き信念を持つその姿はフェンリルには無い。弱い者は喰らう、その掟から大きく離れたあの獣こそ異質なのだろう、しかしその異質なものが皆の尊敬の念を集めている。
どうあがいても自分には辿り着けない境地にいる獣、それはフェンリルにとって眩しさを増してゆく。これまで抱いたことのない感情がフェンリルの中に芽生える。
同じになれなくてもいい、ならばせめて共にありたい。その感情を理解したとき、自分がどうしたいのか、フェンリルは知った。知ってしまった。
あの獣と番になりたい。
フェンリルが初めて抱いた他者への好意、そしてそれが達成されたときのことを想像して甘美な妄想に耽る日々。己が望みを叶えようとあの獣を探し回るが、どこにもその姿はない。大きな体躯は目立つはずなのに、深い森の中にも、険しい山にも、深い谷にもその姿はなかった。
匂いの残滓は所々に残ってはいるが、その姿が全く見えないという状況は、フェンリルに芽生えた恋心を変質させてゆく。一体どうすれば再び会えるのか、そしてどうすれば己の望みが叶えられるのか、待たされ続ける環境がより一層その相手を美化、いや神格化させてゆく。
そもそもフェンリルは敗けたのだ、立場が対等であるはずがない。それは獣の本能が理解している。そしてそれが悪い方向へとフェンリルの思考を導いていた。
一緒にいられるなら、この思いが届くなら、対等でなくてもいい。今までのフェンリルでは考えられない卑屈な思考だ。しかし既にプライドは粉々に砕かれ、そこに生まれた恋心が歪になるのは当然のこと。ただただフェンリルはあの獣のそばに自分がいる光景を思い浮かべて悦に浸る。
そばにいる、しかし対等ではない。決して並び立つことはできないのだ。つまり後ろからついていくことくらいしかできないのだが、それでもいいとさえフェンリルは思っていた。そばにいることに間違いはない。ただそれが隣か後ろかの違いでしかない、と。
しかしそれを果たそうにも、その相手が見つからないのであればどうしようもない。そしてフェンリルは思い出す、あの獣が護っていたエルフの仲間があの街にいたことを。ほんのわずかでもいい、その思いでフェンリルはその獣人を探す。
そして見つけた、あの街からやや離れた森にある朽ち果てたダンジョン、そのそばでみすぼらしい小屋を建てて生活していたその獣人は、必至になってそのダンジョンを護ろうとした。一緒にいた鬼人族の男もろとも殺してしまうことも出来たが、もしそれをしてしまってあの獣の心象が悪くなってしまったらという懸念がフェンリルを止めた。
フェンリルの懸念は当たっていた。そこにいたのはカルアとバド、もしそのダンジョンにあの獣がいたとして、知己の存在を殺したフェンリルが許される可能性は皆無だ。かろうじて野生の本能が生存方法を導き出したということだろう。そして正直に話した、自分はどうしてもあの獣に会わなくてはならないと。
何故か鬼人族の男が共感していたが、フェンリルにその理由はわからない。ただあの獣に再び会えるかもしれないという歓びが余計なことを考えられなくしていたからだ。バドは自分の気持ちがなかなかカルアに気付いてもらえなかったことを思い出し、困難を極めるであろうフェンリルの恋路を応援しようとしていたのだが、どうやらフェンリルにそれは伝わらなかった。
その後、フェンリルは巨大なゲートの前に立った。渦巻く異質の魔力はどこかドラゴンの残滓が感じられたが、そんなものはどうでもよかった。異界のゲートを通るという経験などないが、そこに恐怖感はなかった。ただ再び会えるという歓びは恐怖心すら消し飛ばしていた。何より次第に強くなっているあの獣に匂いが、確実に近づいていることを証明しているのだから。
早く会いたい、その一念がフェンリルを動かす。光などない漆黒のゲートの中、匂いを辿って進む。間違えることなどあるはずがない、体の芯に刻み込まれたトラウマが正しいと物語っていた。
やがてフェンリルはゲートを出る。その先にいたのはあのエルフ、そしてあの獣。もうそれ以外目に入らなかった。辿り着いた先がどこであろうと関係なく、フェンリルは再会を喜ぶ。そして……フェンリルは冷たい雪の中に放り出されるのだった。
次回も閑話の予定です。
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