9.誤算
『何故だ! 何故こいつには魔法が通じない!』
フェンリルは魔法を放ち続けながら思う。いつもならば魔法で障壁を削り、そこに魔力を乗せた爪や牙での直接攻撃、あるいは閃光のブレスを叩き込んで終わりのはずだった。しかし目の前で悠然と立っている獣は魔法を防ぎ続けている。いや、正確に言えば纏った魔力に飲まれて魔法が霧散しているのだ。
『こいつ……ドラゴンの竜鱗かそれ以上の防御力を持つだと?』
フェンリルの知る限りここまで魔法を防ぐのは竜種くらいしか思い浮かばない。いや、竜種相手とて障壁を削ることくらいはできる。つまりあの柔らかそうな毛はドラゴン以上の防御力を持っているに他ならない。初手が通じず慌てるフェンリルは次の攻撃を模索する。
『ブレスを放つか? だがこいつの防御力を上回れなければ隙だらけになってしまう……ならばこの爪で、牙でその力を推し量るまでよ』
全くの想定がの力を持つ相手に迂闊な攻撃を仕掛けないのは戦闘経験が豊富な証だろう。そして敵の力を量ることもまたフェンリルが決して弱者ではない証左だ。この状況においてなおも敵の情報を得て戦闘を自分の有利に導こうというのだ。
『狙いは……首よ! その大きな図体が裏目に出たな!』
フェンリルは魔法を放ちながら大きく跳躍する。空中を蹴るように方向転換し、相手を攪乱しながら急所への一撃。これならば不意をついて障壁ごと喉笛を噛みちぎることだってできる、そう考えての一手だった。確かにフェンリルの動きは縦横無尽で素早さもこれまでバドを相手にしていた時よりも遥かに速い。並みの獣であれば翻弄されて隙を晒し、その牙で急所を裂かれて終わっているだろう、並みの獣であれば、だが。
だがフェンリルは知らない。この敵がどれほどの身体能力を持っているかを、そして……イタチを軽く凌駕する俊敏さの持ち主であることを……
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チャチャさんが魔力を纏ったままフェンリルへと歩いていく。降り注ぐ魔法は今やチャチャさんを集中的に狙っているけど、ダメージを受けている様子は全く感じられなかった。改めてチャチャさんの凄さを、そしてチャチャさんの優しさを実感する。これだけの力を持ってるなら少しは傲慢さが出そうなものだけど、チャチャさんはいつも私たちを優しく見守ってくれている。こんな強い守護獣に護られている私たちはなんて幸せなんだろう。
私たちのためを思ってゲートを繋ぎ、そして攫われた私のことを助けにきてくれた。そう思うたびに涙が止まらなくなる。恐ろしいフェンリルにも悠然と立ち向かう姿はチャチャさんのほうが神獣に見えてくるくらい。こんなに安心できる守護獣なんてどこにもいない。カブトさんたちも強かったけど、チャチャさんは別格だ。
フェンリルが魔法を放ちながら跳躍した。空中を蹴って向きを変え、複雑な動きで翻弄しようとしてる。
「チャチャが危ない!」
フラムが杖を構えて防御結界を張りながら叫ぶ。確かにあの動きは危険極まりないと思う。だけど……私は知ってる、私が遭遇したイタチの最後の攻撃はもっと素早かった。もっと鋭かった。魔力を纏ってないからかもしれないけど、それでも私にとっては見えない速さだった。
そのイタチを……チャチャさんは仕留めた。それも一撃で。チャチャさんにとってこのくらいの速さは何の問題もないはず。だから……私はフラムに向かって確信を持って言えるんだ。
「大丈夫、チャチャさんは絶対に負けないから」
そして私の言葉を証明するかのように、チャチャさんの姿が掻き消えた。私の目にも、ほかの誰の目にもあの巨体が本当に消えたかのように見えた。獣人族のカルアですらチャチャさんの姿を見失って周囲を見回してる。私たちがこんななんだから、フェンリルはもっと驚いていると思う、だって目の間でいきなり敵が消えたんだから。
『馬鹿な! 何処に消えた!』
縦横無尽に動きながらも動揺を隠せないフェンリル。しばらくその動きを続けると、不意に声が聞こえてきた。
『ふっ……逃げたか。ならば遠慮なくエルフを喰らうまでよ!』
フェンリルが突然方向を変えて私のほうへと向かってきた。確かに速い。私たちだけならまともな反撃もできずに牙の餌食になっていると思う。だけど……チャチャさんは決して逃げてなんかない。自分よりも遅い相手に、自分よりも弱い相手に逃げるなんて選択肢を選ばない。
フェンリルが大きく口を開けて近づいてくる。時間がとてもゆっくりに感じられて、勝利を確信したフェンリルの目が喜色に染まるところさえはっきりと見えた。確かに終わりかもしれない。でもそれはきっと私じゃない、フラムでもない、ましてやカルアでもバドでもない。
『ぎゃんっ!』
フェンリルが短い悲鳴を残して私の前から消えた。どうして消えたかって? そんなの決まってる。フェンリルはあの守護獣の逆鱗に触れたからだ。そしてチャチャさんはゆっくりと空から舞い降りた、その口にフェンリルの首根っこを咥えたままで。悠然と立つその姿を見て、私は言葉にならないくらいの安心感を感じていた。
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