5.舞い降りた獣
それは予想通りの出来事だった。
鬼人族の男がフェンリルに軽くあしらわれ、フェンリルの行動を阻む者はいなくなった。誰もがそう思った。街の住人たち、ミルーカ家の兵士たち、そしてフェンリル自身、この場におけるほとんどの者がシェリーとカルアの末路を予想した。これで加護が得られると街の住人たちや兵士たちは根拠のない喜びを爆発させ、真実に全く気付かないおめでたい、そして哀れな獲物たちの姿を見てフェンリルはほくそ笑んだ。
自分の領地の姫を喜んで差し出すような連中だ、指示を出せばエルフを逃がさないように捕らえることも喜んでやるだろう。フェンリルはただ欲望のままに行動しているだけなのに、勝手に祀り上げてくれる愚か者たち。うまく誘導すればこれからもずっと獲物に困ることはないだろうとさえ考える。気が向けば生贄を要求すればいい、こいつらは喜んで差し出すだろうと。
だがまずはエルフだ。エルフを喰えば魔力が増えるとずっと昔に聞いたことがあった。今でも自分の強さは比肩する者がいないと自負しているが、さらに魔力が増大すればこの世界を支配することも夢ではない。忌まわしいドラゴンをも倒し、覇王として君臨することもあながち夢物語ではないのだ。
フェンリルがゆっくりとシェリーとカルアのほうへと歩みを進める。獣人の小娘は恐怖で顔が引きつっているが、エルフは……笑っていた。こんな状況で笑えるなど圧倒的な力を持つ強者か、あるいは恐怖のあまり精神が壊れてしまったかのどちらかだ。もちろんエルフの実力では前者になることはありえず、ならば後者ではどうなるかといえば……フェンリルにとってどうでもいいことだった。
精神が壊れようが、心が死のうがエルフの血肉に変わりはない。ただ喰らい、自分の力とするだけのこと。もう自分を止める者はいないのだから、こんな簡単なことはない。口から零れ落ちる涎もそのままにフェンリルはシェリーたちとの距離を詰めようとして……
誰もが思ったのは巨大な炎、フェンリルすらはるかに超える大きさの炎の塊が降ってきたと思った。フェンリルでさえそれが一体何なのか、誰も理解が追いつかなかった。たった二人を除いては。
カルアはその存在を知っている。そしてシェリーはその存在が如何に優しく、そして強いかを知っている。絶望の淵にいる二人を救うべく天空から舞い降りた炎の如き獣はフェンリルの行く手を遮るように立つ。フェンリルには一瞥もくれることなく。そして炎の獣の背中から、二人もよく知る人物が滑り降りてきた……
**********
「シェリー! カルア! 無事?」
チャチャの着けてるハーネスから体を外して柔らかい毛の上を滑り降りると、カルアはまだ呆然としていて、シェリーは嬉しそうに涙を流してた。傷だらけだけど命に別状のある怪我はしてなみたい。
「フラム……これは一体……」
「そんなのは後で! シェリー! 大丈夫?」
「フラム……フラム……うわああぁぁぁ」
近づいて抱き寄せれば、私に体を預けるようにして泣き出すシェリー。一体どれほどの恐怖を味わったのか、私にはわからない。でも大事な親友をここまで苦しめた連中を許すつもりはない。
「クーン……」
「チャチャさん……うわああぁぁぁ」
チャチャがシェリーの汚れた顔を舐めて綺麗にすると、シェリーはチャチャに抱き着いてまた泣き出した。チャチャが来てくれたという安心感がシェリーの心の堰を解放したんだと思う。でも、誰もそれを責めたりしないよ、それはシェリーのしたことが間違いじゃないと証明するかつての仲間がここにいるから。
「カルア、何があった?」
「シェリーはイタチから逃げ出し、イタチがミルキアを襲うことを報せてくれたんですの、自分の危険を顧みずに……なのに皆がシェリーをフェンリルに差し出せ、と……」
ふざけたことをしてくれる。大方フェンリルが要求したんだろうけど、それに従う連中も連中だ。そんなにフェンリルを崇めてるなら自分が優先して喰われればいいものを、街の危機を報せたシェリーを差し出そうとするなんてこいつらに誇りというものはないのか。いや、無い。無いからフェンリルの力の前に平伏してるんだろう。
