3.影
イタチの攻撃はフェンリルには通用しなかった。ううん、確かに効いてた攻撃もあったんだけど、フェンリルの力がイタチの経験したどんな獣との戦いをも上回っていただけ。それに……イタチの毒液(シェリーはイタチの発する臭い液体を毒ガスの素のように考えている)もフェンリルに効果が薄かった。調べた情報ではイタチの毒液は皮膚につくと簡単には臭いが取れないってことだったのに……これもフェンリルの持っている能力のうちなの?
フェンリルの吐くブレスで消滅したイタチ。その様子を見て住人達はもちろんだけど、増援に来た兵士たちもフェンリルに声援を送り始めた。それは当然だと思う、だってこの場にいる人たちのほとんどはフェンリルの本性を知らないんだから。傍から見ればイタチは街を襲撃した悪い魔獣で、フェンリルはそれを倒して街を護った神獣様、皆が興奮するのは当たり前のこと。
でもカルアとバドはフェンリルの要求を直接聞いてる。フェンリルがどれほど横暴な獣かわかってる。だけどいくらそれを説明しても誰も耳を貸そうとしない。それどころか私たちに罵声を浴びせてきて、石を投げつけられるまでになった。至る所から聞くに堪えない罵りや怒声が聞こえ、雨のように降り注ぐ石が体に当たる。バドが体を張って防いでいるけど、それでも完全というわけにはいかなかった。体に、頭に、顔に小石が当たり、うっすらと血が流れることもあった。
痛い。痛い。この痛みは石が当たったからじゃない。もう忘れたはずの遠い昔の嫌な記憶がこの状況によって断片的に呼び起される。はるか昔、まだ私が最果ての森に住みつくより前の記憶。私が……エルフの隠れ里から追い出された時の悲しい記憶。
あの時もそうだった。皆に危機を報せようとして、その結果私は里を追われたんだ。いつも私の面倒を見てくれた里の大人たち、昨日まで一緒に遊んだ友達、里のあらゆる人たちが私に怒声や罵声を浴びせ、怒りの表情で石を投げる。中には矢を射かける人もいた。どうしてそんなことをされるのか、全く理解できないまま里を逃げ出して、そして彷徨い歩くうちにたどり着いたのが……最果ての森。
その時のことが思い出されて、ミルキアの街の人たちと重なって、思い出したくない記憶ばかりが甦ってくる。耳を塞いでも目を瞑っても消えることのない記憶が私の心に突き刺さる。
どうしてこんなことをするの?
私は皆が危険な目に遭わないようにと思っただけなのに。
私の何がいけなかったの? 私がここに来たからいけなかったの?
もうわからない。何もわからない。何が正しいの? 何が間違ってるの?
微かに思い出されるのは巨人の国での楽しい思い出。時には危険なこともあったけど、それ以上に楽しい思い出。得体のしれない私のことを家族として受け入れてくれた優しい人たち。私を探しに来てくれて、私と同じように彼らの家族となった親友。そして……生涯の伴侶を約束してくれたソウイチさん。
「もう嫌……嫌だよ……助けて……ソウイチさん」
楽しい思い出だけを集めていたいけど、周りから浴びせられる罵声の汚い言葉や小石のぶつかる痛みが私を現実に引き戻す。もう何も感じたくないのに、全身に与えられる責め苦が私を締め付ける。締め付けられるたびにソウイチさんたちとの楽しい思い出が絶望に塗りつぶされていく。縋りつこうとした思い出が私の心の奥底へと沈んでいく。
何とか目を開けるとバドがフェンリルと戦ってる。押してるようにも見えるけど、たぶんそれは違うと思う。だってフェンリルが余裕の表情を崩してないから。そしてバドの攻撃が鈍くなっていくのを朦朧としながら見てた。バドは必死になって戦ってくれたけど、フェンリルに噛みつかれて、私たちのほうに放り投げられた。誰の目から見ても重傷で瀕死なのに、誰も助けようとしない。治癒魔法を使えないカルアが叫ぶけど、誰も助けてくれない。
私が治癒魔法を使えばいいのかもしれないけど、住人達の罵声が頭の中を巡って魔法に集中できない。精霊たちの力を借りようとしても精霊たちがいつもと違って騒いでいるので私の呼びかけが届いてない。何もかもが悪い方向へと進んでいくのを止められない。そして状況は最悪の方向へと進んでる。私たちがフェンリの餌食になるという最悪の結末に向かって……
嫌だ、死にたくない。せっかく長い間求めていた家族の温かさを手に入れたのに、私をエルフという種族じゃなくシェリーという存在として受け止めてくれる人に巡りあえたのに、こんな最期なんて酷すぎる。それはきっとカルアとバドも同じ、こんな最期なんて誰も望んでない。冒険者として依頼に失敗して命を落とすことは覚悟してたけど、こんな終わり方は嫌だ。周りから死を望まれて、その通りに死ぬなんて絶対嫌だ。
『……来るよ……来るよ……』
それでも最後の足掻きとばかりに、精霊魔法を使うために必死に精霊たちに呼びかけていると、不思議な言葉が返ってきた。いつもは精霊の意思はイメージとして伝わってくるばかりだったのに、はっきりと言葉が聞こえてきた。精霊の加護を持ってる私でもこんなことは初めてで、何が起こってるのか理解できないでいると、精霊たちはさらに続けた。
『……来たよ……来たよ……』
何が来るの? 精霊たちがこんなにも騒ぐほどの存在って一体どういうものなの? 風の精霊が忙しそうに飛び交い、大地の精霊が近づきつつある何かに備えて石畳を強化してる。少数だけどこの場にいる火や水の精霊たちはやや遠巻きにこれからここにやってくるだろう存在を興味深そうに待ってる。お願い精霊さんたち、一体何がここに来るのか教えて?
『……来たよ……炎の獣が来たよ……我々の愛し子を救いに来たよ……』
愛し子っていうのは精霊たちが私たち加護を受けた者を呼ぶときの呼び名。でもそんなことよりも……炎の獣って……何だろう? 地獄の番犬ケルベロス? 炎の化身ガルーダ? まさかイフリート?
「……っ!」
突如私に向かって吹く一陣の風、そしてその風が吹いてくる場所を見た。大きな満月の光の中に存在する明らかに異質な影、その影はまっすぐこちらに向かって近づいてくる。そして……風の精霊が届けてくれる声に一瞬耳を疑った。忘れるはずがない、私がその声を聞き間違えるはずがない。ここでその声を聞くはずがない。混乱しながら大きくなってくる影を見つめて、うっすらとその正体を見た私はもう涙が止まらなかった。そうか、炎の獣ってそういうことだったんだ。
来てくれた。私を助けるために来てくれた。自分たちの身の危険を顧みず、私のところに来てくれた、私を助けるために。長い間一緒の時を過ごし、一緒に幸せになると約束した親友の声と、いつも私たちを見守ってくれていた優しい守護獣の声を聞きながら、私は涙を流し続けていた。
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