悩み相談
閑話です。
「はっ! やっ!」
「踏み込みが甘えぞ! 剣に力が籠ってねえ!」
鬱蒼とした森の中、乾いた打撃音と男女の声が聞こえる。こんな場所で男女の声と聞けば色っぽい内容を思い浮かべそうなものだが、実際に繰り広げられている光景はそれとは大きくかけ離れたものだった。
乾いた打撃音は男女の持つ木剣が打ち合わされる音であり、男女の声は木剣を振る際の掛け声だった。女は赤い巻き毛を持った狼のような尻尾を持ち、男は茶色の短髪で頭部に二本の角を持っていた。狼獣人のカルアと鬼人族のバドである。
忘却の森を正式に自分の領地としたカルアだが、領地経営などという立派なものは何一つできていない。いや、そもそもそんなことをするつもりもなかった。彼女がここを自分の領地とした理由、それはただ一つ、あのダンジョンを見守ることにあった。しかし見守るといっても、誰からも忘れ去られた過去のダンジョンを訪れる者などいるはずもなく、ごく稀に迷い込んだ旅の者がいるくらいで、その道案内くらいしかすることがなかった。
当然ながら、することが無ければ暇になる。夜は……若い二人が身体を持て余すということはあるだろうが、昼は食糧の調達と見回りくらいしかすることがない。なのでカルアはバドを相手に訓練に打ち込むことが多くなったのだ。
バドは百戦錬磨の流れの傭兵、貴族ゆかりの騎士としての正攻法の戦い方が染みついたカルアをあしらうことは決して難しくなかった。防戦一方のカルアも、戦いは決して正攻法ばかりではないということを理解しているので、何度打ち付けられようとも決して挫けることはなかった。
何より神獣チャチャの現れた場所を護るという目的の為には自分が強くあらねばならない。その為ならば何度打ち据えられようとも、平民よりも劣る生活を強いられようとも全く苦にならなかった。むしろ今の自分には貴族のお嬢様としての暮らしは百害あって一利なしとさえ考えていたのだ。
「カルア、もうこのくらいにしておけ。鍛錬するのはいいが、それで身体を壊したら意味がねえ」
「……ええ、わかりましたわ。水浴びをしてきます」
カルアの意思を理解しているからこそ、止めろと強く言えないバド。いや、止めろと言ったところでカルアは聞かないだろう。神獣チャチャの加護を受けた(とカルアは思っている)ということは、その身命を賭して仕えることで応えようとするのと同義だと考えてしまうのは、神獣信仰の深いフロックスでは必然とも言えた。やはりカルアとてフロックスの獣人の特性から逃れることはできなかったようだ。
「……ったく、どこまでも世話の焼けるお嬢様だな。ま、そこがいいんだけどな」
森の中に消えていくカルアの背中を見つめながら、バドは若干顔を赤くしながら呟いた。
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「……ふぅ、私もまだまだですわね」
森の中を流れる小さな沢の淵で一糸纏わぬ姿になったカルアは、沢の水の冷たさに若干閉口しながらも鍛錬の汗を流していた。しかし思うのは自らの未熟さのみ、剣姫などという大層な二つ名を持ってはいるが、バドの実戦本位の戦い方に翻弄されてばかりである。型に嵌った戦い方が実戦の役に立たないことをフェンリルとの戦いで痛感したカルアは何としても強くならなければならなかった。
もし再びフェンリルが襲ってきたら、イタチのような未知の魔獣が現れたら、果たして自分はこの場所を護りきれるだろうか。それだけではない、この場所が、そして神獣チャチャの存在が、巨人の国の存在が知られれば周辺諸国が黙っていないだろう。手段を選ばぬ戦いはカルアの範疇から大きくはずれている。むしろ勝つために形振り構わぬバドのような戦い方が適していると理解したからこそ、今まで身に着けた戦い方を捨ててバドに教えを乞うているのだ。
フェンリルはミルーカから姿を消し、その後の消息は全くわからなかった。フロックス国内でも目撃情報はなく、周辺諸国にもそのような情報はない。アキレアにも密偵を出して情報収集したが、芳しいものはなかった。それ故にカルアは不安になる。
「一体どこに……」