「そ、それよりもバドを! 早く治癒を!」
「! 任せて! チャチャはシェリーをお願い!」
シェリーをチャチャに任せて倒れてるバドに駆けよれば、何とか生きてると言ったほうが早い状態だった。私の見立てでは右腕の欠損、全身に筋肉組織と神経組織の断裂、全身至る所の複雑骨折、このまま治癒をしたら間違いなくバドは再び歩くことが出来なくなる。それどころか寝たきりになるかもしれない。
でもそれはかつての私だったらの場合、今の私なら……元通りにできる。巨人の国で知った人体の秘密、それは私に大きな衝撃を与えた。かつての私なら治癒魔法をかけて終わりだった、でもそうしたらバドの骨や筋肉、神経はごちゃまぜに治癒してしまい、二度とまともな体に戻れなくなっていただろう。でも人体の知識は私の治癒魔法の概念を変えた。
「まずは断裂した神経を先に治癒して……次に骨と筋肉を……」
バドの体、特に神経と筋肉は外的要因じゃなかった。まるで無理やり動かしたような感じの断裂の様子に、昔バドが言っていた奥義のことを思い出した。剣に溜めた雷の魔力で身体を強引に動かすんだって言ってたけど、同時にとても体に負担をかけるとも言っていた。
それはきっと電気の力で筋肉を強制的に動かし、同じく電気の力で神経伝達の速度も早めてるんだと思う。巨人の国で見た、電気で筋肉を勝手に動かす道具をもっと大雑把にしたものだと思うけど、そんな危険な奥義を使ってまでシェリーとカルアを護ろうとしてくれた。
ありがとう、バド。おかげでシェリーは無事で、私たちは間に合った。バドが稼いでくれた時間がなかったらシェリーもカルアも生きていなかったかもしれないから。
私の治癒魔法でバドの体が元に戻っていく。筋肉の電気信号は正常、神経の電気信号も正常、骨には歪みも癒着もない。ネットで見て得た情報をもとに作った体の状態を観察する魔法では異常は見られなかった。ちぎれかかってた右腕も元通りになってる。うん、これで大丈夫。
『シェリー! 無事か? 無事なんだな!』
「そ、ソウイチさん? 一体どこに?」
『茶々の首につけてるマイクを使って話してる。良かった、無事だったんだな』
「ソウイチさん……ソウイチさん……うわああぁぁぁん」
スピーカーから聞こえてくるソウイチの声にシェリーが再び泣き出した。こんな状況から助かって、そこで聞いた大好きな人の声にまた感情が高まったみたい。ソウイチの声も少し震えてるから、ソウイチも嬉しくて泣きそうなのかもしれない。ソウイチの泣いてる姿を見れないのは残念だけど、今はそれよりも先にやることがある。
『貴様ら……我の獲物を横取りしようというのか』
フェンリルが怒りの感情を乗せた低い声で言う。私たちがフェンリルをほったらかしにしてるから怒ったのかもしれない。でもふざけたことを言わないで、私たちはそれ以上に怒ってるんだから。私の親友を、チャチャの家族を、ソウイチの婚約者を食べようなんて奴をこのままにしておけるはずがない。
「チャチャ、あいつがシェリーと食べようとした!」
「グルルル……」
チャチャが低い唸り声をあげてフェンリルを見る。フェンリルはチャチャの大きさに一瞬驚いたみたいだけど、そのあとは特段変わった様子はなかった。きっとチャチャがまだ魔力を使ってないからだと思う。イタチの延長線上の獣だと思ってるに違いない。街の住人たちは突然現れたチャチャの雄姿に言葉を失っている。
チャチャはじっとフェンリルのことを見てる。フェンリルの力を見定めているのかもしれない。シェリーのそばに戻って震える手を握りながら状況を見守る。張り詰めた空気が辺りに満ちて、一触即発の様相を……
『あははははははは! なにこれ! 超ウケるんだけど!』
突如聞こえてきたのはハツミの笑い声。何してんのハツミ? 緊張感ある空気が台無しだよ……
読んでいただいてありがとうございます。




