10.巨獣激突
「おい、フェンリルの奴アイツとやりあうみてえだぞ」
バドが複雑な表情を浮かべて私のほうを見ています。フェンリルがイタチと潰しあってくれるのは有難いことですが、そうなれば両者共倒れを願うほかありません。おそらく、いえ間違いなく勝ち残ったほうがこの街を蹂躙するでしょうから。住人達は熱病にうなされたようにフェンリルを賞賛していますが、彼らは状況を知りません。本来ならフェンリルは三日後にここに来るはずだったという事実を。
我々との約定など守るつもりがないことの証左、私にはそれがわかります。イタチに相対しているのは自分の獲物が横取りされそうになって怒っているだけです。結局のところ、街が危機に晒されていることに変わりはありません。住人達に詳しく説明したいところですが、このありさまではまともに話を聞いてもらえないでしょう。
「シェリー、イタチとフェンリルどちらが勝つと思いますか?」
「……わからない。チャチャさんならイタチなんて敵にすらならないけど、フェンリルの強さを見たことがないから……」
シェリーの言う「チャチャさん」とはソウイチ殿のところにいた守護獣のことですわね。圧倒的な存在感を持ったあの獣ならば全く問題ないのでしょう。それどころかフェンリルすら凌駕するかもしれません。ですがあの獣はあちらの世界にいます、ここで無いものねだりをしても仕方のないことです。
「フェンリルが仕掛けたぞ!」
バドの声に思考が現実に引き戻されます。フェンリルはイタチに向かって魔法を放ちました。フェンリルの周りに浮かんだ無数の光球が一斉にイタチめがけて降り注ぎます。私たちと相対した時にはあのような魔法は使いませんでしたので、やはり本気など全く出していなかったのでしょう。誰もが初めて見るフェンリルの本気の魔法にイタチの最期を想像しました。ただ一人を除いて。
「ダメ! あれじゃダメ!」
「キイッ!」
シェリーの危惧を体現するかのように、降り注ぐ光球を小さく叫んで躱すイタチ。時には大きく、時には小さく体を動かして光球を躱していきます。外れた光球が街を破壊していますが、私たちにそれを止める術はありません。もしフラムがいてくれたら防御結界で防ぐこともできたのでしょうが……
『小癪な奴よ! ならばこれはどうだ!』
さらにフェンリルが魔法を使います。炎が、氷が、風がイタチを襲いますが、その都度イタチは素早い動きで魔法を躱しています。まさかあれは……魔法を見てから躱していますの? 一体どれほどの身体能力を備えているというのでしょうか。そして私たちに対してイタチも本気を出していなかったということを知りました。先ほどの私たちとの闘いとは比較にならないくらい今の動きは素早いです。もしこの動きで最初から攻撃されていたら、私たちは数分も持たずに全滅していたはずです。
シェリーが自らの危険を顧みずに報せに来てくれた理由を改めて実感し、彼女の優しさが胸に染み入ります。イタチがこれほどの獣だと知らずに襲われていたら、今頃この街は血の海となっていたのかもしれません。ですがこの強さならもしかすると……身勝手な想像ではありますが、イタチとフェンリルが共倒れになってくれれば私たちは助かります。異形の獣と相討ちとなれば、他への言い訳も立つというものです。ですが……
「ありゃイタチが圧倒的に分が悪いかもしれねえな」
バドの零した呟きが私の儚い幻想を粉々に打ち砕くとともに、戦いは一層苛烈なものになっていきました。イタチは未だフェンリルの魔法の直撃を受けておりませんし、イタチも攻撃を当てることができていません。まだお互いに決定的なダメージを与えていないというのに、一体何が勝敗を分けるというのでしょうか。
「イタチは確かに厄介な相手だが、魔力を持たねえってのは大きなマイナスだろ。いつまでも避け続けられるとは思えねえし、直接攻撃も障壁を突破出来なきゃ威力も半減するだろ」
「うん、フェンリルも大人しく攻撃を受けるとは思えないしね」
「ああ、だから長期戦になったら圧倒的に不利だぞ。動きが鈍ったところでブレスを使われたら……避けきれねえかもな」
「そ、そんな……」