神獣チャチャが圧倒したとはいえ、カルアたちにとってフェンリルの存在は脅威だ。もし報復に現れたら、今のカルアたちでは太刀打ちできない。そこに再び神獣チャチャが現れる保証などどこにもないのだ。せめて動向を伺える情報でもあれば違うのだろうが、全く情報がないことが逆にカルアの不安を大きくしていく。
「!」
カルアは突如現れた気配に身を強ばらせた。あまりにも巨大かつ強大な存在感、そしてその匂いを嗅げば獣人なら誰もが震えあがる獣の匂い。それがゆっくりと森の上空から姿を現したのだ。
『ほう、我が気配に気付くとは腕を上げたな。久しいな、赤き狼の小娘よ』
「あ……ああ……」
カルアはその存在を知っている。いや、忘れようにも忘れられるはずがない。自分やシェリーを喰らおうとし、さらにはミルーカの街をも餌場にしようとしていた巨獣。思うままにその力を振るい、覇者の一角とまで称された存在。陽光に輝く白銀の獣毛はどこまでも汚れなく、王者の風格を漂わせるモノ。そして……神獣チャチャの前において無様に粗相をするという失態をみせた獣。
「……フェンリル!」
カルアの前に降り立ったフェンリルは、一度敗れたとはいえ未だ王者の風格を持ちながら、カルアの前に降り立った。
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「バド! 大変ですわ!」
「大丈夫か! カルア!」
バドが突如現れた気配に慌てて駆けつけると、カルアは未だ何も纏わぬままフェンリルと相対していた。今のカルアは完全な丸腰、攻撃されればひとたまりもない。全裸のままで防具どころか衣服すら身に着けていないのだから。しかしバドが到着した時、フェンリルはカルアに向けて明確な敵意を持ってはいないように見えた。フェンリルという存在そのものが持つ威圧のようなものは感じられるが、かつて相対した時のような肌を焼くような緊張感が感じられない。
獲物として喰らうのであれば、バドが到着するのを待たずにカルアは死んでいただろう。それはつまり、フェンリルがこの場に現れたのは腹を満たすという目的とは違う何かのためであろうと推測したバドは、一定の緊張感は持ちながらも、僅かに警戒を解いた。それを見たフェンリルは、敢えてカルアから距離を置いた、すなわち自らにカルアを害するつもりがないという意思表示をするように。
「こんなところに一体どういった用件ですの?」
フェンリルに敵意がないと理解したカルアは服を着ると改めてフェンリルに問いかけた。腹を満たすのであればこんな人気のない森に来る意味がなく、かといってカルアに対する私怨であれば、神獣チャチャの恐怖はその身体に深く刻み付けられているはずで、その加護を受けているカルアを狙うということは考えにくかった。フェンリルが余程の馬鹿であれば話は別だが。
『その……なんだ……貴様らに相談したいことがあってな』
「相談……ですか?」
「フェンリルの相談に俺たちが乗れると思ってんのか?」
フェンリルの言葉に戸惑いを隠せない二人。フェンリルという人智を超えた存在が持つ悩みに自分たちが関与できることはないという本音がはっきりと表れた言葉だが、フェンリルはそれを聞いて怒りを露わにするどころか、若干懇願するような顔つきになった。
『これは貴様らにしか頼めないことだ』
「私たちに……ですか?」
『左様、他の奴には頼めぬことだ』
自分たちにしかできないこと、と言われて困惑する二人。二人が他とは違うことといえば、神獣チャチャに関わっていることくらい、もっと言えば遠い別の国に旅立ったシェリーとフラムと仲間であることくらいだ。しかしそれをフェンリルに伝えていいものかと思い悩んでいると、さらにフェンリルは言葉を続けた。
『あの方に合わせてもらえぬだろうか、焔を纏ったあのお方に』
「焔……チャチャ様のことですか?」
『うむ……我はどうしてもあの方に合わねばならぬ……何としても我が妃になってもらわねば……』
咄嗟に言葉が出ずに唖然とするカルアとバド。フェンリルの相談はまさかの恋愛相談だった。
フェンリルの言うあの方とは……
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