12.決着
「な、何なんですの、この臭いは……」
イタチがフェンリルに背を向けた後くらいから、周囲に嫌な臭いが漂い始めました。風のおかげでわずかに感じる程度ですが、それでも不快感を催す悪臭です。もしかしてこれはイタチが魔法を使ったのでしょうか? まさか毒の成分が含まれたガスを発生させる魔法を使えたのでしょうか? しかしシェリーの話ではイタチは魔力を持たないはず、それに魔法の発動の気配が全く感じられません。
もし魔法の兆候があればフェンリルも警戒していたはずですが、そのフェンリルはこの得体のしれない攻撃をまともに喰らって未だ動けずにいます。ということはイタチはフェンリルに全く警戒されることなくこの未知の攻撃を仕掛けたということになります。まだこんな奥の手を持っていたとは、どこまで底知れない獣なのでしょうか。
イタチは苦しみ続けるフェンリルをしばらくの間眺めていましたが、ゆっくりとその場を離れるように歩き始めました。まさか……ここで逃げるというのでしょうか? ですがフェンリルもこの状態ですし、立ち去ってくれるならこちらとしても助かりますが……
「ダメ! イタチを逃がしちゃダメ!」
「キィッ!」
突如発生した風の渦がイタチの動きを遮ります。そして声の主はシェリーです。彼女は必死の形相で風の精霊に力を借りて魔法を維持していました。
「この臭いはイタチが放ったものよ! このままイタチを逃がしたら再び狙われるわ! ここで何とか決着つけないと!」
シェリーは魔法をコントロールしているせいでこちらを向くことはできませんが、私たちに聞こえるように声を振り絞っています。それだけ危険な獣だとでもいうのでしょうか。
「シェリー! 逃げるのであれば深追いは……」
「あいつはこの街を餌場にするわよ! ずっと狙われ続けるのよ! ここで仕留めないと!」
「餌場……ですって?」
あのイタチがこの街を餌場にしようとしている……それはフェンリルとイタチという二つの災厄にずっと狙われ続けるということになります。そんなこと到底受け入れることはできません。その為にもシェリーはイタチの足止めをしているんですのね、ここで逃がすことは何の決着にもならない、むしろイタチに余計な知識を与えてより狡猾にさせてしまうということを言っているんですのね。
ですが私たちにイタチを倒す決定的な力がありません。シェリーの魔法は足止めを続けるのが精いっぱいで、そこから攻撃に移ることが出来ません。バドが攻撃を仕掛けようとしていますが、結界のように渦巻く風の魔法に阻まれて近寄ることができません。何か方法はないものかと模索しますが、いい考えが浮かびません。
『貴様……許さんぞ……』
体が凍り付くような殺気に満ちた声にシェリーを除く皆の動きが止まります。見れば先ほどまで蹲っていたフェンリルが立ち上がり、ゆっくりとイタチと距離を詰めています。顔が濡れているのは顔にかけられた臭いの元を水魔法で洗い流したからでしょう。その水はシェリーの魔法によりどこかへ飛ばされています。もしかしたら先ほど私たちの背後から吹いていた風もシェリーの魔法だったのかもしれません。このことを見越して臭いが届かないように護ってくれていたんですわ、フェンリルがあそこまで苦しむ悪臭を嗅覚の敏感な獣人がまともに嗅いだら危険だと判断してくれたのですね。
『小娘、でかしたぞ。ふざけた奴め、我にここまでのことをしておいて、逃げようなどとは……』
フェンリルは圧倒的な殺気を纏ってイタチに近づきます。その場にいては危険と判断したのでしょう、シェリーは魔法を維持したまま徐々に距離をとり、やがて私の隣まで戻ってきました。顔中に浮かんだ汗の量から相当負担がかかっているのでしょう、肩で息をしながらも魔法をコントロールし続けています。
「カルア、イタチは最後まで油断しちゃダメよ。さっきのは臭いニオイで敵を攪乱する最後の手段だけど、今ここで逃がしたらフェンリルよりも怖い存在になるかもしれないわ。常にフェンリルが相手してくれるとは限らないんだから」
「そ、それはそうですが……」
『小娘、魔法を解け。すぐに決着をつけてやる』
フェンリルの言葉にシェリーが魔法を解きます。魔法による障害が無くなったイタチは何が起こったのかわからないといった様子で周囲をきょろきょろと見まわしていますが、フェンリルの姿を見て慌てて逃げ出そうとします。しかしフェンリルはそれを見ても不敵な表情を崩さずに言います。
『小娘、感謝するぞ。おかげで奴を倒す目算がついた』
フェンリルは一声高く吠えると、シェリーが放ったような風の障壁を発生させてイタチの動きを止めました。シェリーのものよりも範囲をイタチの身体ぎりぎりに絞った障壁はイタチの身体をその場に固定しました。フェンリルはさらに吠えると、今度はイタチの身体の真下から楔のような岩塊がせり出してきます。イタチはその柔軟性に富んだ身体で避けようとしますが、固定された身体では身動きすることができません。
「ギィィッ!」
イタチの胴を貫く複数の鋭い岩槍、くし刺しにされたイタチは苦し気な声をあげてもがきますが、短い手足のせいで抜くことができません。じたばたと手足を動かし身をよじっても、岩槍はイタチの自重のせいでより深く刺さるのみです。このままいけばしぶといイタチとて死を免れることは出来ないでしょう。しかしフェンリルはそれを待つつもりなど微塵もないようです。
『貴様は残骸すら残さん! 消えてしまうがいい!』
未だくし刺しのままのイタチめがけてフェンリルは閃光のブレスを吐きました、それも十分に力を溜めた威力抜群の一撃を。避けることもできず、魔力障壁を持たないイタチはブレスをまともに喰らいました。
「ギッ……」
上半身にブレスを受けたイタチは断末魔すら最後まで上げることが出来ずに絶命しました。身体の上半分は消滅し、残るのは痙攣を続ける下半身のみです。いくらイタチがしぶとく狡猾だとはいえ、ここまでになってしまえばどうすることもできないでしょう。しかしフェンリルは手を抜くつもりは毛頭ないようでした。
『言ったはずだ、貴様は残骸すら残さんと』
残ったイタチの下半身めがけてフェンリルが再度ブレスを放ち、ついにイタチの存在がこの世界から消えました。それを見ていた観衆からは一斉にフェンリルを讃える声が上がりました。まるで祭りのように熱狂している街の住人達や兵士たちですが、私の思考はとても冷め切っていました。何故ならフェンリルの獲物は私であり、その次の獲物は街の住人の誰かということになるのですから。
フェンリルはしばらくイタチのいた場所を見つめていましたが、やがて踵を返すと私たちのほうへとやってきました。どうやら今こそ勝負の時なのですね。勝ち目などほとんど無い絶望的な戦いではありますが、諦めなければ勝機は見つけられるはずです。もし諦めていたら勝機そのものが無くなってしまうのですから。
『……ん?』
突如フェンリルが足を止めて一点を見つめました。その顔には驚きと喜びが一緒に訪れたような複雑な色が見られましたが、その意味をフェンリルが発する次の言葉で理解しました。
『そこにいるのはエルフではないか。小娘、でかしたぞ、そこのエルフを差し出すのならば貴様は見逃してやろう』
フェンリルが驚愕した理由、それは私の隣にいる親友のエルフの姿を見つけたからでした。
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