5.楽園
雪というものを初めて見て、そして触れて、思わず我を忘れて遊んでしまった。そのせいで冷え切った身体を温めるようにとハツミがお風呂に入れてくれた。冷たくなった身体に程よい温度の湯と、浮かべられてる沢山の柑橘から漂う清々しい香りが蓄積されていた疲労をゆっくりと溶かしてくれる。
「どう? 今日は柚子湯にしてみたんだけど。うちの庭の柚子だから香りは保証するわよ?」
「とってもいい香りです……」
お湯に身体を投げ出すように浮いているシェリーが蕩けたような声を出してる。かくいう私も同じように体を投げ出してお湯の暖かさと香りを楽しんでいる。こうしてお湯に浸かるだけでも以前は信じられないくらいの贅沢だと思っていたけど、さらにたくさんの果実を浮かべるなんて、王族でもここまでの贅沢はしていないと思う。
しかもこのユズという柑橘、香りづけや調味料にすることがほとんどで、果実そのものを食べることは滅多にないらしい。果実好きのシェリーが一度食べたことがあるけど、とても酸っぱかったって言ってた。
でも私たちが暮らしていた森では味なんて考慮する余裕なんてなかった。恐ろしい魔物ですら食べない果実を命がけで採取して食べる毎日、小さな動物を狩るなんてことは滅多になかった。冒険者になって、ある程度の相手になら負けないくらいに実力がついて、初めてまともな食べ物を食べた。今思えば粗末な食事だったけど、それでもとても美味しいと感じていた。
今ここでこんなに贅沢な暮らしが出来ている、あの頃には想像もできなかったこと。ソウイチやハツミの優しさは、私たちがどんなに欲しても誰も与えてくれなかったもの。昨日まで一緒に依頼をこなしていた冒険者が、私たちを商品として売り捌こうとするなんてよくあることだった。宿屋に泊まる時でさえ、完全装備でいつ襲われても撃退できるように準備してたから、今みたいにベッドでぐっすり休めることが未だに信じられない。
「フラムちゃん、そこから見える景色はどう?」
「……まるで楽園にいるみたい」
ハツミに言って窓際にお湯の入った器を移動してもらい、窓から外を眺める。外はとても寒いのに、その様子を温かいお湯に浸かりながら眺めるなんて、とんでもない贅沢だ。これを味わったらもう元の場所になんて戻れない。カルアは自分の領地のことがあるから戻ったけど、もし自由の身だったらここにはカルアもいたかもしれない。でもカルアにはソウイチの妻の座は渡さないけど。
この世界に来て、あまりにも衝撃的なことの連続だった。おそらくこの館から外に出れば、高位冒険者だった私たちですら生きていくことすら困難な世界が待ち受けているのは、テレビやネットで毎日のように伝えられるニュースから容易に想像できる。
凶悪な盗賊や悪辣な貴族がいるわけでもなく、凶暴な魔物がいるわけでもない、なのに毎日誰かが殺されるニュースが流れる。魔法のかわりに文化と技術が進み、とても過ごしやすい世界のはずなのにこういうことが頻繁に起こるのは、決して文化や技術が進んでもヒトとしての本質は大きく変わらないんじゃないかと思える。
もし私たちが別の巨人に遭遇してしまったらどうなるか、それは常に思ってる。ソウイチもハツミもタケシも、その危険性を第一に考えてくれている。きっとここでの暮らしと同じにはならないはず、だからこそ皆が私たちを外に出さないようにしている。それも当然だと思う、何故なら他の巨人たちは私たちのことをヒトとして扱わないだろうから。ソウイチたちのように、私たちを同格のヒトとして考えてくれるような、心の広い巨人ばかりじゃないはずだから。
「どうしたの、フラム?」
「……何でもない、ちょっとだけ昔のことを考えてただけ」
「そう……ここはとてもいいところよね?」
そばに来たシェリーが私の様子を気にしてくれる。彼女もまた私と同様に、過酷な暮らしを強いられてきた。だからこそ、私の考えてることを理解してくれている。ここが如何に素晴らしいところか、そしてここの住人が私たちを受け入れてくれた幸運を。
彼女が最初にここに来た時の心境を聞かされた時、とても納得のいくものだった。イタチのような獣が闊歩する外の世界に放り出されてしまえば、私たちに生き残る術がない。生き残るために半ば奴隷のような扱いすら覚悟したという。しかしそうならなかったのはソウイチたちの優しさに他ならない。
正直なところを言うと、ソウイチはとてもずるいと思う。本人にはそんなつもりはないのだろうけど、不安に押しつぶされそうになっているところへ温かい優しさを与えられれば、好意を抱かないはずがない。そしてそんな好意すらソウイチはしっかりと受け止めてくれる。私たちを安心させるために婚約まで受け入れてくれた。
普通に考えれば、私たちが婚姻関係になることなどあり得ない。子を為すことすら難しい私たちを祝福してくれるなんてあり得ない。婚姻することは子孫を残すこと、私たちの世界ではそれが当然の考えで、巨人たちの間でもその考え方は深く根付いている。なのにそれを無視してまで私たちを護ろうとしてくれるソウイチを嫌いになるはずがない。
ソウイチのことを考えるたびに、この身体が大きくならないものかと強く思う。古代の魔法にはそういうものがあるかもしれないが、きっとそれは私たちの手に負えない神々の魔法だと思う。魔力も足りなければそれを受け止めるだけの強い身体もない。もし仮にそれを発見して、運よく発動したとしても、私たちの身体が負荷に耐えられなくて消滅してしまうはず。
悔しい、でもどうすることもできない。なら少しでも私たちがソウイチに好きという気持ちを伝えたい。他の誰にも負けないくらいに、ソウイチのことが好きだって。この楽園のような場所も、ソウイチの優しさがあって初めて成り立つものだから。そしてそれはきっとシェリーも同じはずだから。
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