8.炎の獣
「ワンワン!」
「お帰り、お兄ちゃん」
帰宅した俺を出迎えてくれたのは、雨戸が開いた途端に飛び出してきた茶々と初美だった。茶々はいつものように車からやや離れた場所でお座りして待ってる。尻尾がちぎれんばかりに振られているのが微笑ましい。
「どうだった?」
「渡邊さんには話しておいたから、迂闊に誰かが入ることはないと思う。それから、渡邊さんとこの鶏がイタチにやられたらしい。それも昼間に」
「嘘? だって渡邊さんとこってジョンがいるじゃない」
初美も上京したとはいえ田舎出身、俺と同じ疑問を抱いたようだ。特にジョンは初美が小学生の頃渡邊さんのところにやってきて、初美は子犬のころからよく一緒に遊んでいた。その能力が決して低くないことも分かっている。そんなジョンを掻い潜って鶏を狙うことの難しさもだ。
「奥さんがイタチの鳴き声を聞いたそうだから間違いないだろ。散歩に行こうと連れ出した隙にやられたらしい」
「それっていつ?」
「一昨日の昼だとさ」
「たぶん雄だよね? 今の時期の雌は危険なところには近づかないはずだし」
初美の推測は的外れなものじゃない。今の時期のイタチの雌は身籠っているか、もしくは出産直後で危険な場所には近づかない。そもそも今の時期は山に食べ物が多く、イタチの主食である小動物が多い。犬や人間に見つかる危険を冒してまで出張ってくることはないはず。だが雄の場合は違う、子育てをしないので自由に移動できる。
「雄なのは間違いないと思うけど、態々山下りるか? 餌が無いはずないじゃないか?」
「そう言われればそうだね……どうしてだろ」
「そこはイタチに聞いてみないとわからないな。一応万が一の準備をしておいたほうがいいかもな」
「……やっぱり次郎が気になるの?」
「ああ、アイツはこの山のボスだ、力の格付に逆らうことはない。もしアイツがそれを破ればこの山の秩序がなくなるからな。そんなアイツが茶々の縄張りに入ってくるってことの意味がわからない以上、それなりに準備をしておかなくちゃな」
準備というのは寝室の金庫の中にあるモノのことだ。中に入ってるのは散弾銃とライフル、ライフルは昨年ようやく所持許可が下りた。ライフルは散弾銃を所持して十年経たないと許可が下りず、尚且つ熊、鹿、猪にのみ使用可能だ。ライフルはまだ使い慣れていないので、できれば散弾銃にしたいところだが、はっきり言って散弾銃では対猪に使うには心許ない。
通常鴨撃ちに使われるような散弾ではまず倒せない。猪というと野生の豚の凶暴にしたやつ、くらいの認識しかない人が多いと思うが、実は全身筋肉の塊のような動物だ。鳥撃ちの散弾程度ではその筋肉の鎧を貫通できない。もちろん一粒弾も用意はしてある。スラッグ弾とも言われる強力な弾丸だが、なにぶん射程が短い。およそ五十メートル強しかない。それはつまり、もし外せばこちらが襲われる可能性が非常に高い至近距離での攻防になる。なので猪駆除は基本的に罠を使うが、生憎俺は専門で猟をしてる訳じゃないので罠は持っていない。
「……出来れば使ってほしくないよ」
「万が一のための準備だよ」
やや声のトーンを落とした初美の頭を軽く撫でる。初美も銃を使う意味をよく理解しているからこそ、できれば避けてほしいと思っているに違いない。もし俺が初美の立場なら間違いなく止める。野生の獣と至近距離で向かい合うということが正気の沙汰じゃない。けどな、もしお前が獣に襲われることがあったら、俺は躊躇いなく銃を手に取るぞ。そんなことがなければいいがな。
「とにかく中に……」
「どうしたの?」
「今何か聞こえたような……」
小動物の鳴き声のようなものが聞こえたような気がした。ほんの一瞬だが、あれはイタチの鳴き声じゃないのか? それも家の中から。イタチが鳴くことはそう多くないが、敵を威嚇するときに時折鳴く。じゃあ家の中で何に威嚇する必要がある?
