8.異変
「あー楽しかった、やっぱりこういう団欒はいいものよね」
ノートパソコンをずっと覗き込んでいたハツミさんが大きく伸びをする。皆で一つのことをするというのはあまり経験したことがなかったけど、こういう楽しいことばかりならあいつでも大歓迎よね。
キッチンではソウイチさんがおやつの後片付けを、フラムはハツミさんやタケシさんと何やら話をしている。私はというと、チャチャさんの背中に乗せてもらって久しぶりに二人で遊んでる。ふわふわの毛に埋もれる気持ちよさはいつ味わっても新鮮さが薄れないのがとても不思議。
「チャチャさん、館の中を見回りしましょう」
「ワンッ!」
私が言えば、チャチャさんは一声返事をして歩き出す。私が来てすぐの頃、夜の見回りにいつもついてきてくれたチャチャさん。あの頃はとても不安な気持ちに襲われることがあったけど、そんな時にはいつもそばで見守ってくれていたチャチャさん。ソウイチさんのことが大好きで、ソウイチさんのそばにいるといつも嬉しそうなチャチャさん。でも私だってソウイチさんのことが大好きだし、一緒にいるととてもうれしい。その点で言えばライバルってことになるのかな? もしかしたらチャチャさんは私たちのことを妹みたいに思ってるのかもしれない。違うって強く言いたいところなんだけど、いつも護られてばかりだから何も言えないんだけど。
いつもと変わらない毎日、でもとても楽しくて充実した毎日。冒険者の頃は日々の暮らしで精一杯で、日々の暮らしを楽しむなんてことは考えられなかった。さっきみたいに思いっきり遊ぶなんて有り得なかった。遊びなんて貴族様だけの特権だったから。
住むところは自分の部屋まで貰えて、綺麗な服を着て、美味しい食事を食べて、危険なことも少しはあるけど、かつての暮らしに比べればおとぎ話の中にいるみたい。カルアは自分の領地があるから戻ったけど、もしそういったしがらみが無かったら彼女もここにいたいと思うんじゃないかしら。
「ここから全て始まったのよね……」
壁に開いた大きな穴は未だ世界を繋ぐゲートとして顕現してる。フラムの結界で偽装してあるから、傍目には何の変哲もない穴にしか見えないけど、このゲートが全ての始まりだった。ドラゴンの来襲、私の帰還、そして逃亡、さらにはフラムの来訪まで……一生ここでたった一人で暮らすと思ってた私にとって、信じられないことばかり。
「行きましょうか、チャチャさん。もう暗くなりましたし」
「ワンッ!」
館の大きな窓から外を見れば、もう日が落ちて暗くなっていた。さらにはまた雪が降り始めて、室内の明かりに照らされて白く光る雪が暗闇に舞う姿はとても幻想的な感じがする。寒いせいでゴキブリが出てこないから、最近夜の見回りはしていないけど、こんな素敵な光景が見られるならいいかも、寒さ対策はきちんとしないといけないけど。
「あれ? また降ってきたんだ。この様子だとまた積もりそうだね」
外の様子を見に来たハツミさんが窓を大きな窓を開けて外の様子を見てる。畑仕事をしてるソウイチさんにとっては嬉しくない雪かもしれないけど、今日みたいに楽しく遊べるのはちょっと嬉しかったりする。それに……畑仕事がないということは、ソウイチさんと一緒にいられる時間も多くなるから……とても嬉しい。
「……何かしら?」
ふと背後から感じる違和感に思考が遮られる。さっきまで部屋にいたはずのフラムは自分の部屋に戻ったらしく、話し相手になっていたタケシさんの姿も見えない。つまり誰もいないはずの室内から、言葉で言い表せない違和感を感じる。はっきりとした何かがある訳じゃないけど、それでも無視できない違和感が確かにあった。
「グルルル……」
「チャチャさん?」
チャチャさんが室内に向かって威嚇の表情を浮かべて唸り声を上げてる。何かがおかしい、その違和感をチャチャさんもきちんと認識してるみたい、そしてその違和感が決して私たちが望んでいないものだということは、チャチャさんの表情から見ても明らかだ。じゃあその正体は一体何だと言うの?
「いけない! ハツミさん、ここから離れて! 何かが来ます!」
「え? 何? もしかして新しい子が来るの?」
「わかりません! でも油断していい状況じゃないです!」
フラムが施した結界があるからか、ハツミさんが危険な状況だということを理解してくれない。私だってフラムの魔法の実力はよく知ってる、いつもそばで見ていたんだから。でもフラムだって万能じゃない、彼女の魔法を破るだけの力をもった存在はいるんだから。
そう、違和感は次第に強くなってる。その大元は間違いなくあのゲートの奥から来ていて、フラムの結界を破ろうとしてる。ゲートの奥で異なる魔力がせめぎあい、こちら側に漏れ出てきているのが違和感の正体だけど、フラムの魔力に混ざってるもう一つの魔力の気配には……覚えがある。
どうして? 何で? 何であいつがここに? 頭の中を疑問が埋め尽くされて何も考えられない。だってあいつはチャチャさんに負けて逃げて行ったはず、まさか復讐をするためにここまでやってきたというの?
今まで自分が持っていた神獣という称号を奪われ、大勢の前で醜態を晒す羽目になった原因のチャチャさんに自らの怒りをぶつけるために、そして雪辱を晴らすために、わざわざ世界を超えてきたというの? きっとそこには油断なんてあるはずもないし、こちらの戦力を見くびっていたドラゴンよりも強敵かもしれない。
ぱりん、と薄い陶器を割ったような乾いた音とともに、濃密な魔力がゲートから流れ出てきた。間違いない、この魔力はあいつのものだ。あの時味わった恐怖が記憶の底から呼び起こされて、身体が凍り付く。このままじゃ危険すぎる、早く対処しないと……
「ワン!」
「チャチャさん……そうですよね、チャチャさんがいますよね」
恐怖に身体が竦む私を気遣うチャチャさんは、大丈夫だと言うように一声吠えた。そして私を床に下ろすとゲートに向かって身体を低くして臨戦態勢をとった。いつでも飛び掛かれるような姿勢でゲートに向かって睨みをきかせていると、それはゆっくりと姿を現した。
『小娘、久しいな』
「……フェンリル!」
ゲートの奥からフェンリルの白い身体が姿を現し、それと同時にチャチャさんがフェンリルに躍りかかった。
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