私の抱く期待がとても都合のいいものだということはわかっていますが、結局のところこの街に危機が迫っているということに変わりはないということに衝撃を受けてしまいます。その間にもフェンリルは魔法を放ち続け、イタチはそれを躱し続けています。フェンリルはイタチがここまで自分の魔法を躱してしまうことが気に入らないのか、躍起になって火や氷といったわかりやすい魔法を中心に放っています。おそらく躱すという行為が自分を馬鹿にしているとでも思っているのでしょうか。
「キィッ!」
『ぐっ!』
状況を見守っていると、イタチが突如攻勢に出ました。魔法を避け続けた結果生まれたフェンリルの一瞬の隙、魔法を放つための僅かなインターバルを目聡く見つけたイタチが一瞬で距離を詰めるとその勢いを余すことなく振るう爪へと伝えます。障壁で弾き返せるものと見積もっていたフェンリルですが、イタチの攻撃力の高さが予想外だったのでしょう、その勢いを弾くどころか殺しきれずに攻撃を喰らってしまいました。爪での攻撃は止められたものの、イタチの巨躯をそのままぶつけられたフェンリルは障壁ごと吹き飛ばされます。想定していなかったダメージを受けたフェンリルは苦し気に顔を歪ませます。
しかしフェンリルはすぐさま立ち上がり、イタチと距離をとります。イタチも決定的なダメージを与えていないことを理解しているのでしょうか、勢いに任せて追撃することなくフェンリルの様子を探っています。魔力を持たない獣というものはこの世界には存在していませんが、まさかここまでの強さを持っているとは……やはりこれならば……
「……あのまま押し切ればよかったのかもしれねえな」
「うん、フェンリルが冷静になっちゃったわ」
二人の言葉に耳を傾けながら二頭の巨獣を見ると、フェンリルは怒りを表すことなく様子を窺っています。一分の隙をも窺わせないフェンリルの姿は私たちが相手をしたフェンリルとは全く別物のように感じます。もし私たちがフェンリルに同じようなダメージを与えたとしたら、きっと怒り狂って無差別に魔法やブレスを放っていることでしょう。フェンリルはようやくイタチを自分が全身全霊をもって戦うべき相手だと認識したと考えるべきですね。
ですがそれはイタチにとって不利な流れになっていることにほかなりません。こうなってしまった以上、フェンリル有利なのは誰の目から見ても明らかなのですから。高位の魔物や魔獣は皆魔力による障壁を持ち、通常ならば魔力の込められた独自の攻撃手段を使って障壁を削り、それが無くなったところで初めて直接攻撃に移ります。もっとも障壁が脆い敵、弱者に対しては牽制などせずに強引にいくこともありますが、大概は魔力を使うことが前提となります。
イタチの武器はその身体能力と爪と牙、魔力に頼ったものではありません。俊敏かつ読めない動きによる一撃離脱の戦い方が主体だと思われますが、その攻撃が通じるのは障壁を突破したとき、敵が油断しているときくらいのものでしょう。事実イタチは冷静になったフェンリルを攻めあぐねています。私たちには通用する身体能力も次第にフェンリルは把握しつつあります。そして最も顕著なのは……
「イタチの動きが鈍ったな」
「たぶん……ほとんど餌を食べていないからだと思う」
イタチは羊を一頭食べていますが、あの巨体を維持するには到底少なすぎます。もしイタチが羊以外に何も食べていないとすれば、当然今頃は空腹に苦しんでいることでしょう。そんな状態では十全の力を出すことなど到底不可能です。そしてそれをフェンリルは認識しているのでしょう、無理に仕掛けなくとも敵は弱っており、確実に仕留められる攻撃を叩き込む隙を待っているのかもしれませんわ。
二頭の巨獣は距離を保ったまま相手の出方を探っています。ですがその時間は決して長くは続かないでしょう、何故ならイタチにはこれ以上戦いを長引かせる余裕などないのですから。このまま無駄に時間を使えばその分自分が衰弱しますから、早いうちに勝負に出なければならないのです。
巨獣の戦いが終盤に入ったことを察知したのか、あれほど神獣を讃えていた声が止み、周囲に静寂が訪れます。吹き抜ける風の囁く音と巨獣の息遣いがはっきりと感じられる中、月光に照らされた巨獣がゆっくりと動きます。じりじりと距離を詰め始め、やがてその速度は上がってゆきます。それはこの一撃で決着をつけるという覚悟が双方にはっきりと感じさせる力強さを感じさせる躍動でした。
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