10.新しい朝
夜明けと同時に目が覚めると、畑の様子を見るべく作業着に着替えて玄関を出ようとしてふと縁側を見れば、既にシェリーが起きだしていた。茶々を従えて歩くその手には爪楊枝が握られている。雨戸の隙間から差し込む朝陽を頼りにしながら楊枝を構えれば、蹲る茶々の尻尾がゆらゆらと揺れる。
「えい! やあ!」
振られる尻尾はシェリーの持つ楊枝を巧みにすり抜け、時折軽く頭を叩く。勢いをいなされたシェリーは体勢を立て直すと、再び楊枝を振るう。楊枝なら茶々も怪我をすることはないと思うし、折れても替えがきくので練習にはもってこいだろう。
「あ、ソウイチさん。これからお仕事ですか?」
「ああ、シェリーは鍛錬か?」
「はい、この棒ならチャチャさんも安心ですから」
「初美は?」
「明け方までお仕事されていたので、今は眠ってます」
「そうか、まあそっとしておいてくれ。色々立て込んでるらしいから」
「はい」
茶々も昨夜の夜更かしのせいで若干眠そうだ。シェリーもやや目が赤いように見える。
「あまり気を張りすぎるなよ?」
「はい、もう少しだけですから」
一生懸命楊枝を振るシェリーを後にして家を出る。いつもならここで雨戸を開けるところだが、初美も眠っているのでそのままにしておく。田舎なので雨戸を開けてると誰かが入ってくる可能性もある。雨戸が閉まってればインターホンを使うだろうし、そうなれば茶々が吠えて初美も起きるだろう。
「……そうか、コレがあったのか」
視界の片隅に映ったのは昨日捌いたイタチの肉と内臓。皮と骨は綺麗に洗って陰干ししてあるが、肉と内臓は後で処分するつもりでそのままにしておいたのを忘れていた。さてどうしたものか。
燃えるゴミとして出してもいいが、血まみれの肉と内臓を捨てるなんて怪しすぎるし、カラスに悪戯される可能性もある。そのまま捨てるにしても野犬を寄せるだけになるのでまずい。うちのまわりは茶々の縄張りなので問題ないが、他に流れていった場合は危険だ。山菜採りやタケノコ掘り、キノコ採りで一般人が山に入ることは珍しいことではなく、そういった人たちが襲われたら大問題である。
「仕方ない、コンポストに埋めるか」
肉と内臓を集めて新聞紙で作った紙袋に入れ、向かったのは畑の片隅に掘られた穴。うちでは野菜くずをはじめ生ごみは全部ここに入れている。イタチ肉を放り込んでから脇に山積みしてある堆肥を入れる。知り合いの牧場から分けてもらった牛糞堆肥を積み重ねているが、これを入れればやがて微生物が分解してくれるはずだ。
野犬が掘り起こすことのないように念入りに堆肥を重ねていると、妙な視線を感じて振り返り……そして固まった。体長はゆうに一メートルを超える猪がじっと俺を見ていたからだ。噛み千切られた右耳が特徴的な雄の猪が俺を見ている。その距離はおよそ十メートル、襲い掛かられれば重傷必至の距離、間違いなく奴ーーー次郎の間合いだ。次郎と俺はにらみ合ったまま動かない。いや、俺は動けない。ここで目線を切ったり背中を見せたりすれば奴が動く。だからこそ動けない。
一体どれほど固まっていただろうか、やがて次郎は背中を向ける。今の俺は丸腰で茶々もいない、そんな奴は相手にならないとでも言うかのようにゆっくりと山へと歩いてゆく。時折振り向いてはこちらを見ているが、やがて下草の生い茂る林の中へと姿を消した。まさかこのイタチを確認しにきたのか? いや、それはない。猪がイタチ程度を相手にすることはない。獣としての強さの格が違いすぎる。はるかに格下であるイタチのことなど気に留めることはないはずだ。ならどうして?
「……考えても埒があかないか」
次郎が何を考えているのかなど人間の俺がわかるわけないか。イタチが鶏を襲うことはよくある話だし、空腹に耐えかねていれば多少の危険は冒すかもしれない。シェリーという特異な存在が現れたことで神経質になっているのかもしれない。考えすぎであればそれに越したことはない。
朝靄が次第に晴れていき、朝陽が金色の輝きを見せ始める。都会では味わうことが出来なかった、植物と土の匂いの入り混じった微風が優しく頬を撫でる。人間関係に疲れ切って、心も体もぼろぼろになっていたあの頃では考えられないくらいに身体が軽い。医者の話ではまだ治療が必要だということだが。
畑を見れば先日蒔いた種が芽吹き始めており、これから晩春に向かいさらなる生育が見込まれる。まだ家庭菜園から僅かにレベルが上がった程度の農業ではあるが、都会で人間関係と過剰なノルマに追われ、半ば他人を欺くような仕事をしながら心身を衰弱させていた頃に比べればはるかに充実している。
土は生き物だということを失敗から学び、努力を重ねればそれに応えてくれる。かけた手間は裏切らないということを感じさせてくれる。自然現象だけはどうにもならないが、それを克服しようなんて傲慢極まりない。なるようにしかならないのだから。
「ただいま……」
玄関を開ければ雨戸の隙間から差し込む光に照らされているのは丸くなって寝ている茶々に埋もれるようにして眠るシェリーの姿。こんな小さな体で、たった一人で違う世界に迷い込んだ不安は俺たちが想像できるような容易なものじゃないだろう。命の危険を実体験し、それでもなおこの世界で生きていかなければならないということを受け入れるのに、どれだけ苦しむのか。元の世界に戻れないかもしれないという恐怖にどれだけ怯えるのか。その時に俺たちは何が出来るのか。
シェリーにも俺たちにもいずれ立ち向かわなければならない問題は山ほどある。一人で立ち向かうとなると難しいが、皆で力を合わせていけばいい。皆で努力を重ねていけば、いずれ道が開けるはずだ。安らかな寝顔を見ながら、改めてそう思った。
この章はこれで終わりです。もしかすると幕間を挟むかも。
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