「嫌あぁぁっ! 助けてぇぇぇっ!」
「茶々!」
突然聞こえてきたシェリーの叫び。おそらく彼女が使ってくれた『声を届ける魔法』の効果だろうか、まだ距離があるはずなのに、その叫びはとてもはっきりと聞こえた。
「お兄ちゃん!」
「分かってる!」
茶々は叫び声を聞いた瞬間に弾丸のように走り出していた。吠えずに走っていくのは、敵を逃がさないようにするためだ。我が家の敷地内と畑は茶々の縄張りであり、お気に入りのシェリーを襲おうとしている者を許すつもりは無いということだろう。ここまで怒りを露わにする茶々を見るのは久しぶりだ。
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茶々は怒っていた。もちろん縄張りを侵されたこともそうだし、そいつがシェリーを狙ったこともだ。だがそれ以上に、シェリーから目を離した自分に怒っていた。宗一からシェリーのことを任されていたにもかかわらず、宗一の帰宅に安心してしまった自分の不甲斐なさにだ。茶々にとってシェリーは自分の妹のようなものでもあり、娘のようにも感じていた。茶々はまだ身籠ったことはないが、母性のようなものが芽生えていたのかもしれない。それほど大事なシェリーが襲われている。そう気づいた時には既に走り出していた。宗一の指示など待っていられなかった。
縁側を駆け上がり、勢いそのままに居間に入れば一匹の獣がシェリーに襲い掛かろうとしていた。壁際に蹲り、頭を抱えて震えているシェリーを喰らおうとする小さな獣。縄張りを侵すだけでなく、自分の大事なものを奪い取ろうとする不届き者。茶々の怒りは頂点に達していた。
茶々は考える。あの次郎とかいう獣は分をわきまえていた。勝負に勝った自分に対してしつこく仕掛けてくることもなく、縄張りを侵すことしない。なのにこの小さな獣はそのルールを破った。縄張りを侵すだけならば追い払うだけでもいいが、大事なシェリーを喰らおうとした。これは絶対に許せなかった。
殺す。確実に殺す。茶々はポメラニアン、身体こそ先祖返りの兆候で大きくなったが、闘犬のように戦いを専門にしている訳じゃない。だが怒りが脈々と受け継がれてきた本能を呼び覚ます。どこを狙えば確実に敵を仕留められるのか、そして己の武器を如何に使えば良いのか、茶々は誰に教わるでもなくそれを理解する。
存分に引き絞られ放たれた矢のような勢いで駆け抜けると、シェリーに向かって飛び掛かるイタチの首に狙いを合わせて跳躍する。既にシェリーに目標を定めているイタチは茶々の攻撃を躱すことが出来ずに無防備な首を噛みつかれてしまう。分を弁えた者ならばここで少しばかり痛めつけて解放してやるが、こいつは違う。茶々は容赦なくその顎を閉じ、イタチの首の骨を噛み砕いて絶命させた。
**********
茶々に遅れて居間に入れば、もう決着はついていた。茶々はイタチの喉笛を噛み砕き、イタチは完全に絶命していた。一方のシェリーは壁際で座りこんでいるが、外見の異常は見られない。
「シェリーちゃん! 大丈夫!?」
「ハ……ハツミさん……」
「怪我してるじゃない! こいつがやったのね! 茶々、さっさと捨ててきなさい!」
茶々も相当怒っており、初美の指示に従って外へと歩いてゆく。出来れば山のほうに捨ててきてほしい。家の傍にイタチの死体があるのはいただけないし、変な虫が寄ってきそうだ。
「シェリーちゃん! 今手当するからね!」
「だ、大丈夫です……『我が身を癒せ、癒しの風』」
「うわあ……」
初美が絶句するのも当然だ、シェリーの腕にあったいくつもの傷がビデオの逆再生を見ているかのように塞がり、綺麗な肌に戻ってゆく。こんなに早く治癒する治療法なんてこの世界のどこを探しても存在しない。
「あ、チャチャさん! 待ってください!」
傷が治ったシェリーは若干ふらついてはいるものの、しっかりとした口調で茶々を呼び止めた。当の茶々もそうだが、俺も初美もシェリーが何の意味があって呼び止めたのかは分からないが、シェリーにさっきまでの怯えた表情は無く、何かを期待しているようにも見えた。茶々はどうしたらいいのか分からないといった様子でこちらを見ている。
「シェリー、どうするつもりなんだ?」
「もちろん解体ですよ! 捨てるなんてとんでもない!」
「「 は? 」」
俺と初美はシェリーが何を言っているのか全く理解できなかった。それは当然茶々も同じで、イタチを咥えたまま首を小さく傾げていた。
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