5.失敗
アタシからのメールを見て戻ってきたお兄ちゃんに、先ほどの一部始終を伝えると、やっぱりお兄ちゃんも険しい顔をした。だけどそれでもタケちゃんに向ける目は優しいものだった。
「お前の言いたいことはわかるが、武君を責めるのは違うだろ。武君はこんなこと初めてなんだし、そもそも他の畑で誰かに追い払われているかもしれないだろ? むしろそこまで大胆な行動をとるということは、きっともう誰かと遭遇してると考えたほうがいだろう」
「それはそうだけど……」
確かに言われてみればお兄ちゃんの言うことが正しい。時間がなかったとはいえ、きちんと状況を説明できなかったアタシが悪いし、あんなに無防備に出てくるってことは、もう人間に対して恐怖心を抱いていないと考えたほうがしっくりくる。だけどそうなると余計に面倒なことになるかもしれない。というか、なる。絶対になる。きっと荒された白菜畑で人間に遭遇したんだと思うけど、農家のお爺ちゃんお婆ちゃん相手じゃそうなるのも仕方ないか。
「ねぇ初美ちゃん、一体僕の何がダメだったのさ」
「それは俺から説明するよ。いいか武君、野生動物というのは敵性動物の気配にとても敏感だ、そしてあいつらは敵性動物との距離を測る能力に長けている。つまりその敵が自分たちにとってどれほどの脅威かということを把握する力に長けているんだ」
お兄ちゃんがタケちゃんに説明してる内容を搔い摘むと、あの鹿だけじゃなくて野生動物は皆相手の力量を推し量る能力があって、そのおかげで絶対に敵わない相手の縄張りを無闇に荒したりせず、例外があるとすれば自分の群れや子供を護るために戦う時くらい。でもあの時の鹿の様子だと、もう誰かと遭遇して、そこで学習しちゃったんじゃないかってこと。
つまり『人間は自分たちを殺しに来ることはない』と理解したんじゃないかってこと。殺されないのなら恐れる必要なんてどこにもない。あいつらには『多少痛めつければ逃げていく』という考えが通用しないんだから。痛めつければここからは逃げていくだろうけど、次の日には隣の畑を荒らす。ほとぼりが冷めればまた戻ってくる。何故なら、自分を殺さない奴は敵でもなんでもないから。はっきりとした殺意をぶつけて、荒すことに対しての代償をわからせる以外にあいつらを追い払う方法なんてない。
でも都会育ちのタケちゃんにいきなり遭遇した鹿を殺せって言われても無理だと思う。一般的に鹿といえば動物園とか神社とかで保護されてるイメージだし、アニメや童話なんかでも可愛らしい存在として扱われてる。でもアタシたち農家にとっては、勝手に農作物を食い荒らしたり、山の樹木の樹皮を食べて枯死させたりする超厄介者でしかない。可愛らしいから殺す必要なんてないって言う奴がいたら、そいつに被害金額を全部請求したいくらい。
それだけじゃない、もし山の多数の木々が枯死したら、その根で維持していた斜面の強度が無くなって、少しの雨でも地滑りや土砂崩れ、場合によっては鉄砲水や沢の氾濫なんてことにもなりかねない。もっと言えばこの近辺には元々鹿なんていなかったし、渡邊さんがその危険性を知らなきゃもっとひどいことになってたかもしれない。
猪や熊は確かに危険な害獣かもしれないけど、ある程度の事前知識があれば直接的な被害は防げるけど、鹿はそうはいかない。直接被害を受けることが少ないから危険視されないことが多いけど、その食害がもたらす被害は放っておいたらうちみたいな山間部の農家なんて生活できない。
「せめて茶々がいるときに出てきてくれてればな……」
「クーン……」
茶々が申し訳なさそうに項垂れてるけど、それは仕方ないんじゃないかな。だって茶々はお兄ちゃんと一緒に見回りに行ってたんだし、他所から流れてきた鹿なら茶々のことを知らなくても不思議じゃない。それにさ、本来ならそういう役目はもっとほかの獣がすることであって、茶々が全部面倒見る必要はないと思うよ?
でも茶々にとっては、うちの庭にまで入り込まれたことのショックが大きいのかもしれない。だって茶々が頑張ってくれてるおかげで、うちには野犬や猪なんて滅多に入ってこないんだから。以前の猪は手負いで錯乱状態だったから仕方ないけど、イタチみたいな小動物はともかく、大型の動物を防いでくれていたんだから。
「とにかくだ、駆除依頼はすぐに出るらしい。俺はこれから弾丸を買ってくるから、お前たちも出来る限り外に出るなよ?」
「うん、わかった」
お兄ちゃんはそれだけ言うと自動車のキーを掴んで外に出て行った。鹿撃ちってことは、ライフルをメインに使うつもりだ。散弾銃だと一撃で仕留められないかもしれないし、そうなると向こうの警戒心が強くなって駆除が困難になる。できるだけ短時間で多くを仕留めることが重要だから。
「タケちゃんも毎朝のジョギングは控えてね」
「う、うん……」
タケちゃんの様子が変……ていうのは少しわかる気がする。だってあんな真剣な表情のお兄ちゃんは珍しいから。あの猪やドラゴンを仕留めた時と同じ、狩猟者としての責任を背負った者の目をしてた。タケちゃんはまさかあの鹿がこんな大事になるなんて思っていなかったんだと思う。でもそれは仕方ないよ、鹿みたいな野生動物については都会じゃ全然情報がないものね。
こうなった以上、この一件はお兄ちゃんと茶々に任せるしかない。茶々にはこの山の主として新参者に掟を叩き込むことを、そしてお兄ちゃんには、茶々の指示に従わない連中をきっちり仕留めてもらうことを。
この山にはきちんとしたルールがある。それは茶々を頂点とした獣たちのルール、絶対に守られなきゃいけない野性の掟。実力でこの山の王者に君臨した茶々が決めた絶対的ルール、それをあの鹿たちは知らない。いや、違う、さっきの鹿は茶々の匂いの染みついたこの家の庭にまで入り込んできたんだ。茶々の匂いを嗅いでおきながら、そんなものはどうにでもなるとばかりに足を踏み入れたんだ。一番大事なルールを破ったのなら、然るべき罰は受けてもらわないと。
お兄ちゃんが心配してる通り、あの鹿は人間の近くにいたと思う。だから恐れることを知らないし、人間が手出ししてくることは稀だってことも理解してる。飼い犬がどんなに頑張っても野生の本性を出すことが出来ないことも理解してる。つまり自分たちを脅かす存在がいなかったことをよく知ってる。
確かにそうだと思うよ、だってタケちゃんみたいないかつい男でさえ初見の鹿を殺す気なんて起きなかったんだから。それに飼い犬が狩猟本能に目覚めることなんてほとんどないし、もしそうさせたいなら長い時間をかけて訓練しなきゃいけない。鹿たちが恐れる存在が少なくなってるのは事実。
でもあいつらの誤算は、うちには猟銃を使えるお兄ちゃんがいて、猪すら凌駕する戦闘力を持った茶々がいるということを知らなかったことだ。悪いけどあんたたちは私たちにとって招かれざる客でしかない、早々にお暇してくれればいいけど、傍若無人な振る舞いをするならきっちりと落とし前をつけてもらうよ?
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