迷いの山
閑話です
佐倉家の裏山から続く山、そこには決まった名などない。そして佐倉家が代々継承してきた山でもある。かつてはその山だけでなく、周囲の山々も佐倉家の持ち物ではあったが、相続税対策として切り売りされていき、その山と佐倉家のある畑一帯を残すのみとなっていた。
しかしその山に立ち入った者は集落の古参の住人たちでもほとんどいない。かろうじて老人たちが山菜取りに入山するくらいだが、それでも裏山から少し入ったくらいまでであり、山頂に登った者といえば自治体の土地調査の人間が数年に一度入る程度。しかもその際は必ず佐倉家の者が付き添うことになっている。それは何故か?
『あの山には神隠しがあるんだよ』
古参の住人、それもかなり高齢の老人たちは口を揃えてそう語った。勝手に立ち入った者は必ず道に迷い、山の奥深くまで進むことは出来ない、と。迷っているうちにいつの間にか麓まで下りている、と。だが佐倉家の者がいれば迷うことはなく、佐倉家の人間が迷ったという話は聞いたことがない、と。
それ故に集落の者はその山に勝手に入ることはなく、山菜取りも奥深くまで進むことはない。集落の住人以外が散策に来ることもあるが、住人達はその山に入らないように進言する。神隠しに遭いたくなければ立ち入るな、と。
その噂を聞きつけて、熱狂的なオカルトマニアが来たこともあるが、佐倉家の人間は頑なに立ち入りを拒んだという。無断で立ち入る者も現れたため、佐倉家の家長が立ち合いの元で入山したこともあったが、不思議な現象は全く見られなかった。そしてその噂は一種の迷信として認識されることとなり、やがて好奇心でやってくる者もいなくなった。
『山頂にな、小さな社があるんだよ。とても小さな社が』
何を祀ってるのかはわからない、と古参の住人は言う。佐倉家の者に問い合わせても、古くから言い伝えられている土地神としか回答を貰えなかった。ただ古くからの伝承によると、その土地神が神隠しを行っているのではないかとの話だが、果たしてそれを真実かどうか検証することはできなかった。
ジャーナリストとしての姿勢を疑われるかもしれないが、我々はこの事案をこれ以上追及しないことにした。ほんの僅かに言い伝えられている民間伝承、そのすべてを究明することなど不可能であるし、筆者個人としてはこのような小さな山の土地神伝承を解明したところで得るものはないと判断したからだ。
大々的に祀られる存在ならば、究明する必要はあるだろうが、既に廃れている伝承ならば廃れるだけの理由があるのだ。その理由を突き詰めたところで現代社会が受け入れられるものであるかどうかは怪しく、むしろ現代社会にそぐわないからこそ廃れていったのだろう。ならばこの伝承は近いうちに完全に消え去っていく運命なのだろう。
これから先、農家は厳しくなっていくだろう。その苦しみを子供たちに味合わせたくない。
立ち入り調査に応じてくれた佐倉家の当主は寂しそうな顔で呟いた。過疎の流れに飲み込まれつつある地方の農村、その一集落、一家族にとって、民間伝承を守っていくことよりも、子供たちの幸せが優先されるのは時代の流れとして必然なのかもしれない。当主がそっと肩を抱いた婦人のお腹には再来月産まれる予定の男の子がいるという。願わくばその彼がこの伝承を伝えていってもらいたいものだ……
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「ソウイチ、これってあの山のこと?」
スマートフォンでネットを調べていたフラムが画面を宗一に見せる。それはオカルト雑誌の出版社の記事で、かなり古い期日のものだった。そこに載っていたモノクロ写真を見て、宗一は懐かしそうな顔を見せた。
「これは……親父とお袋だな。まだ俺が産まれる前の話だよ。一度だけ取材を受けたことがあるって親父が言ってた」
「じゃあこのお腹にいたのはソウイチ?」
「ああ、そうだよ」
フラムは宗一の新たな情報を得て嬉しくなるとともに、その記事の内容に引っ掛かりを覚えた。あの小さな神殿に参拝したとき、シェリーは確かに何かの存在を感じていた。フラムにはわからなかったが、シェリーが感じ取ったということは、この地に住まう精霊の一種なのではないかと。
しかし、しかしだ。精霊の力や存在を感じることはフラムにも出来ないことではない。その彼女が感じ取れない精霊の存在、それは一体何を意味しているのだろうか。シェリーは精霊の加護を受けてはいるが、それはこの世界の精霊にではない。本来ならばこの世界の精霊を感じることもできないはずなのだ。
「シェリーだけが感じ取れる精霊の存在……そんなものが本当にあるの?」
この世界にとっては異物でしかないシェリーとフラム。この世界の精霊が余所者の彼女たちをそのまま受け入れることなど考えられない。しかしあの時シェリーはある種の懐かしさのようなものを感じていたという。だがそれ以上のことはシェリーにもわからなかったようだが、フラムはどうしても気になった。
もし自分たちがこの世界に来て、宗一たちと最初に出会っていなかったらどうなっていただろうか。恐ろしい獣の跋扈する山中に放り出されていたら、すぐに獣の餌となっていただろう。心無い巨人たちに見つかれば、見世物のようにされたり、あまつさえ貴重な生き物として解剖されたり標本にされていたかもしれない。
もしシェリーの感じていたものがこの山に住まう精霊であれば、なぜ彼らは自分たちを宗一たちに引き合わせたのか。もしかすると単なる気まぐれなのかもしれない。力ある存在が時折見せる戯れなのかもしれない。ただ偶然珍しいものを見て、興味本位だったのかもしれない。
だがフラムはそれでもいいと思っている。こうして自分たちは宗一と出会い、新たな生き方を始めることができたのだ。ならば理由はいかようであれ、感謝の気持ちしかない。たとえそれが意味などない戯れの結果だったとしても、その結果は彼女たちにとって最良のものになっているのだから。
(ありがとう、見知らぬ土地の見知らぬ精霊たち。あなたたちのおかげで私たちは幸せに暮らすことができている)
フラムはそっと山頂に向かって手を合わせる。この地に来てから知った信仰のための所作、神を信仰するなど遠い昔に捨てた彼女ではあるが、今は違う。この出会いを与えてくれた存在のために礼節を尽くすことに何の躊躇いもなかった。
両手を合わせて瞑目するフラムの頬をそっと優しい風が撫でる。その風にはもうすぐ訪れるであろう春の香りがほんのわずかに混じっていた。
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