3.調査
茶々を自動車の助手席に乗せて山道を走る。伸び上がるようにして窓の外を眺める茶々はいつもと違う景色に若干興奮を隠せないようだった。確かにこれから向かう場所に茶々を連れて行ったことはない。集落でも我が家とは正反対の方向だからそれも当然で、見慣れない景色に落ち着かないのも頷けるというものだ。
鹿撃ちの依頼はまず間違いなく引き受けることになるだろう。まだうちの畑に被害はないが、農家が鹿対策を始めて作物を食べにくくなってきたら、必ずあいつらは移動を始める。当然、自由に作物を食べられる無防備な畑へ、そしてその近辺の隠れやすい山へと。現在の出没情報から考えるとうちの畑は距離があるように思えなくもないが、野生動物の移動距離は決して舐めてかかってはいけない。気付いたらやられてました、では済まない事態にもなりかねない。
先日渡邊さんに案内されら畑、そしてその近くの森に茶々を連れて行き、鹿の食み跡の匂いを嗅がせれば、茶々も自分の縄張りにはいない新参者と判断したのか、小さく唸り声をあげた。一向に警戒を緩めずに周囲を嗅ぎまわる茶々の姿に一抹の不安が頭をよぎる。
「茶々、もしかして……もう移動しはじめてるのか?」
「ウウ~」
声をかけても一向に唸り声を止めず、何かを確認するかのように周囲の地面の匂いを嗅いでいる。その範囲が次第に広くなり、そして一方向に向けて広がりはじめたことで生じた疑問。もう既に鹿はここから移動しているんじゃないかという不安。
何故そう思ったか。周囲の畑を見れば、作物にはネットを掛けられていたり、爆竹らしきもので追い払った形跡があったからだ。この界隈には畑はここだけじゃない、ここに執着して危険を呼び込むより、違う場所で新たな作物を食べたほうがずっと効率的だからだ。
「ワン」
「どうした? もうこの辺りにはいないのか?」
「ワンッ」
やがて戻ってきた茶々に問えば、小さく返事が返ってくる。どうやら鹿たちはこの近辺から移動してしまったらしい。ただ茶々が未だに警戒を解かないのは、その移動する先がこの集落の外じゃないということを表している。つまり、鹿たちは一時的にこの場から撤退しただけであり、他の誰かの畑が狙われるだけのこと。個人単位では解決したんだろうが、集落としては何も解決していない。
今最優先で解決しなければならないのは、そいつらがいったい何処へと向かったかということだ。何としてでも大きな被害を出す前にこの一帯から追い払わなければ、最盛期の農業に大きな打撃を喰らうことになるのは必至で、死活問題につながる。茶々の様子ではもうこのあたりにはいないようなので、再び自動車に乗って移動する。
少し移動しては調べて、の繰り返しをひたすら続ける。だが行く先々で見つけることができたのは食み跡だけで、鹿そのものを見つけられなかった。樹木の表皮の食み跡は所々に見られ、それなりの数が入り込んでいるであろうと推測できた。ただ少しだけ気になることがあった。
「徐々に……うちの山に近づいてないか?」
距離としては決して近いものじゃない、だが確実にうちの山に近づいている。もしもう入り込んでいるのなら、一刻も早い対処が必要だ。ようやく栽培の目途がつきはじめた畑を狙われるのは非常にまずい。両親から受け継いだ畑とはいえ、俺自身で育てるのにどれだけの労力をかけたかなど鹿には理解できるはずがない。
さらに面倒なことに、鹿は一度味を覚えると同じものを食べ続ける傾向があるという。そして今うちの畑で育てている葉物野菜は主にアブラナ科、そして被害著しかったのは白菜、同じアブラナ科の植物だ。アブラナ科の植物は栄養価が高いせいか食害に遭いやすいのは事実だが、虫程度ならともかく鹿が相手となればあっという間に食い尽くされてしまうだろう。
もしそいつらがうちの山に居着くようなことになれば、今までの苦労が水の泡になるかもしれない。それだけは絶対にさせない。そもそもここいらにはいなかった鹿が現れたこと自体が異常といえば異常だ。よほど食べ物が無くなったのか、それとも今まで住んでいた場所から追いやられる何かがあったのか。食べ物に関しては何とも言いようがないが、追いやられる要因としてはたくさんありすぎる。宅地造成や道路開発など、人間の手によって追い出されるということも決して少なくない。
だからと言って、はいそうですかと受け入れてしまうのは危険だ。そもそもこの近辺の山には元々鹿は生息していない。元々いないものを受け入れるということは、生態系そのものを大きく変えてしまう可能性があるからだ。今の状況で安定している生態系を変えるとなれば、必ずどこかに軋轢が生じてしまう。そしてその影響を多大に受けるのは、自然と共存して生きている我々農家のような一次産業の人間なのだから。
匂いを嗅ぐにつれて警戒を強くする茶々。それは決して少なくない数の鹿が入り込んでいるという証だ。凶暴な猪にすら立ち向かう茶々がここまで警戒しているのは、これまで遭遇したことのない鹿という生き物の匂いを初めて嗅いだのと、数の多い相手という危険な情報によるものだ。
鹿はまだ茶々の存在を知らない。だからこそここまで好き勝手な振る舞いができる。あるいは人間に自分たちを害する手段を持つ者が少ないということを学習しているのかもしれない。追い払われ続けるうちに、自分たちへの対応が緩い地域があれば、あいつらは確実にそこを拠点として傍若無人な行いをするだろう。
あいつらに決定的な一撃を食らわすのは今しかない。まだ油断しきっているところに強烈な意思表示をしてみせれば、ここが危険な場所だと認識して出ていくはず。だがそれには……少なくない数の犠牲を要することになるだろう。
「鹿か……散弾じゃ無理だな、一粒弾を多めに買っておくか」
あの時の猪、そしてドラゴンに次いで再びライフルを使うことになるとは思わなかった。だが今この地域において、有効な手段を持っているのは俺だけだ。俺がここで尻込みすれば、この地に他所のハンターが入り込むことを許すことになる。ここは俺が生まれ育った場所、自分の場所は自分で護る、そんな当たり前のことが出来ないようであれば、鹿たちはもうここから離れようとしないだろう。
本来なら数名でチームを組むが、俺にそんな伝手はないし、見ず知らずの者に背中を預けるつもりもない。だがやらなきゃならない、それは間違いない。生き物を撃つということに躊躇いが無いといえば嘘になるが、これは俺にしかできないことだ。
「クーン……」
「……よしよし、大丈夫だ」
戻ってきた茶々が俺の顔を見て不安そうな声をあげる。きっと今の俺はとても険しい顔をしているんだろう……
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